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碧傑忠士

   長年、可愛がってきた愛犬が息を引き取ったのは春の終わり。
 短く刻むような、苦しげに呼吸する小さな相棒を胸に抱いて、すっかり葉桜となってしまった近所の桜を眺めた。骨が浮くほど痩せ細り、軽くなってしまった身体が春風に飛ばされてしまわないよう、私は残された時間を噛み締めていた。
 目も見えず、鼻も効かず、病魔に侵された身で尚、私の頬を舐める小さな命が愛おしくて仕方がなかった。涙を堪えられない私のことを案じてくれるのが、堪らなく誇らしくもあり、悲しくもあった。
 いつもの散歩道を歩きながら、タオルで包んだ愛犬の身体を優しく摩り続ける。
 やがて河川敷の花畑へ辿り着く頃、急に腕の中の重さが増した。暴れたり、噛んだりすることもなく、事切れるように息絶えた。
 ああ、死んでしまった。死なせてしまった、という思いがあり、妻には悪いことをしたとも思った。二人で看取ってやりたかっただろうのに。
「偉い、偉い。よく、頑張ったな、ロッキー」
 嗚咽で声が震え、目頭が熱くてしょうがない。
 瞼を指で閉じさせると、まるで眠っているように穏やかだった。仔犬だった頃から、何度この腕の中で眠っただろう。年老いても愛らしさは少しも変わらなかった。
「うう、ううう」
 腰を下ろして、亡骸となってしまった愛犬を抱きしめる。数えきれないほど撫でた小さくて愛らしい頭、すぴすぴと寝息を立てる濡れた鼻、私たちを呼ぶ声が脳裏に生き生きと甦るようだった。
 顔を上げると、雲間から柔らかな陽が包み込むように射し込んできた。
 
   ◇
 愛犬の死は、私たち夫婦の心に深い傷を残していた。
 妻は毎朝、餌皿にドックフードを入れて位牌の前に備え、悄然とした様子で1日を過ごしていた。私は仕事をしている間、半身を亡くしたような欠落を忘れられたが、家に帰ると否応なく現実を突きつけられて辛かった。夕食の後、2人でアルバムを眺めてはポロポロと涙を流した。
 本来なら許されないのだろうが、亡骸は家の庭に埋葬した。焼いて墓に納めてしまうより、駆け回っていた庭の桜の下で眠らせてやりたかったのだ。

 それから二ヶ月ほど経ったある日のことだった。
 帰宅すると、我が家の前で妻が落ち着かない様子で右往左往しているではないか。鍵でも落としたのだろうか、と駆け寄ってみると、どうやら様子がおかしい。酷く怯えた様子で、駆け寄る私に気づくとホッと胸を撫で下ろした。
「どうした。何かあったのか」
「あなた。おかえりなさい。あのね、家の中に誰かがいるみたいなの。鍵をかけて出て行ったのに……」
 見ると、玄関が僅かに開いている。
「鍵のかけ忘れかとも思ったのだけれど、ドアの隙間から物音がするのよ」
「空き巣かも知れんな。警察には通報したのか?」
「いいえ。まだです」
「通報した方がいいかも知れん。下がっていなさい。中の様子を見てこよう」
「ちょっと! 止してくださいな。泥棒だったらどうするんですか」
「見てくるだけだ。何も争ったりせんよ」
「あなたがそう思っていても、相手が凶悪な人だったらどうするんです!」
「そうだな。まずは警察に通報すべきか」
 盗られて困るものは通帳と印鑑くらいだが、どちらも金庫に入れてきちんと施錠してある。あれだけの重さの金庫を盗み出せるとは思えないので心配はいらない。
 警察に通報をしようと携帯を開いた時、妻が悲鳴をあげた。
 仏間の窓、カーテンの向こうに炎が揺らめくのが見える。火を点けたのだとすぐに分かった。炎がリビング、廊下の窓から吹き出すのに、それほどの時間はかからなかった。
 私はすぐに警察へ通報し、火が出たことも伝えた。到着まで絶対に家に近づかないよう念を押され、私たちは黒煙に包まれていく我が家を呆然と眺めるしかなかった。炎の熱で窓ガラスが砕けて、轟々と炎が立ち昇る。通行人や近所の人たちが集まってくるのを止められる筈もなく、携帯電話でその様子を無遠慮に撮影された。
 勝手口のドアが開き、カーキー色の上着を着た男が飛び出してきた。男がほんの一瞬、こちらに目をやる。目深に被った帽子で顔はよく見えなかったが、確かに視線が合った。
「待て!」
 気づけば怒鳴っていた。
 男は塀の向こうへ軽やかに駆け上がると、あっという間に姿を消してしまった。
「あなた! 火が!」
 絶叫する妻に腕を激しく引かれる。妻の指差した先、そこにはロッキーを植えた桜の木が、炎に包まれて燃え上がっていた。火はまるで怪物の舌のように家を舐め上げ、膨らむように大きくなっていく。膨張したガラスが割れ、二人で選んだカーテンが焼け落ちる。
 立っていられなくなったのか。妻がその場にへたり込んだ。その肩を励ますように支えながらも、私もまた呆然と目の前の光景を眺めるしかなかった。
 家が燃える。黒煙が空高く、炎と共に獰猛に立ち上っていく。家財も思い出も焼き尽くすように。
 愛犬の眠る桜の木さえ、私たち夫婦の手には残らない。

