『非美学』読みながら”漫画の概念”は何だろうと考える
非美学を読んでいて(まだ序論)「映画”の”概念」という話が出てきた。「映画についての概念」ではなく「映画の概念」「映画が喚起する概念」。
今まで、整理できていなかった事が言葉になった。簡単な話ではあった。映画ゆえに語れることがある。哲学を介す事なく、映画はそれ自体によって物事を語っている、という事の提示。感覚ではわかっていたが、言葉でわかっていなかった。
哲学を知っていれば物事を語りやすくなる感覚があった。それゆえに、哲学をメタ言語のように考える”気分”が自分の中に、まだあった、ということに気づいた。
実際、何かを語る為に有用な道具だったし、世界について、事柄について、言葉で洞察すること自体が好きだった俺に、読んだり書いたりする喜びを与えてくれた。
昔からダークモードのTwitterで140字パンパンのツイートをするのが好きだった。中学生から高校生の頃は、個人的な洞察をだらだら述べる事に躊躇いを持たなかった。誰かととりわけ繋がっているわけではなかった。しかし大学に入りコミュニティが広がると、周囲の人間の方がよっぽど正確に物事を掴み、言葉を使いこなしていた。すると何かを書くことが出来なくなった。ダサい事しか考えてない、幼稚な自分が情けなくなった。かつて自分の中にあった、あの全能感はどこへやら。取り戻したかった。そのために本を読んでいる側面がある。
全能感は戻ってこなかったが、何かを語る事にも躊躇いが少なくなり、ダサいことばかり考える自分も許容するようになった。成長したからではなく、単純にオッサンと呼ばれるものに近づいているからだ。自分を戒める他者が少なくなり、恥じらいがなくなったからだろう。恥じらっていても鬱屈としていても、世界や人が慰めてくれるわけじゃないし、日々生き、働いて金も稼いでいるし、もういいや、別に死ぬわけじゃないしどうだって、という、投げやり。
何かを語りたい、という事の別の形として、中学生の頃から、漫画家になりたいという気持ちがあった。スタートを切ったのは完全に手遅れの年齢になってからだったが、俺は漫画が大好きだし、漫画を描くのが大好きだ。いっぱい本を読んで哲学や言葉と仲良くなってきた今でも、漫画でしか語れない感覚があると、漫画を描く事でしか得られない快楽があると身体で理解している。描けば描くほどわかる。何かが自分の中にあり、その何かを漫画の形態でかたどっている。
で、ここで本題に戻る。漫画の概念とは何ぞやと。薄らぼんやりと常に考えている事でありながら、はっきりと言葉にすることを試みたことはなかった。
キーワードは「時間」であると思う。
漫画において「時間」は、第一に
「コマ割り」を通して構成されるもの。
今ここじゃない時間を
「コマ割り」を通して体験すること。
加えて言うのであれば、
複数の「時間」において
幻惑したり撹乱すること。
今体験しているこの時間以外に
別の時間があるなんて”あり得ない”。
この”あり得ない”を”いとも簡単に”
可能にする、そのユーモアにこそ、
漫画の漫画たる所以、コミカルさがある。
例えば「ドラえもん」だろうか。
時間を飛ぶ。それによって、
悪い未来を回避するというのは
いかにも馬鹿馬鹿しい
”あり得ない”事である。
顔と性格が悪いジャイ子を捨てて
顔と性格が良いしずかちゃんという
”良い”現実を掴み取るという基本設定は
よく考えると普通に酷い話なのだが、
”そんなことはあり得ない”
”現実はただ現実である”ことが
共有されていることを前提に
構成されたユーモアである。
複数の現実をコメディ化することだ。
藤子・F・不二雄は
様々な作品でその傾向がある。
時間を飛ぶというのは
空間を飛ぶということでもある。
NARUTOで言うと幻術。
特に「月詠」時空間忍術。
当事者にとって月詠空間は
72時間という具体的な時間が
流れる、真なる悪夢である。
同時に、読み手においても、
複数の現実が、同じ平面(紙面)に
真なる状態として存在している。
複数の次元を、コマからコマへ、
軽やかに”ジャンプ”する、
この視界のトリッキーさが漫画だ。
漫画界には過去編という言葉がある。
例えば、ONE PIECE空島編の過去編は長かった。
主軸となる現実時間や主人公の冒険から離れ、
過去の出来事と人物に感情移入して、
現在に至る過程を深く長く洞察する。
それをじっっっくりと体験させられる。
それは、時間がスローになるのとは違う。
何日も何年も過去の生の時間を過ごす。
これも漫画らしさ。
漫画において最も得意な表現とは
フラッシュバックや走馬灯だと思う。
映像でも、フラッシュバックや走馬灯の
表現はできるとは思うが、この私が
漫画において評価している事が一点ある。
映像の場合はカメラが一つなのだが、
漫画の場合は同じ頁にカメラが複数、
究極は何十個も存在できる点がそう。
空と地面を映しながら近景の人物を映しながら
遠景の人物を映しながら一つの”瞬間”を作る。
「進撃の巨人」にて、巨人の能力で
過去、現在、未来の記憶が
エレンの元に一瞬のうちに”蘇る”、
そして全ての答えに辿り着く”瞬間”に
漫画の能力が発揮されていた。
地元最高!という漫画が好きだが、
薬物中毒者の世界においては、
時間や空間や存在が、コマ割りごと歪む
漫画においては、人物も時間も基本的に線だ。輪郭だ。
我々の顔に輪郭線はないが、漫画には輪郭線がある。
漫画にはコマ割りという時間の輪郭線がある。
輪郭を少し間違うだけで、いとも簡単に現実が歪む。
このあり得ないほどの容易さがきっと重要だ。
輪郭。これがきっとキーワードだ。
輪郭とは、大筋ー概要ーアウトライン。
世界や物事や人物を概観し
アウトライン化するからこそ
経験できる何かがある。
輪郭の経験。あるいは、輪郭の外の経験。
それが漫画の概念ではないか。
まだ序論しか読んでいないのだけれど、
そんなことを考えていた。
とても楽しませてくれそうな本で嬉しい。
学生時代から『存在論的、郵便的』と
『動きすぎてはいけない』を何度も読み直してるが
人の博論本は人の念が濃くて本当に好きだ。
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