雨転砂松
梅雨の時期になると、自宅から程近い公園にそれは見事な紫陽花が咲き誇る。淡空色、青紫色、淡紅色のパレットのように歩道を行く人の目を愉しませた。
小学校の裏手を迂回するように伸びた隘路は車が通行することは出来ない分、近隣の住民の散歩によく用いられていた。隣接する細長い公園の向こうには防風林として植えられた黒松の林があり、その向こうにある海からの砂を受け止めている。小さな海水浴場は夏になると地元の子どもや親子連れで賑わうのだが、この時期はまだひっそりとしていて人の気配がしない。
聡子の家は公園から少し先にある古い住宅地にあり、縁あって親戚から古い平屋の一軒家を譲り受けて住んでいる。エッセイ作家として細々と一人で生きていくことができるようになったばかりなので、家賃のかからない住まいを手に入れることができたのは大きい。築年数の古い家だが、前住者が丁寧な暮らしを心がけていたのか、どこも手入れが行き届いていて少しも気持ちの悪い所がなかった。窓に嵌っている磨りガラスの細かい模様や、台所の青いタイルのモザイク柄も気に入っている。壁に備えつけられたシンプルな木製の本棚は、特に聡子のお気に入りだ。
きっと気が合っただろうな、と思わずにはおれなかった。名前さえ知らない誰かの痕跡を家の中で見つける度にそんなことを思った。
ご近所付き合いは聡子が想像していた程ではなかったが、それでも苦手とする人はいた。二つ隣の家に住む後藤勝恵がそうだ。名前の字の如く勝気な性格をした高齢の女性で、とにかく言葉がキツい。やれゴミの出し方が悪いだの、音楽の音がうるさいだのと顔を合わせる度に小言を言われるので辟易していた。
勝恵とは対照的に、隣の家に住まう前川佳代は温和で優しく朗らかな人物で越してきた時からお世話になっていた。言葉遣いも優しく、いつもこちらに気を遣ってくれる。暮らしぶりも裕福な様子で、いつも何かれと聡子の家にお裾分けを持ってきてくるので、こちらも何か貰い物があると自然と佳代の方へお返しに行くことが多かった。
そういう時に限って、勝恵と外で出くわしてしまい、そそくさと顔を背けて佳代の家へと逃げ込んでしまうのが常だ。きっと陰口を言われているのだと思うと気が沈んだ。
どちらも寡婦で、主人に先立たれているので境遇は似ているのだが、まるで違う。聡子は勝恵のようになるのが恐ろしかった。いつも睨みを利かせて、神経を尖らせて。自分も歳を取ってしまえば、ああして人を攻撃するようになるのかも知れない。独り身の寂しさを持て余すような人間にはなりたくなかった。
聡子は子供の頃から、言葉遣いが強い人間というのが恐ろしくて仕方がなかった。父親がまさしくそうで妻や娘が思い通りにならないと、烈火のように怒鳴るような男だった。物事の理非が分からず、稚拙な考えを振り回し、獣のように叫んで、家財を投げつける。そんな父親のことが聡子は大嫌いだった。
中学生の時、そんな父親が呆気なく交通事故で死んだ時には、悲しむよりも心から安堵したものだが、母親はそうではなかった。夫の死を驚くほど嘆き悲しんだ。普段からあれだけ自分を怒鳴りつけていた相手なのに、何が悲しいのか聡子には理解できなかった。ただ、結婚なんてするものじゃないな、と思ったのはこの時で、やはり大人になってもその考えは変わっていない。
聡子にとって、家族とは繋がりではなく、しがらみでしかなかった。とても暖かい家庭など築けるとは思えない。
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その日は明け方から雨が降っていた。
昨夜、聡子は真夜中まで締切に追われて、空が白み始めた頃にようやくエッセイを書き上げることができた。簡単な挨拶文を入れてからデータを入稿し、倒れるようにベッドへ横になってそのまま眠りにつく。
