無為驟雨
まとわりつくような霧雨の中、睫毛から滴り落ちる雨粒を手で拭う。決して視線を外さないよう、瞬きひとつしないよう細心の注意を払いながら、視界の端で倒れる相棒に意識を向ける。
彼はぐったりと倒れたまま目を覚ます素ぶりはない。無理もない。あれだけの高さから地面に叩きつけられたのだ。骨の二、三本骨折していてもおかしくはない。最悪、死んでいる可能性すらある。本当なら今すぐ駆け寄って容体を診るべきだが、今ここで目を逸らせば間違いなく二人とも死ぬだろう。
まずいな、そう思いながらも策が浮かばない。
この目の前に立つ、両目の眼窩から鴉の頭を生やした死体から逃れる術がない。
寂れた神社の境内、社殿を背に立つ死体は動かず、ただ鴉の紅い瞳が瞬きひとつせずに、こちらを視ている。目を逸らした瞬間、大野木さんは空中へ高く放り投げられ、受け身もろくにとれずに地面へと落ちた。幸運だったのは、硬い石畳の上に落ちずに済んだことだろう。
冷汗が頬を流れ、雨粒と一緒に地面へ落ちる。
視線を逸らすと障りがある。これはそういうタイプの怪異だ。
袖から覗く蒼白い右腕は、一度はあれを掴みかけたが、触れた瞬間に感覚が散ってしまって使い物にならない。幻の感覚は、更なる怪異の圧力に押し潰れてしまった。あれには実体の有無に関係なく触れられないのだろう。
「まずいな……」
呟きながら、目の前の怪異を観察する。明らかに死んでいると思われる死体は若い男性のもので、死後数日は経過しているだろう。半ば手足が潰れている。死体になってから憑いたのか、あるいは憑かれた後に死んだのか。どちらにせよ、あの目から顔を覗かせている鴉の頭が怪異なのだろう。
紅い瞳が二対、まっすぐにこちらの動きを観ている。時折、鴉らしく甲高く鳴くが、それは鳥のそれというよりも、幼児の悲鳴に近い。血膿色の涙が頬を伝って石畳に落ちると、音を立てて石を溶かした。
おぞましさに背中が粟立つ。手に負えない。
もっと前に逃げ出す機会はあった。だが、その危険を感じ取ることができなかった。油断していた。
カァ、と悲鳴が頭上から聞こえる。思わず視線を外しそうになり、必死に堪えた。脳裏を何十羽という鴉が頭上を旋回する様子が過った。集まってきている。
時間が経てば経つほどに、こちらが不利になる。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。一瞬遅れて、頭上を飛んでいた鴉が視界を遮ったのだと気付いた。その刹那、身体が空へ向かって落ちた。はるか下に神社の境内が見える。
石畳の上に落ちる刹那、飛び込んできた誰かにだきとめられた。頭部を大野木さんの胸板にぶつけ、意識が朦朧となる。
「ぐぅう!」
痛みと衝撃に唸り声を漏らしながら、力づくで俺を背中に担ぎ上げ、境内を全速力で後にした。背後を振り返ることなく、一目散に石段を飛ぶようにして降りて行く。背後でけたたましく泣き喚く鴉たちの鳴き声が聞こえたが、余所見一つせずにとにかく逃げる。
神社を離れ、橋を渡り、屋敷町の路地裏へなんとか飛び込んだときには全身が痛みで動かない有様だった。大野木さんも肋骨あたりを折っているのだろう。
判然としない意識の中、声をかけようとして、気配に気づく。
「やぁ、随分と酷い有様じゃないか」
聞き覚えのある声だ、そう思う間も無く意識が落ちた。
●
窓を叩く雨の音で微睡みから目覚めた。
気がつくと、見知らぬ天井が見えた。顔を横にすると、これまた見知らぬ壁と障子が見える。反対、座敷の奥へと目をやると自分と同じように布団で横になる大野木さんの姿が見えた。
慌てて駆け寄ろうとして、左手首に激痛が走った。折れてはいないものの、この痛みなら罅くらい入っているかもしれない。どうやら落下の際にやられたらしい。あれだけの高さから落ちたにしては軽傷すぎるが。
