天地神明(136さん怪談朗読会in太宰府書き下ろし作品)
太宰府天満宮には二つの赤い橋が池の上にかかっており、この橋をカップルで渡ると必ず別れるというなんとも迷信じみた噂が福岡県にはある。
祭られている当人である、わたし菅原道真からすれば根も葉もない噂であると断言できる。誰だ、最初に言い出したのは。そもそも年間850万人以上もの人間が参拝にやってくるのだから、別れてしまうカップルも相当数いるだろう。
私は勉学の神、広義には文化の神として祀られているが、恋愛成就を願う者も多い。
私とて生前、平安の世には恋の和歌を送り合ったことがある。返歌の内容に一喜一憂し、身悶えをしたものだ。恋を実らせんとする想いをどうして無碍にできるだろうか。いや、中には縁切りを得意とする神々もおられるが、それとて良い縁と結ぶために切っている。
この国に暮らす万人が良縁に恵まれ、実りある人生となるよう御神徳を与えるのが八百万の神々の務めだ。
さて、10月になると、この国の八百万の神々は出雲へと向かう。出雲大社の大国主命様の下へ集まり、人々の縁を結ぶ為に喧々諤々の大論争を繰り広げるのだ。ついでに翌年のことを幾つか決めて、さらについでに連日連夜に渡って酒宴を開く。もっぱらこのついでのついでの為に集まっていると言っても過言ではない。ちなみに、主神たる天照大御神様は伊勢神宮の内宮を易々とは離れられないので出席なさることは滅多にない。どうやら国津神側の神事であるらしい。
歴史は案外浅く、平安時代に大国主命様が「やっぱり年に一度くらいは集まらないと、みんなお互いの顔を忘れるから」という理由で始まったらしい。私が初めて参上したのが第三回の神在月だった。雷を御所に落としたことを叱られたのは苦い思い出だ。
ともかく、そうした理由から全国の国津神が出雲へ集まるので、出雲以外の地域は10月を神無月と呼び、出雲だけが神在月と呼ぶようになった。天津神は参上したり、しなかったりである。毎年必ずやって来られるのは宇迦之御魂様くらいだろうか。周囲が気を遣うので、酒を飲むのに非常に居心地が良いのだという。
そういう訳で、今年も出雲へ行かねばならない。
この時期、出雲への公共交通機関は神々によってほぼパンクしてしまう。飛行機を使えるのは航空会社の株主になっている神々くらいのもので、私のように株も人脈も持たぬ神は他の手段を講じなければならない。
去年は福岡で仲の良い神々と一緒に大きなレンタカーを借りていったのだが、途中で珈琲豆の神が車に酔って吐いたり、魚釣りの神がもらいゲロをしたりして大騒ぎになり、到着する頃にはすっかり疲れてしまった。
散々悩んだ挙句、結局新幹線で赴くことにした。果たしてチケットを確保できるのか不安があったが、懇意にしているインターネットの神に電子チケットを格安で取って貰えたのは幸運だった。
しかし、なぜ指定席を宇迦之御魂様の隣に取ってしまうのか。
博多駅の新幹線乗り場で御姿を見かけた時から、うっすらと嫌な予感はあった。限定銘菓の列に並んでいて、目の前でちょうど売り切れる未来が感じられるような、そんな予感が。
「菅原よ。わしは窓際がよい」
「……御意」
宇迦之御魂様の隣、通路側の席に腰を下ろす。見た目は厳しい顔をした老人だが、天津神の中でも特に尊いとされ、稲穂に宿る神霊、食物つまりは豊穣を司る。ちなみに大国主命様に「出雲へ神々が集まるのは10月とせよ」とお決めになられたのも宇迦之御魂様である。稲刈が終わった直後なのだ。
「今年ももう出雲へ赴く頃となったか。一年が早くて叶わぬわ」
「光陰矢の如し、ですか」
「神代の時よりからおるからの。矢というよりも銃弾じゃな」
光陰弾丸の如し。早さよりも威力の方が気に掛かる言葉だ。
「さて、まずは乾杯しようかの」
あれを持て、と後ろへ声をかけると、廊下から一人の若者がやってきた。ジャケット姿の青年で、その整った顔立ちには見覚えがあった。
「菅原様。ご無沙汰しております」
「ああ、狛狐の。ええと、今は尾瀬さんと名乗っていらっしゃるんでしたよね」
太宰府天満宮の領内にある開闢稲荷社、その一対の狛狐の右に座すのが彼だ。
「はい。今回、旅のお供をさせて頂くことになりました」
「大変ですね、こんな時まで」
「何が大変なものか。誉れよ。そら、酒と酒器を出さぬか」
