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エッセイのようなもの。

 文章を書く仕事を本格的に始めて、間もなく半月ほど経つ。
 執筆時間は以前とは比べ物にならないほど増え、一日のほとんどの時間を小説について考えられるようになった。しかし、色々とすべき雑務が多くて何かと忙しく、まだまだ今の生活スタイルには慣れない。
 そんな中、エッセイを書いてみようと自然と思えるようになったのは、自分でも意外なことだ。私は小説ばかりを書いてきたので、エッセイを書くのは苦手だったし、なかなか本格的に書いてみようと思いきることが出来なかった。
 エッセイとは自分のことを書かねばならない。それが私には辛かった。そもそも私は大した人間などではないし、自分でも呆れてしまうほど不器用だ。空気は読めないし、大勢の人間でいるのも好きではない。孤独が好きなのに、他人と同じでないことに不安を覚えるという面倒くさい人間だ。
 私はずっと『変わっている』と周囲に言われて育ったので、周囲と違うことが恐ろしかった。普通になろうと努力もしたが、結局、私は社会という輪の中に居続ける事ができなかったのだから仕方がない。
 そんな人間の書くエッセイに一体誰が関心を持ってくれるというのか、自分でもよく分からない。
 それでも自分が見聞きしたことを咀嚼して、言葉にして文字に起こすというのは作家として必要不可欠なことだ。磨いておいて損をすることはない。稚拙でもなんでも、始めてみなければ。
 何事も練習、鍛錬あるのみ。繰り返すことで洗練されていくものだ。
 とてもお金を頂けるような内容ではないので、暇潰しに眺めて貰えたら丁度いいだろう。こんなことを考えている人間が小説を書いているのだな、と思って貰えたら十分だ。
 テーマは自由に、その時の自分が思ったことを徒然なるままに書いていきたいと思う。無理をせずに長く息ができるよう綴っていきたい。

最近のこと

 私には二人の娘がいるが、上の子が反抗期に入り始めたらしい。
 父親の言動に対して苛立つことが増えたようで、本人もどうして苛立つのか分からない、と困惑している様子。父親のことが嫌い、という程ではないようだが、買い物に出かけている時にも手を繋ぐようなことはなくなった。家では一緒に並んでゲームをしたり、動画を見て笑い合ったりしているが、それも少しずつ減ってくるだろう。
 娘の成長が嬉しいと思うと共に、寂しく感じることが増えた。赤ん坊の頃はいつも胸に抱いていたが、やがて手を引いて歩くようになり、とうとう手を繋がずとも自分で行き先を決めて歩けるようになってきた。やがて親元を離れて、愛した人と先へと歩いて行く。
 私は娘と話をする上で決めていることがある。それは『強制をしない』『誘導をしない』『決めつけない』ことだ。勿論、まだ娘は11歳なので物事を正しく理解することはできない。だが、先回りの規制をするような親にはなりたくなかった。
 子育てをしていると、自分の時は果たしてどうだったのだろうか、と親の教育を振り返ることが多い。
 詳しくは割愛するが、私は子供時代のことをあまり思い出したくなかった。親は愛情を持って育ててくれたのだろうが、それは私が期待するものではなかったし、反面教師にすることの方が多かったから。
 娘には「好きなことはなんでもやりなさい」と言っているが、娘のことを大切に思えば思うほど『安全な道』を選ばせようとしてしまう。他人とは違うところを責めてしまいそうになる。自分自身が普通から逸脱しているというのに。親というのは勝手なものだ、と自省する。
 作家というのは社会的に逸脱した職業だな、と思わざるを得ない。
 書くことはいつだって孤独な作業だし、孤独であればあるほど言葉が研ぎ澄まされていく。
 勿論、孤独でない人などいない。誰もが自分だけの孤独を抱いているし、それを共有することは誰にもできない。
 しかし、せめて自分だけは己の孤独を愛すべきだ。
 娘たちは、彼女たちはどうだろうか。
 成長していくにつれて己の孤独に気づくだろう。しかし、その孤独から目を逸らさないで欲しい。孤独と向き合い、自分だけの孤独に水をあげることが出来たなら人生が豊かになるかも知れない。
 娘たちは果たして、どんな人間になるのだろう。
 幼い娘たちが成長していく様子を見守っていると、苗に水をやっているような気持ちになる。どんな花を咲かすのか。どんな実をつけるのか。
 願わくば、その様子を一番近くて見守っていきたい。
 

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嗣人
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