「文字通り君の為に骨を折ったらしい。あとで礼を言っておきなさい。大野木くん、肋骨を何本か折っているよ。ついでに掌の骨にもヒビが入っている」
いつ部屋に現れたのか、あるいは最初から部屋にいたのか、足元に立つ女性の顔を見て思わず悲鳴が漏れそうになる。ある意味においては、先の怪異よりも厄介な相手だ。
「なんでアンタがここにいるんだよ」
「随分な言い方だな。君たちがうちの店の前に行き倒れていたんだよ。それをこうして拾って介抱してやったんだから、感謝されこそすれ、邪険にされる謂れはない。それに私からすれば君はおまけだ。別に死のうが、祟られようが知ったことじゃない」
「そうかよ。で、大野木さんは生きてるんだよな」
「命に関わる怪我ではないよ。しかし、今回は随分と痛い目に遭ったものだね。君にしては珍しい。引き際を誤ったのか? それとも引き受ける相手を見誤った?」
「どっちもだな。今回は最初から見通しが甘かった。あの依頼人をそもそも大野木さんと同席させるべきじゃなかった。こいつのお人好しが移ったかな」
「君にしてはらしくない。それで、どういう依頼だったんだい?」
「依頼人に掛けられた呪いを解く。そういう類のだよ。ただ今回は珍しく本物だった。呪いそのものも見たことないくらい強力な代物。見ろよ、右手の幻肢も触れただけで消し飛んじまった」
おかげで今は左右どちらの手も使えない。ただ生身の左手よりは、多少は回復が早いはずだ。
夜行堂の主人は薄く笑いながら、カーディガンを羽織り直す。
「うちに持って来なさい。処分してやろう」
「そのつもりでいたんだよ。ただ、あの呪いは強烈だ。正直、あんなの見たことない。呪具の形さえ視えないなんて初めてだ。それなのに、あいつ、なんて言ったと思う? 『この呪いは私が受け持ちましょう。あなたはすぐにこの土地を離れてください』だって。馬鹿だろう?」
「彼らしい。それで、大野木くんが肩代わりしたということか」
「ああ。普通はそんな簡単に矛先が変わったりしないんだけどな。あれは取り憑く相手を変えることを目的にしているみたいだった。他人に擦りつけることを前提とした呪いなんだ。」
なにしろ相手に触れるだけで移せる呪いなのだ。見ず知らずの他人に移してしまえばいい、と思うのは俺が人でなしだからか。
「依頼人は市内の女子高生で、呪いを解いて欲しい、と大野木さんを頼ってきた。で、肩代わりしてもらった彼女は大喜び。そりゃあそうだ。まぁ、あの子が悪人って訳じゃない。誰だって自分が可愛いし、家族や友人にはどうしたって呪いを押し付けたりできないから、頼ってきたんだろうしな」
「彼はホントにお人好しだね。正直、理解し難い。人間らしくない」
「まぁ、俺もそれは同意する。この人はなんていうか、どこか壊れてんだよ。人を助けることに強迫観念でもあるみたいだ。自分のことも助けられない奴が、平気で他人に手を貸すんだから始末に負えない」
さっきのこともそうだ。肋骨が折れているくせに俺を助けてる場合か。おかげで命拾いしたけれど、正直に言って気分が悪い。
「でも、彼が君を助けていなかったらきっと死んでいただろうね」
「ああ。だから余計に腹が立つ」
「君の眼には、それはどう視えた?」
「死人に憑依するタイプ、だと思う。対象の周囲にある死体に憑依して、対象とその周囲の人間を殺す。しかも、一度空に持ち上げての墜落死だ。心臓を止めたりとか、失明させたりする呪いは視たことがあるけど、こんな強烈なやつは初めてだ。俺や大野木さんが何メートルも空に浮き上がるんだぜ」
「呪具は?」
「さっぱり。深く視る前にやられた。近づきすぎたな。念動力っていうのか。ああいうの。どうしようもないな。あれ」
正直、もうお手上げだ。
「なぜ神社に行ったんだい? もしかして神頼み?」
「いや、当てが外れただけ。頼りにしてたって程でもなかったんだけど、呪いに追いつかれる方が早かった。大野木さんが最初にやられて、俺がやられたってわけ。もしかしたら神社の奥の森で首吊り自殺でもあってたのかもしれない」