「はい。どうぞ、こちらを」
「うむ」
宇迦之御魂様は小さな鞄を受け取ると、嬉しそうにいそいそと中から博多織のテーブルクロスを取り出し、座席の脇から引き出したテーブルへと恭しくかける。
「ほれ。こちらがお主の分じゃ。自分でかけれよ」
「ありがとうございます。随分、本格的ですね」
「ふふ。最近、動画配信なんたらにハマってのう。ドラマだのなんだのと時間潰しに使うてやっておるのよ。南蛮やら他所のものも見ることができてな。これが中々に悪うない」
「悪うない、ですか」
素直に褒めれば良いのに。
「その中に、なるほどこれは良いと思わせるものがあっての。この機会に試してみるのも一興と用意をさせたのよ。何、一人でやるのもつまらぬ故、お主を隣に座らせるよう命じておったのだ」
感謝せい、と嬉しそうに仰るので何も言えない。
「御相伴させて頂きます」
「よしよし。ほれ、箸と盃」
クロスの上に箸置きを敷いて、箸を並べる。螺鈿細工の見事な箸だ。
「これ、うちの参道で売っているものではありませんか?」
「ころころとした愛嬌のある小娘が売り子をしておっての。やぶさかではないので買うてやった。あやつの所為で箸ばかり増えおる。気に入ったなら持って帰れ」
「では、遠慮なく。ああ、この盃もいいですね」
しっとりとした地肌に白い象嵌が美しい。梅の花弁を模した、美しい焼き物だった。こういう土地の土と火を感じるものはいい。
「大陸から博多へやってきた先祖と縁があっての。末裔が肥後に窯を開いておって、これがまた良い物を作りおる。たまに八代まで出向いて買い付けに行くのがまた楽しみでな」
店の方も、まさかこの年寄りが神だなどとは夢にも思うまい。
「それは、いつ頃の話で?」
「ううむ。確か豊臣のなんたらがどうのこうのとしておった頃かの」
400年前から続く縁を未だにこうして愛しているというのが、いかにもこの御方らしい。
「よしよし。中々に乙な光景ではないか」
博多織の上に並ぶ美しい酒器に箸。職人が手がけ、魂の篭った逸品が揃っている様はなんとも見ていて心が弾む。
「では、まずはこれを先付としようぞ」
焼き物の皿を並べ、その上に柿色の乾燥した何かが置かれる。
「カラスミ……ではありませんよね?」
「明太子よ。好きであろう? 熟成して乾燥しておるが、これが酒の肴によいのだ。さて、酒は日本酒で良いな」
黒く細長い、こじゃれた酒瓶の蓋を開けると、そのまま私の酒器へ注ごうとなさるので思わず盃を手に取って逸らしてしまった。
「何をするか」
「宇迦之御魂様から酌をして頂く訳にはいきません。私がお酌いたします」
「堅いことを申すな。無礼講じゃ。さぁ、盃を出さぬか」
「しかし」
「良いと申しておる。そら」
これ以上、固辞すると機嫌を損ねてしまうだろう。
「では、有り難く」
盃に黄金色のとろりとした酒が注がれていく。口にするまでもなく、これがいつも飲んでおられるものではない、人の手で醸したものだと分かった。
「糸島の酒での。大吟醸の十年古酒を用いた梅酒じゃ。味わってみよ」
「頂戴します」
梅の盃に注がれた梅酒をゆっくりと口に含め、味わう。深く濃厚な味わいに花の甘味と僅かな酸味が広がり、思わず口元が緩んでしまった。
「これは、美味しい」
「そうであろう。よくも人の手でこれほどのものを醸したものよと感心しての。最近はもっぱらこればかり飲んでおる」
「いや、本当に美味しい。どうぞ、お酌致します」
うむ、といつになく楽しげな宇迦之御魂様の盃に梅酒を注ぐと、くいっと一息に勢いよく飲み干した。それからパクッと追いかけるように先ほどの乾燥した明太子を口に頬張る。肩を震わせて笑った。
「堪らんな。流れていく景色を眺めながら、酒と肴に舌鼓を打つのは」
私も真似して酒を一口飲んでから、明太子を頬張ると乾燥した堅い食感に、濃厚な旨味と辛さが滲み出るように広がっていく。甘いものとしょっぱいものが合わない訳はない。
「この組み合わせは、少しズルいですね」
「ふふ。幾つになろうと美味いものを味わう喜びは変わらぬな。まだまだ酒の肴は買い揃えてある。出雲までゆるりと楽しもうぞ」
「こんなに沢山、買い揃えるのも大変だったでしょう」
「博多駅で全て揃うわい。それに大国主への土産も買わねばならんかったからの」
どちらが主だったのかは、敢えて問うまい。
