長い自分語りをしよう①模写修行編
唐突だが、私は自慢をしたいのだ。
絵に関しての自慢をしたい。
今まで何をやってきたのか。
そしてどのように自分の絵を肯定してるのか。
仕事を辞めてから8ヶ月で何がどれくらい変わるか。
そして今後変わる必要はあるのか。
Twitterで書く量ではないので、
そぞろにnoteにまとめることにした。
自慢には他人が必要だ。
だから暇な人は読んでみてほしい。
おそらくちょっとした読み物になる。
①「お前は誰だ?」
自分のキャラクター、素性について語る時、
一番重要なものが何か知っているだろうか。
それは「目的」だ。
「目的」があるから「行動」がある。
「行動」があるから「キャラクター」がある。
そして「目的」はその人間の「素性」から生まれる。
自分語りをするのなら、まずは「目的」だ。
名前などいっそどうでもいい。ペンネームも既に一回変えてるし。
重要なのはこの「私」の目的はなにか。
何がしたかったのか?
(ここからは丁寧語で行きます)
「漫画を描くこと」でした。
仕事を辞めると決めた時から、
漫画を描くことしか考えていませんでした。
自惚れてますが、自分の漫画好きは、
少し「おかしい」レベルにあると思うのです。
あえて「おかしい」などといってみますが
もちろん誇りに思っているし
自慢に思っているんです。
僕は漫画が好きな事がただ自慢なんです。
今まで漫画に飽きる事がなかった事が自慢なんです。
あらゆるエンタメの表現方式の中で一番漫画を評価してるんです。
漫画が一番だと「知っている」事が自慢なんです。
映画よりもアニメよりもドラマよりも何よりも
漫画が自分の「存在」にとって一番必要だと感じているんです。
自分を好きになるために必要な物こそが漫画だと言ってもいい。
しかし、この「確信」は自分の中のものであって
今までどこかで言葉にした事はありませんでした。
言葉は言葉なのです。語りは騙りです。
僕はこれを言葉にするやいなや嘘にしてしまう。
つまり行動で示さなければいけない。
ずっとそう考えていました。
②「君のためを想って言っているんだよ」
仕事を辞める時、大抵の人には嘘を言いました。
「別の仕事がしたい」
「院に行き勉強がしたい」
「自分について考える時間が欲しい」
これは嘘ではないものの本心ではなかったです。
いろいろな人に違う理由を話している時点で、
これらが決め手ではないのは間違いないです。
「上司のことがどうしても受け入れられない」
これも本当の事ですが言い訳です。
もっと下らなくて子供じみた理由を自覚していました。
なので、ある一人にだけ本心を言いました。
「僕は恥ずかしい事ですが漫画を描きたいんです」
その人は言いました。
「それで生きていけるの?」
僕は言いました。
「わかりません。でも今はいろんな方法があります。」
その人は言いました。
「それは俺も知ってるよ。俺にもそういう友達がいるよ。
でもさ、それは『バンドで生きていくぜ』って言うのと同じ。
不幸になるかもしれない。難しい事かもしれない。」
「…………」
いろいろ話しましたが、
僕に返す言葉はあまりないように感じました。
優しく諭すような言い方だったと思います。
決して感情的な物言いではなかったし、
親愛の情を向けてくれているのだとすら感じました。
しかし、内心はどうあれ
「それはやめた方がいい」という内容を
その言葉を使わずに言っているようでした。
僕も同感です。
どう考えても正しくないに決まってます。
そんな事言われなくても知ってます。
でも、それは折り込み済みで言っているんです。
とっくのとうに夢も希望も折れてます。
僕は始める前から自分の未来に絶望しています。
絶望しながらも、もっとシンプルなんです。
「ただやりたいことをしたいだけ」
「子供じゃないんだから」と、誰かが言います。
「でもまだ子供が終わってないんだ」と、僕が言います。
「そんな事したら終わるぞ」と、誰かが言います。
終わりたくないなあと思いましたが、
何が終わるんだろうとも思いました。
「俺はまだ始めてないんだ」
③「これから何をしようか」
何かが「終わる」実感がないうちに
始めてしまうのが良いと考え、
仕事を辞める少し前から準備を始めました。
どうせ「終わる」のです。
「終わる」までは時間は無限です。
かつてない膨大な暇の時間にわくわくしました。
こんなに時間があるのなら、
基礎の基礎から始めるべきだと思いました。
すなわち「解剖学」的な見地での「人体」を知ることです。
漫画を描くのなら「人体」の知識は
絶対に必要だと考えていました。
背景なんて二の次です。
何が何でもキャラです。
人物が描ける事です。