「死体を使う呪いは多いけれど、死体そのものが襲ってくるというのはあまり聞いたことがない。大陸には死体を使う呪術があるから、そういうものなのかもしれない。僵尸というのは知っているだろう?」
「キョンシー? あの両手を前に出して、頭に札が貼られた?」
そう、と彼女は言いながら、どこから取り出したのか火のついた煙管を咥える。
「札というのは道士が死体を用いる術の際に、死体に付加するものだね。連中がやっていたのは仙人になる為のもので、他人を呪って云々というのは本来の用途とは異なる。今回のそれは、もっと原始的な呪詛だ。その死体、なにか動物にたかられていたりはしなかったかい?」
「そういえば両目の部分から、死んだ鴉が二羽生えてたな」
「それだな。呪具は鴉の死体だろう。動物を用いた呪詛の歴史は古い。私があちらで人を眺め始めた頃にはもう、そういうことをしていた連中がいたからな。おっと、今のは失言だった」
「いや、藪蛇は突かないけどよ。つまり警戒すべきはあの鴉か」
「そういうこと。呪詛返しができれば良いのだけれどね」
呪詛返し。あの鴉の魂は呪いで縛られている。呪いが誰かに弾かれたり、解かれた場合、呪いをかけた術者本人にそれは返ってくる。
「あの鴉を殺せばいいのか?」
「元から死骸だよ、あれは」
「俺の右腕でどうにかなるものなのか?」
「さてね。しかし、髄分と侵されたものだ。右腕を酷使し過ぎだと思うよ? その右眼かなり見えなくなっているだろう? 反して、あちらのものはよく視えるようになっただろうがね」
さも嬉しそうに、口元を緩めて微笑う。
「質問に答えろよ。説教なら他所でやれ。この悪魔」
「悪魔、か。呼び方なんぞに意味はないよ。これまで本当に多くの名前で呼ばれてきたが、私自身が認めた名前はひとつしかない。教えてあげようか? 君との付き合いもそれなりに長い。それに、いつまで君が生きていられるかも分からないからね」
座敷の中が更に昏さを増した気がする。影の闇が一段と濃くなる。
「縁起でもねぇ。聞きたかねぇよ」
「ふふふ。まぁ、今はしがない骨董店の主人さ。それに信じて貰えないかもしれないが、私は今の姿をとても気に入っている。この街のことも同様にね」
「だったら、なにか解決策を寄越せ」
「そうだね。大野木さんにうちの商品をひとつ進呈するというのは?」
「却下。好かれすぎて殺される」
体質だろう。この女主人にせよ、葛葉さんにせよ、大野木さんは怪異に見初められやすい。本人にはそういう資質が一切ないのに、闇に惹かれやすいのだ。ここの曰く付きなんぞに見初められたら、肚の中に閉じ込められて出てこられなくなるかもしれん。
「彼のような人間の気というか、魂は無性に欲しくなるものなのさ」
「柊さんみたいなタイプはどうなんだ?」
「ふふ、彼女は天敵だよ。来たことはないが、もし彼女がうちへやって来たなら、どれもこれも息を殺して立ち去るのを待つだろうね。私は勿論相手をするよ。でも、彼女は私と長話をしようとはしないからね」
「俺なら? 俺を主に欲しいという物はないのか?」
「残念だけど、今の君はもう既にこちら側だ。昔は引く手数多の優良物件だったのに」
惜しい惜しい、とさも残念そうに悔しがる仕草は小悪魔じみている。
「打つ手なし、か。大野木さん、しばらくここに預けておいてもいいか?」
「構わないよ。二階でよければ好きに使えばいい」
「そもそも二階なんてあったのか、この店」
「なに、部屋なんて増やそうと思えば幾らでも。なんなら無限回廊なんていうのも悪くないか」
「木山のおっさんみたいな真似はやめろ。どうせ一番最初にこいつが迷い込むんだ。賭けてもいい」
隣で眠る相棒を足で小突く。まだ目覚める様子はない。好都合だ。
「とにかくやれるだけやる。このままだとジリ貧だからな。起きたら大人しく寝てるように言っといてくれ」