「人の縁を結ぶは、神々の誉れよ」
盃を傾けながら、宇迦之御魂様がしみじみと呟く。
「ええ。かつてそう心構えを教えて頂いたこと。よく覚えておりますよ」
人は生まれた土地で宮参りをする。土地神に健やかな成長と加護を祈り、土地神もまた氏子を守らんと四方八方手を尽くす。成長して土地を離れれば、新たな土地の神に便りを出して加護を願い、御神徳を賜ることができるよう一筆したためる。とはいえ、神々に許されているのは、どれも直接的なものではない。ほんの些細で、わずかなものばかりだ。気づく者など殆どいない。
しかし、神々は全ての氏子が健やかであるよう祈らぬ日はない。
「うむ。より良い縁を結ぶことで、この世もまた良い方へと流れてゆくものだ。我らが結んだ縁を敬い、どう活かすかは当人の意思次第じゃが、悪縁奇縁と結びつける訳にはいくまいぞ」
人の縁とは、撚り合わせた糸のようなものだ。それらが複雑に絡み合い、ほつれたり、繋がったりするのが人の世の有様なのだ。
「勿論です。妥協する訳にはいきません」
「うむ。その意気ぞ」
盃を掲げ、私たちはそれを一息に飲み干した。
博多から出雲までの道程は長かった。
新幹線が通っているのは博多から新山口まで。そこから先は特急列車に乗り換えねばならず、博多から30分程度でテーブルに広げた諸々を片付けて、特急列車でもう一度宴を開かねばならなかった。新山口から出雲まではおよそ3時間強。合計、4時間余りの旅路となった。
出雲市のホームに降り立った時、既に私と宇迦之御魂様はすっかり出来上がってしまい、赤い顔でふらふらとベンチへ座り込むと、ふわふわとした心持ちで何が何やら分からなくなっていた。
「お水を買ってきました。お二人とも、お気を確かに」
「尾瀬さん。すいません。ご迷惑を、おかけします」
「菅原様。それは時刻表です。私はこちらですよ」
「それは、失礼」
必死に意識を保とうとするが、普段の疲れもあるせいか、今にも眠ってしまいそうだ。4時間も飲み続ければ誰でもこうなる。本番前に論争を繰り広げてなんになるというのか。
「たわけ。菅原、たわけぇ」
たわけたわけ、と震える声で連呼している宇迦之御魂様は、今にもホームへ気炎を吐こうとしていらっしゃる。おそらくは気炎は出てこず、代わりのものがホームに撒き散らされるであろうことが容易に想像がついた。
「まだ昼を回ったくらいだというのに。いくら何でも羽目を外して飲み過ぎですよ。お二人とも」
仰る通り。良い歳をして、こんな酔い方をしてしまうとは。
しかし、わたしたちの他にもホームのあちこちに生まれたての子鹿のように膝を震わせながら、千鳥脚の老若男女が幾人かいる。よく見れば誰も彼も見覚えのある顔ばかりで、どうやら羽目を外した神々は私たちだけではなかったらしい。青白い顔をして頬を膨らませているが、今の私にはまるで笑えなかった。
「うぅ、吐きそう」
「菅原様。どうかトイレまでお待ちを。ああもう、先生もしゃがみ込まないでください」
「たわけぇ、たわけぇ」
尾瀬さんに肩を貸して貰いながら、どうにか立ち上がり、改札を潜ってタクシー乗り場へと急ぐ。タクシーの待合所には全国から集まった神々が列を成していた。誰も彼も酔っ払っていて、顔色が赤かったり青かったりしている。
ようやく自分たちの順番が回ってくると、今にも息絶えてしまいそうな足取りで宇迦之御魂様が後部座席の奥へと座り、私が手前に座る。助手席に座った尾瀬さんが慣れた様子でタクシーの運転手に会場の場所を説明していた。
神々は出雲に集うが、出雲大社にぞろぞろと入っていけば大変なことになる。なんのデモが始まるのかとテレビ局が駆けつけ、見かけた人々がすぐにSNSにアップするに違いない。
そうした事態を避ける為、神々は事情を知る人間の経営する宿や料亭にそれぞれ集まることになっている。残念ながら、そういう家は年々数が減っている。中には事情も知らないまま、店を貸し出している所も少なくない。
旅籠『白兎』は代々、神在月の神を迎え入れてきた由緒正しい国津神御用達の宿である。
「ようこそ。お越し下さいました」
三つ指をついて出迎えてくれたのは、外見は宇迦之御魂様と同じくらい高齢の女性である。鶯色の着物に身を包み、温和に微笑む姿は子供の頃と何一つ変わっていない。美佳子さんは御歳八十を超えている大女将だ。