 それからの事はよく覚えていない。沢山の人が色々と説明に来てくれたが、言葉の半分も理解できなかった。家は全焼したが、印鑑や通帳の入っていた金庫は燃えずに済んだらしい。こじ開けようとしたのか、現場には焦げついたバールが残っていたという。腹いせに火を点けたのだろう、と担当の警察官が教えてくれた。鍵開けの様子から常習犯なのは間違いがないようで、隣県で起きている強盗殺人事件の容疑者かもしれないのだという。
 鉢合わせしなくて運が良かった、と若い警察官は言ったが、家を失くしてしまった中年夫婦にとっては命さえ助かればいいという訳にはいかない。家族で暮らしてきた家がなくなる、というのは言葉では言い尽くせないほど辛い。
 不幸中の幸いというべきか。火災保険にはしっかり入っていたし、金庫の中身も無事だったので新しい住まいを見つけるのは難しいことではなかった。駅が近い街中のマンションを購入したのは、老後を考えてのことだ。買い物にも便利だし、職場にも近くなった。
「車まで手放すことなかったのに」
 ベランダから通りを眺めていると、そんな言葉を妻から言われてしまった。
「いいんだ。維持費もかかるし、古い車だから税金も高い。もうそんなに車で遠出することもなくなったからな。新しいオーナーが沢山乗ってくれた方がいいんだ」
「気に入っていたじゃないですか」
「20年以上、乗ってたからなあ」
「欲しくなったら言ってくださいね。車を買うくらいの蓄えはありますから」
 妻の気遣いが嬉しかったが、街中で車を持っておく理由はそれほどない。交通手段ならいくらでもある。
「それよりも二人で旅行へ行こう。前から温泉街に行きたいと言っていたじゃないか」
 そうね、とどこか寂しげに応える妻の気持ちが痛いほどよく分かる。
「二人だけだと寂しいものだな」
「明るくて賑やかな子でしたから。いなくなってしまうと、家の中が暗くなったみたい」
「そうだな。いつも尻尾をこう、振ってな。愛らしかった」
「まだ産まれて間もない頃に引き取りましたからね。最初の頃はうまくおしっこが出ないから苦しくて泣いていたこともありましたね。濡らしたガーゼで優しく撫でてあげると、やっとおしっこが出て」
「過ぎてしまえば、あっという間だったなあ」
 身体を横にして、ぷぅぷぅとイビキをかいて寝ていたのを思い出す。
「いかんな。いつまでも泣いていたら、心配させてしまう」
「そうですね」
 妻には言えないが、私は恐ろしくなることがある。悲しみはいつか時間が癒やしてくれるかも知れない。でも、年月はあの子との思い出も少しずつ奪っていくのではないだろうか。私達は老いていく。いつか、あの愛しい姿さえ鮮明に思い出せなくなる日が来るのだろうか。
 不意に、妙案が浮かんだ。
「そうだ。残せばいい。ああ、どうして思いつかなかったんだ」
「どうしたんです。突然」
「ちょっと出かけてくる。すぐに戻るよ。ああいや、ホームセンターにも立ち寄らないと。道具が何もないからな」
 大急ぎで身支度を整えて、マンションの前でタクシーを捕まえた。ホームセンターに一度寄ってもらい、最低限必要なものを手にタクシーに戻ると、運転手が怪訝そうに眉を潜めた。
「これから何をなさるんです?」
「彫り出すんだ」
 とにかく急いでくれ、と運転手に伝えてタクシーに乗り込む。
 行先は焼け落ちた我が家だ。