「君もお人好しだな。まぁ、元々そういう素質はあったか」
やかましい。
障子を閉じて、階下へ降りる。右眼が疼く。眼精疲労が酷い。頭が痛いのはきっと怪異を視つめすぎたからだ。生まれついての霊能者でもない俺の頭は、視覚されないあれらを視ていられるようには出来ていない。そのせいか、ずっと視ていると極端に具合が悪くなるのだ。
夜行堂を出ると、雨脚は弱くなっていたものの湿気が酷くて蒸暑い。夕暮れまでもう間もない。
あの呪いを背負いながら一夜過ごすだけの体力と運が、大野木さんに残っていればいいが。
◯
病院の廊下に私は立っている。夜間用の常夜灯が仄かに辺りを照らしている。消毒用のアルコールの匂いに微かに混じる血の匂いがした。
自分はどうしてこんな場所に立っているのか。視界も頭もぼんやりと霧がかかったように判然としない。
不意に赤ん坊の声が響き渡る。
声の方へ近づくと、「分娩室」のランプが灯っている。入口の隙間から中を覗き込むと、忙しなく動く医師たちと、ぐったりとして身動き一つしない母親らしき女性が分娩台で横になっているのが見えた。
医師の一人が急にドアを開け、私の体を透過するようにして通り過ぎていった。廊下にはいつの間にか、父親らしき男性が立っていて、不安げな顔で分娩室へ医師と共に入っていく。思わず私も後に続いた。
母親らしき女性はどうやら亡くなったようだ。分娩台の周りは血塗れで、そこを行き来する医師たちの足跡が部屋中に散らばって凄惨な光景だった。
赤ん坊を抱きながら、父親が何度も医師に詰め寄る。問い詰め、詰問し、懇願する姿は鬼気迫るものがあった。しかし、父親はついに諦め、力なくその場に膝をついた。
『お前のせいで』
そう確かに呟いた。
その瞬間、けたたましい電子音が鳴り響き、母親の身体が仰け反る。目が開き、息を大きく吸ったかと思うと、激しく咳き込み始めた。血相を変えた医師たちが駆け寄り、母親は無事に蘇生した。
喝采が漏れる中、赤ん坊を抱いた父親が音もなく仰向けに倒れた。赤ん坊が男の腕の中で泣き声をあげる。男は絶命していた。瞳孔が開き、その顔には苦悶の表情があった。
父親が死に、母親が蘇生した。
周囲の光景が夜のように翳る。
私はどこかの寺院にいた。阿弥陀如来の仏像の前に、あの蘇生した母親と幼女がいた。二歳くらいだろうか。黒髪を長く伸ばして、大きな瞳が無感情に目の前の住職を見ている。
『お父さん。この娘ったら凄いのよ? 見ていて』
母親は嬉しそうにそういうと、鞄の中から小さな虫籠を取り出した。中には二匹の蝶が羽ばたいている。
『よく見ていて』
そうして、虫籠に手を差し入れると、両方の蝶の羽をもぎ取った。羽を毟られた蝶の片方を、母親は虫籠で容赦なく押し潰した。お父さんと言われた住職らしき人物は無言でそれを見ている。
『さぁ、生き返らせて』
母親の声に応じるように、小さくて白い指が生きている方の蝶に触れる。そうして、すっと指を離すと黒い糸のようなものが抜けた。するすると糸は伸び、やがて蝶の身体からプツリと離れた。
そうして、引き抜いたものを潰れた蝶に当てる。すると、蝶の肉片が時間を巻き戻すように寄せ集まり、やがて羽根も生え揃うと、ふわりと空へ舞い上がった。そうして何処かへと飛んでいってしまう。
『どう? 凄いでしょう? この子は命を自由に扱えるのよ。奪うことも与えることも! 素晴らしい力だわ』
『私は恐ろしいと思わずにはおれん。命を自在にするなどと。恐れ多いことだ』
『お父さん、よく聞いて。この子ならどんな命も救えるわ。命ですもの。いくら大金を積んでも助けて欲しいなんていう連中は幾らでもいるわ!』
『その命は、一体どの命で贖うつもりだ。この子は命を生み出すのではない。命を移し替えているに過ぎん』
父と呼ばれた住職の目には戸惑いと恐れ、同時に哀れみも垣間見えた。