眠りについて程なく、不意に玄関で呼び鈴が鳴った。
ようやく眠れると思ったのに。なんて間の悪い。
二度、三度と確かめるように執拗に鳴り響く。いつもなら慌てて飛び起きて対応に向かうのだが、まだ二時間も寝ていないのでとても起きることができない。要件があればまた来るだろうと思い、居留守を使うことに決めて目を閉じた。
宅配便か、あるいは佳代が訪ねて来たのかも知れない。
前者なら不在郵便が入るだろうし、佳代ならまた折を見て来てくれるだろう。
そんなことを微睡みながら考えていると、不意に庭の方で物音がした。砂利を踏むはっきりとした足音に思わず意識が覚醒する。郵便受けは玄関の柱にかけてあるのだから、庭へ入ってくる必要はない筈だ。カーテンを引いているので外から中の様子を伺うことはできないが、単純に他人が勝手に庭に入ってきているという事実が心底気持ちが悪かった。
身体を起こして毛布を胸に掻き抱いて、聡子は息を殺して黙り込んだ。
庭を歩く誰かはそっと足音を殺して、ゆっくりと何かを探すように徘徊しているようだった。薄い窓ガラスを叩く音に混じって、砂利を踏む音が家の中に響く。
泥棒だろうか。でも、こんな家の何を盗ろうというのだろう。こんなことになるのなら番犬になる犬でも飼っておけば良かった。女の一人暮らしは危ないと頭では分かっていた筈なのに、まるで現実が見えていなかった。
どうしよう、と聡子が思案していると、不意に足音が慌てた様子で庭を出ていった。水溜りを踏む音が遠退いていく。
良かった、と心底ほっとしたけれど、もう一度横になって眠ろうという気には到底なれなかった。
聡子は観念してベッドから降りると、風呂の給湯スイッチを入れた。ただでさえ、雨でジメジメとして薄暗いのにあんなことがあれば気が沈んでしまう。こういう時には温かいお風呂に入って身体を整えてしまうのに限る。
せっかく仕事が一区切りついたのだから長風呂をしてしまおう。買ったままで一度も開いていない本が幾らでもある。
仕事部屋にあるお気に入りの本棚から何を読もうか、と物色していると急に呼び鈴が鳴った。心臓が跳ね上がるような気持ちで恐る恐るインターホンのモニターを確認すると、険しい顔をした勝恵が傘をさして立っていた。
聡子は急に心が萎んでいくのを感じた。なんの用だろう。またゴミの出し方に問題があっただろうか。それともネットの掛け方がおかしかったろうか。
居留守を使おうか、とも思ったが、ついさっきのことが脳裏を過って思わず応答ボタンを押してしまった。
「はい。園川です」
『おはようさん。アンタ、ちょっとだけ出てきて貰ってもいいかい』
有無を言わさぬ強い口調に気が萎んでいくのを聡子は感じた。これで断ろうものなら、きっと怒鳴られるのだ。
「はい。すぐに行きます」
聡子は着替えようか逡巡したが、待たせる方が勝恵を怒らせるような気がした。とにかく身体のラインを隠そうと緩めのカーディガンを羽織って玄関へと急ぐ。寝癖を誤魔化そうと手ぐしで髪を梳いた。
鍵を開けて玄関の戸を引くと、勝恵がじろりとこちらを睨みつけた。
「どうしたんだい、アンタ。顔色が真っ青だよ。その目の下のクマはなんだい? 若くても夜更かしせずに寝なさい」
「はぁ、すいません」
どうしてそんなプライベートなことにまで口を挟まれなくてはいけないのか、聡子には理解できない。勝恵の無遠慮な図々しさがひたすら嫌だった。
「あの、なんのご用でしょうか」
「今度、そこの神社で夏至祭りがあるからアンタも顔を出しなさいね。挨拶くらいはしておくもんだよ」
「ええと、それはどうして?」
道の先に小さな神社があるのは知っていた。しかし、私とは縁もゆかりもない。独身者なので自治会にも入っていないし、そうした行事に参加しなければいけない理由はない筈だ。