ミニマルな漫画を目指した時に
最後に残るのはキャラです。
常識です。絶対です。
この勉強を始めるにあたって、
私の手元には一冊の本がありました。
「モルフォ人体デッサン
形態学による人体を描くための新テクニック」
です。
「新テクニック」も何も、
僕自身は何も技術を持っていないのですが、
芸術は常に進化していくものなので、
古い本より新しい本が良いと考えました。
新しい本の方が(古い本の応用系となっていて)難しい場合もありますが
この本に描かれている筋肉は美しくダイナミックで
単純に「一目惚れ」だったのです。
この本は2年以上手元にありながら
大して活用されませんでした。
でもいつかきっと役に立つと信じていたのです。
そして今この時がその「いつか」だと。
④「修行僧のような生活」
2019年8月、退職。
2019年9月、活動開始。
仕事を辞めた直後は
全ての時間を娯楽に溶かしました。
それにも飽き、9月頃から1ヶ月もの期間、
「モルフォ人体デッサン」に描かれている絵を
ひたすらに全て「模写」しはじめました。
明らかな苦行のようにも思えますが、
もしかしたら絵を描いてきて一番楽しかったかもしれません。
土台が無の状態から
新たな「知識」を次々と獲得している感覚。
そして、その膨大な「知識」が「手」に馴染んでいく、
成長しているという確かな「実感」に
僕は夢中になりました。
これは、スラムダンクにおける桜木花道の
2万本シュート練習と同じなんです。
「僕にとって模写練習は楽しかった」
そして、その後も花道と同じです。
練習は練習でしかありません。
本番でシュートを決めるのは
更に遥かに難しい。
僕も練習時に感じていた
「実感」の遥か下方に「実力」があることに
気づいていきますが、
それは次の機会に話していきます。
⑤「一冊を模写して十冊を知る」
この1ヶ月の模写練習なしに
自分の絵を考えることは出来ません。
今でも「モルフォ人体デッサン」を開くと
実家に帰ったような安心感があります。
1ヶ月間毎日毎日模写をし続けて
1日あたり数ページをめくる為に何時間もかけてきたのです。
軽くページを開けば、模写する時に何を考えていたかが記憶に蘇ります。
「読む」という事はこういう事です。
書かれている事に、ページに、
付箋のように思考と感情を挟む事です。
僕はこの先どの解剖学の本よりも
「モルフォ人体デッサン」を信用し
「モルフォ人体デッサン」以上に他の解剖学本を
「読む」ことはないだろうと思いますし、
読み込む意味もそんなにないと思います。
何故なら、この本との比較において
アプローチの違いを知ることが出来て、
理解を簡略化できるからです。
一冊の本を読み込む事が
多数の本を読む事よりも
価値が低いのではないです。
一冊の本を読み込む事が、
多数の本の読む事の効果を高めて
かつその効果を得るスピードも上げるのです。
だからこそ「モルフォ人体デッサン」は
なんやかんやで三周くらいしていますが
他の本は欲しいところをつまみ食いする程度です。
このやり方が正しいかどうかはわかりませんが、
お気に入りの本が一冊あると「楽しい」事は確かです。
「信じる本、賭ける本は一冊でいい」
後から考えると「この手順」「この本」じゃなくても
良かったという気がしていますが、
僕の頭の中にある漫画を出力する為には
絶対にこれが初めだと考えていました。
そして、その「信」があればこそ
「苦行」のような行為ができる。
「何に賭けるのか、何を信じるのか」
⑥「さあて、この次もサービスサービスゥ!」
長い記事は自分的に読む気がしないので
一旦区切りますが、続きます。
次回予告風ですが、次回予告もしません。
ちょっと現在視点で振り返り。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
色々好き勝手書いてくれちゃってるが、
貴様なんぞに上達の方法がわかるはずがない。
その判断が出来るはずもない。恥を知れ。
という声が聞こえてくるようだが、
全て自分の葛藤の声である。
直感した事を一旦信じてみる。
信じて行動した先に何かがあると盲信する。
この文章自体もそうだ。
やる必要があると感じたからやる、
なにより「楽しい」からやるだけである。
「楽しい」の先に何かがある。
楽しくない時は一旦歩みを止める。
絵に関してもそうだ。
今あまり描く気が起きない。
文章を描きたい気分だ。
だから書く。
何故絵を描きたくないのかという問いにまで
辿り着きたいがそこまでいけるだろうか。
(啄む亭血液法師)
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