「一年ぶりですね。今年もお世話になります」
「尾瀬様はお変わりありませんね。お二人はお顔色がすぐれないようですが、大丈夫でしょうか?」
「ただのお酒の飲み過ぎですから、お気になさらず。他の皆様は?」
「もう既にお座敷へ入られましたよ」
赤と青が仲良く並んだ信号機のような顔色の我々は満足に言葉を発することもできないまま、店の奥へと進んでいく。後で美佳子さんにお土産に持ってきた「きくち」の梅ヶ枝餅を渡さなければ。
廊下の奥へ進んでいくと、その座敷はある。一見するとなんの変哲もない障子を引くと、光が弾けるように溢れ返った。光の先にあるのは途方もなく広大な座敷。千畳敷どころの話ではない。この障子は大国主の大座敷へと繋がっているのだ。
「では、ご武運を」
一歩、敷居を跨ぐとすっかり酒気が祓われて消えた。酔ったまま縁結びを行うことなど許される筈がない。雅楽の調べがうっすらと白く煙る天井から聞こえてくる。
「それにしても、何度見ても途轍もない神々の数ですね」
「ふん。地元で留守神をしておる者たちも集まれば、もっと大勢になるだろうよ」
観光気分は是迄。氏子の為に良縁を掴み取らねばならない。
「菅原よ。せいぜい気張るが良い。わしはいつもの如く、揉める者どもを調停して回らねばならぬ。大国主と積もる話もあるのでな。気をかけてやる暇はないぞ」
扇を広げながら去っていく宇迦之御魂様に一礼して、私も激しい論争の巻き起こっている輪の中へと突撃する。普段は疲労困憊で寝不足な私でも、この時ばかりは歯を噛み締めて、雷を迸らせながら荒ぶる天神と化すのだ。
縁が実を結ぶ過程は時に闘いであり、集う場所は戦場になるという。しかし、その加護を与えんとする神々もまた戦いに身を投じているのだということを忘れないで欲しい。
○
一ヶ月に及ぶ大論争の果てに、神在月の縁結びは終わりを迎えた。連日連夜の論争と酒宴によって神々の疲労は肉体の限界を越え、あちこちで神去ることになった者が続出したが、私は今年もどうにか耐えた。燃え滓のような有様で白兎の宿へ戻り、布団に横になるとそのまま昏倒し、気がつけばとっくに11月に入っていた。宇迦之御魂様は神事が終わると早々に太宰府へ戻られたようで、私が留守の間の太宰府を気にかけてくださっているのだろう。
鏡に映る自分は髪まで真っ白になってしまっていた。愛用の眼鏡の片方のレンズがいつの間にかなくなっていて、おそらくは神功皇后様と揉み合いになった際に踏まれてしまったのだろう。枕元には何処かの神の頭から毟り取った羽根が散らばっていたが、まるで覚えがない。欠伸をすれば、まだ口の端から小さな雷が飛び、口の中が酷く痺れた。
結局、髪の毛に色が戻るほど霊力が回復したのは11月になって10日と少しばかり過ぎた頃で、世話になった美佳子さんに御礼を述べてから宿を後にした。留守神をしている鷽の鳥に島根銘菓の源氏巻をお土産に頼まれていたのを思い出し、なんとか駅で買い求めることが出来たが、とても持ち帰るような余裕はなかったので郵便で送ることにした。ふらふらと特急列車の指定席に腰掛けると、即座に意識を失った。
どうにか太宰府に帰り着いたのは、お昼を少し過ぎた頃。大家さんに住民票を出すように言われていたのを思い出し、そのまま市役所へ向かうと、なにやら大勢の人々が同じ方向へと進んでいくのを見かけた。誰も彼もがワクワクとした様子で、いかにも他所の土地から来た者ばかりのようだ。
「はて。なにか大きな催しでもあったかな」
先月の祭事は終わっているし、今月の祭事はまだ先の筈だ。頭を捻るが、まだどこかぼんやりとしているせいか何も思い出せない。
不意に、ツバ付きのニット帽を被った眼鏡の男性と目が合った。私が会釈をすると、男性もにこりと会釈を返してくれる。私はそのまま市役所の方へ。彼は公民館へと入っていった。見覚えのない顔の筈だが、なんとも不思議な心持ちがする。どこかで縁が結ばれたのか、もしかすると何処かの神かも知れぬ。
大勢の人々が、強く結ばれた縁に集っていくのを感じる。
遠く宝満山が紅く色づいている。
風は季節を運び、年月は巡る。
人々は縁に導かれ、より良い縁とまた結ばれるだろう。
その些細な、しかし何よりも尊いものを誇りに、私は今日もまた参拝者の願いに耳を傾けるのだ。