「私と何か関係、ありますか?」
ただでさえ仕事が忙しいのに、そんなことを強制されるのは御免だ。どうして放っておいてくれないのか。
「アンタ、まさか越してきて一度も神社へ御挨拶に参ってないのかい。土地神様に挨拶もしないなんて。今時の若いものは何を考えているの」
信じ難いものを見るように非難されて、聡子は己の中でふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
「あの、宗教とか、そういうものには興味ないので」
勝恵の顔を直視できない。目を合わせたらきっと怒鳴られてしまう。そうなれば嫌なことも嫌だと言えずに、もっと嫌な思いをすることになるのだと聡子は知っていた。今までもずっとそうだった。
「誰も宗教の話なんてしていないでしょう。あのね、お世話になるのだから、挨拶くらいすべきだと言っているの」
「神社のお世話になんてなりません。だから、困ることもないです」
聡子は内心、言ってやったという思いがあった。強く言われても自分の意見をちゃんと通したのだ。これで怒鳴られたとしても、変なことに巻き込まれるよりもずっといい。
しかし、勝恵は激昂するどころか、むしろ呆れたように重いため息をこぼした。
「あたしが言いたいのはそういう事じゃないの。アンタ、親からいったい何を習って来たんだい。自分一人の力で生きていると勘違いしてやしないかい?」
「アタシは自営業ですから、一人で仕事をしています。誰の力も借りていませんし、誰にも迷惑なんてかけていません」
「そうかい。アンタがいったいどんな仕事をしているかなんて、アタシは知らないがね。アンタが普段から出しているゴミの収集や、不燃物の回収だってタダじゃないんだよ。自治会が金を出してやっているんだ。ゴミを収集に来てくれる人がいなくちゃアンタも困るだろう。皆、持ちつ持たれつやっているんだ。いい歳をして誰の世話にもなっていないなんて、そんな子供じみたことを言うのはやめな」
聡子は顔が真っ赤になるのを感じた。酷く自分が恥をかいたような気がしてならなかった。そんなこと言われなくても知っているのに。
「帰って、帰ってください!」
勝恵の胸を押して玄関から押し出して玄関の戸を締めて、これみよがしに鍵をかけた。なんであんなことまで言われなくてはならないのか、理解ができない。
「私が誰に迷惑をかけたと言うのよ」
これだから年寄りは嫌だ。迷信深くて意地悪で、余所者に冷たい。あんな言い方をしなくても良いのに。こんなに一人で頑張っているのに。どうして邪魔をするのか。
聡子は悔しさに涙が止まらなかった。
がたん、と庭で物音がした。勝恵が怒って庭の方へ回って来たのかと思ってカーテンを勢いよく開け放った。
「庭に入らないで!」
文句の一つでも言ってやろう、と窓を開けようとして違和感に気づく。庭に立つ人影がやたらと大きい。いや、それは人でさえなかった。
人に形を似せようとしているナニカが、庭に立っている。不恰好な二本の腕があり、歪にゆがんだ二本の足があった。ぐずぐずと今にも崩れそうな身体を揺らして蠢いていた。
「ひっ!」
聡子は悲鳴を飲み込んで、一歩後ろへ下がろうとして腰を抜かした。
べちゃり、と窓ガラスにナニカの手が張りつく。物が腐ったような酷い悪臭がした。海の匂いだ。生き物が腐っていく、言いようのない塩臭い悪臭。
不意に意識が遠退いて、何故か頬に床板の感触を覚えた。
瞼を開けることができない。
聡子の意識が暗い水底へと沈んでいく。
ごぼり、と不気味な泡が意識の底から次々と浮かび上がっていくような気がしてならなかった。
まるで悪夢だ。
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