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エッセイのようなもの②
思いを言葉にすることの難しさ
人は自分が思っていることをどれくらい言葉に出来るのか。
私は、いつも言葉は心に今一歩足りないと思いながら文章を書いている。
書くという行為は何処までも孤独で、自分の内側を晒す行為だ。自意識過剰だと言われてしまえばそれまでだが、創作者とは皆そうではないだろうか。
自意識が過剰でなければ、自分の内側を他人に曝け出すようなことはできない。
小説に限らず、例えば絵画はどうだろうか。私は絵心など皆無だが、作品を創作するときに誰かに自分を曝け出さなければいけない恐ろしさは理解できる。どんな構図を描くのか。どんな色彩を用いるのか。どんなテーマで描くのか。そこには必ず、創作者の意図がある。
芸術はすべからく人の手によって作られるのだから、どれほど些細な箇所であっても『偶然』なんてことは起こらない。
私が綴った言葉にも、その一つ一つに意味がある。だが、それが私の心に足りているのか、と問われたら戸惑ってしまう。果たして、どれくらい私の心は伝わっているだろうか。
こう描きたいと思うものは、私の頭の中に確かに「在る」のだが、これを文字に起こすとなると難しい。私が感じた色彩をどれほど表現できているのか。どれくらい伝わっているのか。このことが常に私を悩ませている。
今年、出版した『天神さまの花いちもんめ(産業編集センター)』はそうした私の思いを全て込めた作品だった。
菅原道真公を「一人の父親」として描く、と決めて私は最後のエピソードを書き上げたつもりだ。一人の人間が神になる。その「結果」ではなく、その「過程」を描きたかった。
太宰府の雰囲気や、空気感を伝えたい。伝わって欲しい、と一心に願いながら書いた。
既に読んだ方ならお分かりになるだろうが、最後のエピソードは毛色が違った筈だ。現代の明るい時代ではない、平安の世を描いた。
本音では幼い子供が死ぬ話など書きたくなかった。幼い子供が死ぬ話など想像するのさえ不快だ。ただの日常を過ごそうとしていた、なんの罪科もない子供たちが命を落とす話など悲劇以外の何ものでもない。
それでも、私が伝えたい思いを読者に伝える為には、私の心を描くには必要不可欠な場面だった。菅原道真という一人の人間が、父親が死後に祟り神となる『動機』を書きたくて、私はこのシリーズを作ったのだから。
無実の罪で左遷された怨みで祟り神となった、という説には当初から違和感があった。それは都にいる、祟りにあった人間たちの視点から語られる話であって、本人に寄り添ったものではない。
私は作家をしていく上で、ひとつだけ決めていることがある。
それは歴史の中で寄り添われることのなかった、忘れ去られつつあるものに焦点を当て寄り添おうというということだ。
『四ツ山鬼談(竹書房)』では、歴史の中に埋もれて忘れ去られつつある者たちに焦点を当てた。三池炭鉱の黎明期に畜生以下の扱いを受けて名前さえ残せずに無念に埋められていった膨大な数の死者たち。
ただの怪談を描くことは容易い。まことしやかに怪物を作り、恐怖を煽り、登場人物たちを無残に殺していけばいい。
しかし、私はそんな怪談を書きたくなかった。
怪談は悲劇だ。無念の内に死んだ者がいて、その怨みや憎悪によって起こった災禍を描いたものだ。
それを安易にエンタメにしてしまうのは難しくない。でも、私はその悲劇の犠牲者に寄り添いたかった。
四ツ山鬼談は供養として描いた。一人でも多くの人に読んで貰い、その無残な死を悼んで欲しかった。勝立の丘に立つ、解脱塔に訪れ、線香の一つでもあげて、手を合わせて欲しいという思いで描いた作品だった。
人の死について思うこと
私は長いこと人の死に近しい職業をしていた。
沢山の死の形を見てきたと言っていい。
きっと他のどんなホラー作家よりも人骨に触れてきたし、死に近しい場所に身を置いてきた。その数は千や二千ではきかない。
土葬された古い遺骨を掘り出し、肉の残ったそれを火葬場へ遺族と共にお連れしたこともある。雨の中、泥で汚れた小さな頭蓋骨を洗い、段ボールに詰めたことさえあった。
冷たい土と死の匂い。青く冷めた死の色を私は誰よりもよく知っている。
そんな自分にとって『死』は厳かなものであると同時に、普遍的に訪れる現象でしかない。
人は誰しも自分は死なない、と思っている。今日死ぬかもしれない、そう思いながら生きている人間などまずいないだろう。いたとしても、それは死を感じるだけの理由がある人だけだ。
死は逃れることのできない結末だ。おまけにいつ訪れるかも分からない。
私もいつか死ぬ。あなたがいつか息を引き取るように。
それは今日かも知れないし、明日かも知れない。
長生きできる保証など何処にもない。
だからこそ、生き急ぐべきだ。終了のベルはいつ鳴ってもおかしくない。
私は一文字でも多く執筆をすべきだ。これで絶筆になるかも知れない、と思いながら真剣に書くべきだ。
そうすれば、少なくとも死の間際に「まだなにもしていない!」なんて嘆くことはしなくて済む。
『夜行堂奇譚シリーズ(産業編集センター)』は、そうした『死』との向き合い方をテーマに描いた作品だ。主人公の千早は生と死、人間と怪異の間に立つ人間として描いている。
千早は誰よりも死の本質を理解する一方で、そちらに寄りすぎているキャラクターだ。木山が己の死を忌避しながらも、死に惹かれてやまないキャラクターであるのに対して、千早は片足を既に彼岸に置いている。己の結末を誰よりも理解しながら、最後の瞬間まで足掻くことを止めない『生命の本質』を体現している。
刈り取られるまで成長を止める麦がないように、人もまた鼓動が止まり、意識の火が消えるまで生き続けなければならない。
千早と大野木、そして夜行堂の主人の結末を是非、最後まで見届けて欲しい。そこには私が描きたかった心がきっと表れているから。
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