   ◯
 家に帰り着いた私を見て、妻は目を白黒させて驚いていた。
「どうしたんです。真っ黒に汚れて」
「はは。いや、木というのは凄いな。表面が焼け焦げていても、芯の方はどうってことないんだから。燃えたせいか、水分も殆ど飛んでいて切りやすかったよ。ノコギリが途中で曲がってしまって、苦労したよ」
「もしかして、うちの桜ですか?」
「ああ。これを使ってロッキーを彫り出そうと思うんだ」
「彫り出す?」
「仏師が石や木から仏様を彫るときに、そう言うそうだ。なんでも仏様は最初から石や木の中におわす。その姿を正しく見つけて彫り出すんだそうな」
 この桜の木なら、きっと出来るだろう。あのままにしておけば引き抜かれて処分されてしまうに違いない。
「あなた、そんなこと出来るの?」
「こう見えて、手先は器用な方だ。なに、こんなに材料はあるんだから心配はいらんよ。道具も揃えてきた。抜かりない」
「怪我だけはしないでくださいね。嫌ですよ。血塗れの置物だなんて」
「そんな事にはならんさ。まぁ、待っていなさい」
 そう言ってはみたものの、現実はやはり甘くはない。道具は見よう見まねで揃えてはみたが、使い方を覚えるのも一朝一夕ではいかなかった。木はノミで削るのだが、これまでの人生でノミを握る機会など一度もなかったので、これがなんとも難しい。硬い木を紙のように切り出す鋭さは、包丁とは比べ物にならない。少し間違えれば、私の指くらい簡単に落としてしまうだろう。
 そうして、おっかなびっくりしながら半日も作業していると、クタクタになってしまう。
 結局、それから二ヶ月もかかって、ようやくざっくりとした形を彫り出すことが出来た。私からすれば充分な出来映えなのだが、妻には歪な木彫りの何かにしか見えないという。
「やっぱりプロの方にお願いした方がいいんじゃないかしら」
「馬鹿を言え。それじゃ供養にならんじゃないか」
「でも、ここからちゃんとした形になるんですか?」
「大丈夫。心配はいらんよ」
 妻の手前、そう胸を張って言ったけれど、ここから先の工程を考えると気が重い。漠然とした形は彫り出せても、細かい部分をどうしたらいいのか分からなかった。何処にノミを入れても間違っているような、失敗してしまいそうで恐ろしかった。
 それ故に作業は遅々として進まず、ある時などは一日ずっと木と睨めっこをして終わってしまったこともある。納得のいかないものを作る訳にはいかない。これだけは投げ出す訳にも、妥協する訳にもいかなかった。
 ある日、食後になんとなしに木を眺めていると、四つ足を揃えてちょこんと座るあの子の姿が確かに見えた。まるで閉じ込められているように、はっきりと見える。
「お、おお!」
「どうしたんです。変な声を出して」
「見えた、見えたぞ! ほら、ほら!」
 妻は訳がわからないという顔をしていたが、私はそれどころではなかった。
 それからは、ただ彫り出すことだけに没頭した。会社を有給で休み、寝食も忘れて彫り続けた。心配した妻が色々と言っていたが、一度でも目を離してしまったなら見えなくなってしまうような気がして、トイレに立つのも億劫だった。
 結局、三日三晩フローリングの床が切屑で埋め尽くされるまで彫り続け、ついに形を彫り出したときには眠気と空腹で昏倒することになった。

   ◯
 夢の中で、あの子を胸に抱いていた。
 小さな四肢、柔らかい身体、ふわふわとした毛並み、潤んだ黒い瞳が私を見つめ、楽しげに尻尾を振っている姿が愛らしく、懐かしかった。濡れた鼻を押しつけて、愛情を確かめるように鳴く。
 ああ、良かった。この子を失うなんて耐えられない。すべて夢だったのだ、と心底ホッとした。
 しかし、不意に腕の中から降りると、背を向けて歩き出してしまう。追いつこうと歩き出そうとして、足がまるで固まったように動かないのに気がついた。
 その間にも、あの子は先へ、眩い光の方へと進んでいく。何度も、あの子の名前を呼ぶけれど、頑なに振り返ろうとしない。
 ええい、動け、動け、動け!
 しかし、どれだけ叩いても、この足はまるで鉛にでもなったかのように動こうとしない。
 置いていかないでくれ、そう叫ばずにはおれなかった。
 私の叫びに応えるように、あの子が。