『そんなのどうだっていいじゃない。幾らでも向こうで用意するわ』
『辞めなさい。人の命を自在にしようなどと。恐ろしいことだ。御仏の意思に反する』
どうしてこんなことになったのか、と住職は苦い表情で自問する。
『お父さんがこの道に逃げたのは叔父さんのせいなんでしょう? 実の弟のことがそんなに怖ろしかった? 木山の姓を捨てて、出家する程に。私にはあなたこそ理解できないわ。叔父さんにも特別な力があったのでしょう? なのに、どうしてそんなに忌避するのかしら』
『……あれとはもう縁を切った。問題なのは、この子のことだ。馬鹿な真似をさせるのはやめなさい』
『この子は私の娘よ。どう育てようが私の自由だわ。お父さん。残念だわ』
景色が歪む。
寂れた公園。錆ついたブランコが雨風に揺られて軋んだ音を響かせる。
赤い傘をさした黒髪の少女の足元で、苦悶に歪んだ表情で息絶えているのは、先ほど見た少女の母親だ。身なりの良いスーツに身を包み、装飾品の数々も随分と高価そうに見える。しかし、泥水に顔を半分埋め、恐怖に引きつった表情は酷く凄惨なものだった。
対照的に、傍に立つ彼女の娘は、彫刻のような人間離れした美しさを持っていた。無表情かつ無感情に足元の母親を見下ろす姿には、なんの感情も感じられない。
少女は指先から抜き出した命の糸を、しばらく無感情に眺めると、やがて足元の水溜りへと溶かした。それはインクの墨を水に溶かすように模様となって広がり、やがて雨粒に混じって消えた。
そんな少女の背後に誰かが立っている。いや、違う。誰かが首を吊っている。
小さな公園の林、その木の一本で男が首吊り自殺をしたらしい。
少女は辺りを見渡し、近くにいた二匹の鴉に眼を留め、ゆっくりとした動作で指差した。その瞬間、鴉は苦しそうに転がり、やがて絶命した。少女の指には黒い糸が二つ、巻き取ったように絡みついている。
そうして、背後の首吊り死体へと糸を流し入れた。
びくん、と大きく跳ねるように死体が動いた。とっく事切れた屍、その口から、まるで洞窟に吹き込む風のような、低く鈍い音が聞こえ始めた。そうして、ごぼり、と屍の口から鴉の頭が二つ、顔を出した。血に塗れ、ギャアギャアと喚く異形を前に、少女は亀裂のような笑みを浮かべた。
不意に、少女がこちらを振り返って、私を視た。
目があった。
赤と緑の虹彩が混じり合う瞳。見ただけで骨身に沁みそうな冷たさに背筋が凍りついた。
にぃ、と少女が何事かを口にする。
ようやく理解する。
そうか。最初の犠牲者は、彼女にこうして呪いをかけられたのだ。
○
怪異を視るというのは、視覚的に見る、というのとは少し意味合いが違う。
俺は事故をきっかけに怪異が知覚、視ることができるようになった。だからこそ、怪異が視えない人間の感覚もよくわかっている。例えば霊感が多少ある程度の人間が見る怪異は、それが視覚的に見えるかどうか。それだけだ。心霊写真のように、ある筈のないものが見える、というだけ。
怪異を視る、というのは怪異の背景や過去、その内容を深く潜るように視ることだ。死者を自分に憑依させる口寄せとかいうやつとやっていることは実はそう変わらない。そうして要因を探り、成仏、あるいは散ってくれるよう仕向ける。駄目な時は逃げる。問答無用で祓えるような霊能者もいることにはいるが、俺にはできない。よって、こりゃあ無理だと感じたら即逃げる。
正直に言ってしまって、俺は心情的には怪異寄りだ。人間の悪性というか、汚い部分は嫌という程見て来たし、人間という生き物に嫌悪さえ感じている。本音をいえば、怪異なんかよりも人間の方がよっぽど恐ろしい。
それでも、人間にもそれほど捨てたもんじゃないと言える奴もいる。本当に少数ではあるが。
大野木さんがその一例。あのお人好しは本当に、人間の善性というか、そういうもので出来ている。あの人は相手が怪異にせよ、人間にせよ、自身が正しいと思ったことをする。その為には法律を無視したり、身銭を切るのも厭わない。
