閑話夜会
真夜中に目が覚めた。ベッドから起きて時計を眺めると、真夜中を少し回ったくらい。右腕の付け根を揉みながら、トイレへ向かう。
リビングは真っ暗、大野木さんの部屋にも灯りは付いていない。今日は珍しく早く休むと言っていたから、早々に横になったらしい。今頃、女々しいアロマ焚いて夢の中に違いない。小腹が空いたので夜食を作って貰おうと思ったが、あてが外れた。流石に寝ている所を起こすのは悪い気がする。
欠伸を噛みしめながら冷蔵庫を開け、中のものを物色する。大野木さんは食材を買ってきた後、すぐに小さなコンテナに小分けして、購入日や賞味期限を記載するというベテラン主婦も真っ青の趣味がある。整然と並んだ食材を見ていると、どこか工場みたいで気色が悪い。
左手だけで作れる料理というのは限られてくる。ついでに面倒な料理もゴメンだ。鍋やフライパンを使ってまで夜食を作ろうと思わない。
冷蔵庫の中をひとしきり物色すると、なんだかやたら高価そうなバターが出てきた。湿気がつかないよう厳重に梱包してあるので、よっぽど大事なものに違いない。
「えしれ? メーカーの名前かな」
夜食はバターご飯にしよう。大野木さんあたりが聞いたら悲鳴を上げそうな夜食だが、こちとら二十代の若者だ。カロリーが怖くてやってられるか。
バター飯の材料は三つ。温かいご飯、バター、鰹節。これだけだ。いや、最後に醤油をかけるのを忘れたらいけない。とにかく簡単で美味しい。コツは炊き立てのご飯で作ること。そうでないとうまくバターが溶けて美味しくならない。
どうせ目が覚めたのだから、ご飯を炊いてしまおう。念のため二合やっておくか。そんなに時間もかからないだろうし。大野木さんのことだ、炊飯釜も綺麗に洗っているに違いない。
案の定、炊飯器も綺麗に磨かれ、炊飯釜もピカピカだ。毎食ごとに炊飯器の本体を磨き上げるのは一般的なんだろうか。無洗米を釜に入れて、水道の水を注ぐ。大野木さんはミネラルウォーターで炊いたりするけど、俺は冷蔵庫から出すのさえ面倒だ。
炊飯のスイッチを押してから、ソファで寝転がって文庫本に目を通す。大野木さんの蔵書の中で、俺が唯一好きになっているシリーズだ。作者はもう故人らしいが、内容も人物たちもとても面白い。あと食事する場面がやたら美味しそうなのが良い。歴史小説の大家らしいが、実生活では美食家として名を馳せていたそうだ。現代に生きていたなら、きっとバター飯を毎晩食べていたに違いない。
本の内容に没頭していたせいか、あっという間に時間が経っていた。ピーピーと炊飯器が音を立てる。
「さて、腹減った。腹減った」
炊飯器の蓋を開けて、湯気を逃してから軽くかき混ぜる。お茶碗に炊き立てのご飯をよそって、バターをごっそり切って載せる。その上から少しご飯を被せるように重ねて蒸らす。そうしてから花鰹をどっさり。
「ええと確か、とっておきの醤油がこの辺りにある筈」
大野木さんが普段使わない、とっておきの調味料があるのを俺は知っている。味噌とか醤油とか、至高の逸品だとかいうものが取り揃えてあるのだ。
「ひひひ。見つけた」
かめびし古醤油十歳造とある。封を外して匂いを嗅ぐと、なんとも芳しい匂いがする。小皿に取ってちょいと舐めると、おお、と声が漏れるほど美味い。
ご飯の上にちょいちょいと垂らしてから、お盆に載せてテーブルへ。もちろん麦茶も忘れずに。
「いただきます」
真夜中の夜食とは、どうしてこうも心踊るんだろうか。
バターの香気に揺れる鰹節、照りを纏った白米を一口頬張って、思わずテーブルを叩く。口元が笑ってしまう。
「っま!」
文句なしに美味い。美味すぎる。なんだこれ。
卵かけご飯よりもさらさらと頬張れる。鰹節とバターと醤油。しょっぱさと油の組み合わせが背徳的だ。いかにも体に悪そうだが、体に悪いものは大抵美味しいと相場が決まっているし、好物しか入っていないのだから美味しくない筈がない。甘い、しょっぱいが交互にやってきて止まらない。
もう一杯食べちまおう。そう思って二杯目に箸をつけていると、物音に気づいたのか、大野木さんが起きてきてしまった。
「千早君? こんな時間に何を」
しているのですか、そう言おうとして言葉が途切れる。大野木さんの表情が一瞬の間に複雑に変化した。怒っているような笑っているような、最後に呆れたような顔をして苦笑してみせた。
「夜食が食べたかったのなら、一声かけてくれたらよかったのに」
「起こすのも悪いかなと思ったんだよ。大野木さんも食う? バター飯」
「またそんな高カロリーなものを摂って」
「でも、美味いぜ。最高」
「折角です。ご相伴に預かるとしましょう。ご飯は少なめでお願いします」
意外だ。色々と小言を言われると思ったのに。
大野木さんは俺の作ったバター飯を頬張ると、リスが初めてひまわりの種を食べたような顔をした。
「驚きました。これは美味しい」
「え? 大野木さんってバター飯食べたことないの?」
「はい。初めて食べました。名前は知っていましたが、こうして食すのは初めてのことです」
「俺はガキの頃から食ってたけどな」
「夜食にしてはカロリーが高過ぎる気もしますが、たまには良いものですね。それに自宅で食べるには贅沢過ぎる味です。事実、エシレの籠入りバターと、そこの10年熟成古醤油だけで1万円くらい材料費がかかってますからね。まぁ、鰹節も本枯れを削って使っていますから相当な値段がしますが」
思わず麦茶を吹き出しそうになった。
「1万円!」
「大切に食べて下さいね。それから食材を使うのは構いませんが、狙い澄ましたように高額商品ばかり漁らないでください」
そう言いながらも、結局大野木さんもおかわりをしたので、本当に美味しかったらしい。
翌日、体重計に乗る大野木さんが「体脂肪が微増している」と凹んでいたのは、また別の話だ。