「あなた!」
 肩を揺り動かし、耳元で妻が叫んでいる。
 呆然と辺りを見渡すと、どうやら病院のベッドで横になっているようだった。
「どうしたんだ、いったい」
「どうしたじゃありませんよ。過労で倒れたんです。覚えていないんですか?」
 怒っている妻には申し訳ないが、まるで自覚がない。
「呆れた。もう二度とあんな真似は止してください」
「面目ない」
「でも、見直しました。あなた、こんなに手先が器用だったんですね」
 一瞬、妻が傍から抱き上げたそれが、あの子に見えて息が詰まった。
 彫り出したロッキーの姿が木の中に息づいているのが分かる。
「掌に乗るほど小さくなって。あの子にそっくり」
「こうして見ると、やっぱり荒いな」
「そうですか? でも、息遣いを思い出せるくらいそっくりじゃありませんか」
 あんなに大きかった木材が、彫り出す内にこんなに小さくなってしまったが、素人にしてはよく出来た方だろう。
「もう歳なんですから、根を詰め過ぎないでくださいね」
「ああ。そうだな。三日くらいの徹夜で倒れるなんて」
 場を和ませようと言った軽口だったが、妻は恐ろしい笑みを浮かべて、ぐい、と二の腕をつねり上げる。
「今度同じことをしたら許しませんからね」
「わ、わかった。二度とせんよ」
 結局、万全を期す為に三日ほど入院してから退院することになった。あちこちを検査して貰ったが、幸い悪い場所はどこにもなかった。

 完成したロッキーの像は、リビングの壁に棚を作り、その上に飾ることにした。生前、愛用していた玩具を飾り、朝晩と影膳を出す。夫婦で手を合わせて、供養を願った。思い出すと、まだ涙が溢れるが。
「そういえばね、最近、妙なんですよ」
 夕食を摂りながら、妻が思い出したように切り出した。窓の外は夕暮れに染まり、ひぐらしの鳴く声が聞こえて来る。晩夏だ。夏もそろそろ終わる。
「妙というのは?」
「玄関前が煙草臭いんです。お隣の木田橋さんも元山さんも喫煙家じゃないから、噂になってて」
 塩の効いた枝豆を一房、掴み取って豆を捻り出す。日曜日の晩酌、冷えたビールと枝豆の組み合わせほど季節を感じられるものはない。
「誰か、廊下を歩きながら吸っているんだろう。今はどこも喫煙家には厳しいからな」
 別に擁護している訳ではないが、一昔前に比べたら考えられないほど今は規制が厳しくなったと思う。愛煙家には生きにくい時代だ。
「あなたも昔はそうでしたものね。どんなに私が言っても辞めてくれなかったのに、あの子を飼い出したら自分から全部捨てるんですもの。驚いたやら呆れたやら」
「仔犬に副流煙はまずいだろう」
「妻の健康にも悪いと思いますけど?」
 なんともバツが悪いので、ビールをグイと飲み干して誤魔化す。
「おかわり、いいかな」
「あと一杯だけですよ?」
 その時だった。玄関の方で、ガチン、と鍵が外れる音がした。
 ぎし、と床が軋む音がする。耳を澄ますように、二人とも息をするのも忘れていた。
 リビングに続くドアが、勢いよく開く。
 そこには黒い服を着た若い男が立っていた。泥だらけのブーツ、血走った瞳、手には長いバールが握られている。廊下にはフルフェイスのヘルメットが転がっていて。その男の顔には見覚えがあった。
「動くな」
 声に驚いた妻が、茶碗を取り落とす。がしゃん、と音が響き、テレビの音がやけに大きく聞こえた。
「動いても殺す。騒いでも殺す。わかったか? わかったなら、一度だけ頷け」
 私は頷きながら、男の顔をよく観察した。あの時の空き巣だ。間違いない。
「アンタ、俺の顔を見ただろう。探すのに苦労した」
 立て、と男が低く唸るように言うので、私たちはその通りにした。
「金ならやる。金庫から好きなだけ持っていって構わない。だから、手荒なことはしないでくれ」
 恐怖に震える妻の肩を、強く抱く。
「俺のことについて、警察に話しただろう。どんな顔だったか」
「そんなことは話しとらんよ。目の他には殆ど見えなかったんだからな」
「遅かれ早かれ、俺は捕まる。最近、周りには怪しいやつが増えた。きっと刑事だ。捕まる前に、楽しまないとな。それにも金がいるんだよ」
 言っていることが支離滅裂だ。
「まずは金庫を開けてもらおうか。嫁さんの頭をかち割られたくないだろ」
「わかった。言うことを聞く。頼むから、妻には手を出さないでくれ」
「だったら早くしろ!」
 寝室へ行くために二人で震えながら廊下へと出る。その時だった。
 わん、と聞き覚えのある声が背後から聞こえたと思った瞬間、廊下の先の玄関のドアがひとりでに開いた。
「え?」
 ぐん、と背中を暖かく柔らかなものが押し出す。爪先もつかないまま、ぐんぐんと部屋の外の通路へと放り出されると、勢いよくドアが閉まった。
 裸足のまま廊下へ投げ出された私たちが呆然とする中、家の中から男の悲鳴と、けたたましい犬の吠える声が聞こえた。聞き間違えたりしない。これは、あの子の声だ。
「あなた……」
 口元を覆う妻の言いたいことが、痛いほど分かった。
 家の中で、あの子が懸命に吠え立てているのが分かる。大きな声だった。言葉ではなくても、あの子が私たちを守るために戦っているのが伝わってきた。
 マンション中に響く声に、一体何事か、とあちこちから住人が出てきた。お隣さんも心配して顔を出してくれた。
「どうしたんです! 大丈夫ですか? こ、この音はなんです?」
「強盗が、入ったんです。すいませんが、警察に通報してもらってもいいですか?」
「強盗!? わ、分かりました! すぐに!」
 やがて、ばん、とドアが開き、ズタボロになった男が血塗れで廊下へと転がり出てきた。
「取り押さえろ!」
 誰かがそう言って、若い人たちが我先に男へと飛びかかる。暴れる男を数で押し潰し、すぐに制圧してしまった。わっ、と人々の間で喝采が起きた。
 それからすぐに警察がやってきて、男は引き渡されていった。私たちはご近所の方々にお礼を言い、頭を下げた。警察が事情を聞きたいと言ってきたが、ほんの少しだけ時間が欲しいと申し出ることにした。
 家の中は、まるで台風が暴れ回ったようにめちゃくちゃな有様だった。廊下や床に引っ掻き傷が残り、テーブルはひっくり返り、テレビも倒れてしまっていたが、そんなことはどうでも良かった。
 私たちは真っ直ぐに、リビングにある棚の上のあの子を手に取った。
 誇らしげにこちらを見つめるロッキーの像を、妻が愛おしげに撫でる。
 涙が溢れてしょうがなかった。でも、悲しいのじゃない。誇らしかった。死んで尚、私たちのことを守ってくれたことが。
「ありがとうなあ」
 背中に感じた、あの温もりは本物だった。優しく私たちを押し出した、あの柔らかな毛並みを思い出す。
「あなた、見てくださいな」
 妻に言われて気がつき、二人で思わず笑ってしまった。
 真っ直ぐに正面を向く姿で彫り出した筈なのに、少しだけ頭が小首を傾げるように傾いている。頭を撫でてもらおうとねだる時の、あの子の癖そのままに。 