今回の件にしても、元はと言えばあのお人好しが安請け合いしたのが原因なのだが、怪異というのは巡り会うものだ。何らかの因果があってその結果となる。だから、遅かれ早かれ、大野木さんはあの怪異に遭遇していたのだろうと思う。
そんなお人好しの馬鹿野郎を助ける為に、こうしてわざわざ独りで怪異と向き合おうというのだから俺も相当に頭が悪い。せっかく助かった命なのだから、さっさと逃げればいいものを。
「まぁ、どうせ俺も永くないし。今死ぬのも、いつか死ぬのも似たようなもんだ」
そんなこんなでやって来たのは件の神社。返り討ちにあった場所に舞い戻るというのも間抜けな話だが、こっちから出向く以外に俺だけであの呪いと相対する方法はない。
あれが大野木さんを狙っているのだとしても、夜行堂にいる限りは見つかることはないだろう。
「呪具の正体が分かればなんとかなる、ものなのか?」
呪いなのだから、なんかしらの大元がある筈だ。始点というか、起点というか。そういうものがなければ呪いは成立しない。前に外道箱という呪具を回収したことがある。あれは術者の家に連なる者が死ぬと、その魂を狗神として血筋の者が使役していくというものだ。あの場合の起点は呪いを納めておく箱ではなく、死者の魂の方だ。もっとも、あの呪具は術者の血筋の者でなければ使えない上、怪異を視ることのできないものでは開けることさえできない代物だが。
件の神社へ続く階段を登りながら、雨足が少し弱くなったのを感じた。これだけ濡れていれば今更雨が止んだところでなんということはないけれど、雨音がなくなってようやく気づいた。
カァカァと鴉の声が左右から響く。
雨に濡れた土の匂いに混じって、強い血の匂いがした。
参道脇の竹林、その藪の中にそれが立っていた。両眼の眼窩から鴉を生やした死体。視える者にしか視えないような怪異ではなく、人間と鴉の死骸を用いた呪いだ。
「なんだよ。鳥居の内側には入れるくせに、参道は歩けないのか」
呻くように死体の口が動く。
目を逸らさないよう、特に右眼で瞬きしないよう気を配る。
視線を外した瞬間、空へ投げ出される。
よくよく見れば男の死体は手足が奇妙な方向に折れ曲がっている。胴体なども奇妙に凹み、潰れているように視えた。この呪いの元になった男は飛び降り自殺をしたのだろう。自分から目を逸らした者を墜落死させる呪い。
「さて。さっきはこれで根負けしたんだが、今回はそうも言ってられねぇ。どうするかな。とりあえず右手でぶん殴るのは駄目だったしな。左手の方でぶん殴るか?」
素手で触るのは呪いを貰いそうで嫌なのだが、ここまで来たらそうも言っていられない。あれはここで止めなければ大野木さんの元まで行くだろう。
深呼吸をしながら、額を流れ落ちる汗を拭う。
「深く、視ろ。もっと深く」
どうせ俺にはそれしかない。
右眼が灼けるように熱い。右眼の視界が歪み、淡い光だけの世界に転じる。
断続的に写真のように風景が映る。血塗れの赤ん坊、俯せで息絶える男、腐乱した卵、荒れ果てた和室、燃え上がる神主、赤い傘、爪を噛む中年の女、乾涸びた右腕、墜ちた鴉、首を吊った男。
「ぐ、ぐぐ」
頭痛が酷い。今にも吐きそうだ。それでも視続ける。これが核心ではない。
燃え上がる男、手首を切る女、首を吊る男、ビルから身を投げる男、ありとあらゆる死の場面が繰り返される。
まるで死の蒐集家。
そう思った瞬間、真っ白い部屋に少女が視えた。
彫刻のように整った少女。その瞳がこちらを視ている。俺を、視ている。赤い、赤い、まるで血のように紅い双眸。その瞳が、俺を捉えているのが分かる。
右眼から血が溢れ、頬を伝って顎から落ちる。
まずい。あの眼は駄目だ。障りがある。
「うわぁああああああ!」
聞き覚えのある叫び声が、なぜか真上から落ちて来た。
スーツ姿の大野木さんが竹林を飛び越えて死体に飛びかかる、というか転げ落ちた拍子に、ぶつかった。
視線が途切れる。思わず膝をつき、右眼を抑える。あまりの激痛に頭が真っ白になりそうだが、気絶していられる余裕はない。
「大野木さん!」
竹林の中で、大野木さんが死体を押さえつけている。なんとか顔が自分の方へ向かないように必死に押さえつけているらしかった。インテリの癖に力技にも程がある。
「私が抑えておきますから! 逃げてください!」
思わず絶句する。
こいつ、一体何しに来たんだ。
「ば、馬鹿かアンタ! なんでこんな所に!」
「逃げてください! 早く!」
「その死体はただの容れ物だ! その鴉を」
押さえないと、そう言おうとした所で言葉を失った。
いつの間に現れたのか、夜行堂の主人は和傘片手にこちらに手を軽くふると、まるで小石でも摘むみたいに死骸の眼窩におさまる鴉を掴み、指先で器用に首を捻り折ると、手の中で小さくまとめ、ぱくりと口の中へ放り込んでしまった。もぐもぐ、と咀嚼して、嚥下する。口の端から焦げたような煙が細く立ち昇った。
絶句する俺たちを前に、はいおしまい、とばかりに手を振る。
「これは少し君たちの手には余る。まぁ、味は悪くなかったから良しとしようじゃないか。ああ、でもこの死体は少し騒ぎになるかもしれないね」
そういうと、息も絶え絶えといった様子の大野木さんに肩を貸して、傷を診ている。
「訳がわかんねぇ。なんで上から出てくるんだ?」
「そ、それがですね。私にも何がなんやら。目を覚ましたので後を追おうとしたのですが、御店主がこちらの方が早いから、と勝手口の戸を開けて下さいまして。どういうわけか、そこの石段の上に出ていました。あいたた」
肋骨が折れてるのに無茶するからだ。
「大野木さん。命知らずにも程がある。まさか怪異相手にぶつかっていくとは思わなかったよ。止める暇もないんだもん。肝が冷えた」
「御店主こそ、あんなものを食べて大丈夫なんですか?」
女主人は答えず、代わりに微笑み返した。
「何か視えたかい? 例えばえらく顔立ちの整った少女とか」
「ああ」
「わ、私も見ました。夢の中で、ですが」
「君は呪いを受けた張本人だからね」
「何者なんだよ。そいつは」
「彼女はね、木山氏の姪の子供にあたる人物だ。そして、今は彼女が持っているであろう品物を、私は随分と長い間探し続けているんだ。しかし、なかなか彼女はこちら側に現れない」
「よりによって、木山さんの血縁者か」
もう死んだ人間の癖に、度々こうして話題に上るから死んだ気がしない。
「あの人とは色々あったけれど、死んでも尚こうやって名前が挙がる。まぁ、彼は自分の姪にそんな力を持った子供が産まれたなんて知る由もなかったろうけど。一枚くらい噛んでいてもおかしくはない。さて、ともかくこれで大野木さんの呪いは解消できたということだ」
命拾いしたな、そう茶化してやろうとして、大野木さんが白目を剥いて気絶していることに気がついた。
それから大慌てで警察と救急車を手配して、なるべく早く連れて行けるよう背負って石段を降りるのに苦労した。体格で勝る、しかも気絶している大の男を背負うのはかなり無理があった。
夜行堂の女主人はいつの間にか消えていたが、今回は助けられたので文句が言えない。実際、あのまま助けが入らなければ俺はきっと呪い殺されていたか、気が狂っていただろう。
足が止まる。ダメだ。どうしても考えてしまう。
あの夜行堂の主人が探しているという品物。
それは一体どんなものなのだろう。
正直、あんまり知りたくはない。しかし、無関係でいられるとも思えない。
「まぁ、その時になればわかるか」
考えても仕方ない。
大野木さんを背負い直し、再び遥か下に続く石段を辟易しながら降りていく。
二人とも生きている。
そう思うと、なんだか無性に目頭が熱くなった。
ふ、と顔を上げると、雨上がりの屋敷町が随分と輝いて見えた。