   ●
 その夜、夢を見た。
 途方もなく広大で、真っ白な空間。
 一本の道が、彼方の先にある光へと伸びていた。
 私のほんの少し先で、尻尾を振ったあの子がこちらを振り返る。潤んだ瞳が、私を見ている。
 わん、と弾けるような音が響く。
 私の足はもう、あの子を追いかけない。そんなこと、あの子は望んでいない。
「ロッキー、ありがとう」
 手を振って、笑って送り出す。
 離れたくはない。別れたくはない。
 けれど、二度と逢えない訳ではない。それが今なら分かる。
 あの光の先に、いつか私も、妻も逝くのだ。
 それは寂しいことだけれど、嘆くことではない。
 踵を返して、あの子が光の方へと走り出す。
 この背中を見ていて、と言わんばかりに。
 こんなに早く走れるよ、と駆け回った仔犬の頃のように。
 軽やかに、跳ねるように光へと駆けていく。
 その様子を笑いながら見送る他に、何ができるだろう。
 
 目を覚ますと、ちょうど空が白み始めていた。
 リビングへ向かい、あの子の像を胸に抱く。
 温もりは感じないが、あの子のことを思い出す縁に違いない。
 ベランダへ出て、朝霧の煙る、静けさに満ちた街を眺める。
 山の稜線から覗く朝日を弾いて、朝靄が瞬く。
 天寿を全うしたあの子のように、私も光に向かって進んで行ける。
 わん、と何処か遠くから、愛しい声が聞こえたような気がした。

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