訪魂囁家
祖父が長年暮らした小さな日本家屋は、老いた畳と線香の匂いがした。
荷解きを終え、袖廊下に寝転がる。小さな中庭は祖父が存命の頃には多種多様な庭木や花で見事なものだったが、手入れをしてやらないと庭というのはすぐに荒れてしまう。鬱蒼と生い茂った庭木と雑草を眺めながら、明日は草むしりに費やすことを決めた。祖父のようにはいかないだろうが、見苦しくない程度にはしておくべきだろう。
祖父が亡くなったのは去年の年の暮れのことだ。急性心筋梗塞で亡くなった祖父はちょうどこの庭で倒れていたという。見つけたのは近所の方で、祖父とは囲碁打ち仲間だったらしい。中庭でうつ伏せになっている所を見つけた時には既に息はなかったという。
親族間で相続のことで多少の諍いはあったが、なんとか無事に終わり、祖父が住んでいたこの家は父が相続することになった。売却しても二束三文にしかならず、すでに遠方に住んでいる父たちも持て余していた所を、独身の私が借り受けた形で落着した。屋敷町の外れという立地は、喧騒で疲れていた売れない作家の私には願ってもない好物件といえた。
祖父母の仏壇の他の家具は全て処分したので、家の中はがらんとしているが、袖廊下と玄関に続く長い廊下に挟まれたような一間続きの三部屋のうち二つは蔵書と文机で潰れるだろう。
晩夏という言葉が脳裏を過る。遠くでひぐらしが鳴いている。黄昏時の風は、どこか秋を感じさせた。夏が終わっていく。
ごめんください、と声が聞こえたような気がした。
仏間から顔を出すと、曇りガラスの引き戸の向こうに誰かが立っているのが見えた。
「はい。すぐに参ります」
髪を解いて手櫛で整えながら、サンダルを履く。
曇りガラスの向こうにいるのは着物姿の女性だ。長い黒髪をおろしていて、俯いているのが分かる。
引き戸に手をかけた瞬間だった。背筋が泡立ち、全身に鳥肌が立った。急に周囲の気温が落ちていくのを感じた。どうして気づかなかったのか。この女性は喪服を着ているのだ。髪をまとめもせずに、ただ無造作におろしているだけというのは奇妙だ。
「あの、どちら様でしょうか」
曇りガラスの向こうの女は微動だにしない。まるで静止画のように身じろぎ一つしないのだ。
ごめんください、と女は無機質に繰り返した。
「はい。あの、どなたでしょうか」
やはり女は答えない。
戸から手を離す。言いようのない恐怖に手が震えた。
それからどれほど経ったか。
女の姿が溶けるように消えた。
寒気が引き、ようやく戸を開けると、玄関の前だけがびっしょりと濡れていた。
酷く強い潮の香りがした。
それから女は毎日やってきた。
時刻は日暮れ時、山の稜線に陽が落ちる頃に決まってやってくる。そうして、ごめんください、と無機質な声で繰り返す。
中庭へ回られると恐ろしいので、中庭に続く柵をしっかりと施錠し、防犯用のカメラまで取り付けたが、どうしてもあの女の姿を撮影することはできなかった。袖廊下側の窓は、結局朝のほんの僅かな時間以外固く閉じたままにしている。
喪服を着た女。そのイメージが毎晩私を苦しめた。昼間、執筆していても、背後にそれが立っているのではないか。そこかしこの物陰からこちらを覗き見ているのではないかという気がしてくるのだ。
私は私小説を書くが、流石にこの経験を書こうとは思えなかった。文字にして記すことで、よりはっきりとそれのことを認識してしまいそうで恐ろしかった。祖父の家に幽霊が出るなんて話は聞いたことがなかったし、母に聞いてみてもそれらしい話は何も聞けなかった。
女は必ず決まった時間にやってきた。戸に手を掛けるでもなく、微動だにしないまま玄関に立ち尽くし、五分程経つと見えなくなるのだ。その間、私はその姿を見るだけで決して近づかず、声もかけないよう心がけた。
十日程して、私は知人に助けを求めた。
『珍しいわね。貴女が私に電話をかけてくるなんて』
「ご無沙汰しております。不義理ばかりしていてすいません」
『元気そうで何よりね。それとも何かあったの?』
「実は先生に少し相談したいことがありまして」
三年ぶりに聞いた先輩の声は相変わらず無愛想で冷たい。彼女は私が所属していた文学部の先輩であり、私よりも先に作家としてデビューした人物だ。名前は三瀬という。
『相談相手なら他に幾らでもいるでしょうに』
「そんなことありませんよ。私に電話をかけてくるのは担当くらいです」
『今年は新作出さないの。そろそろ出さないと世間に忘れられるわよ』
「耳が痛いです。先生は昨年、美嚢団地についての怪談本を発表されましたよね」
美嚢団地は県下でも有名な心霊スポットだ。実際に事故や自殺が相次いだ事もあり、警察が見回りをしているなど、他所の心霊スポットとは趣が違う。辺鄙な場所にあるということもあり、忘れ去られつつある昭和の遺産といえる。先輩はそんな場所をモデルに作品を発表した。世間の評価も高く、来年の夏には映画化が決まっている。
『ええ。読んでくれたの?』
「はい」
読んだ。読んですぐに捨ててしまった。先輩はあの頃から学部の中でもずば抜けていた。才能の塊のような人だった。彼女の文才なら、純文学を書いても評価を得られただろう。先輩がその気にさえなれば。
「単刀直入に聞きます。先生には霊能力があるんですか?」
『ないわ。私にはそういう能力はない。でも、見たことはあるわ』
先輩の言葉を怪訝に思う。霊能力がないのなら、見えないのではないのだろうか。
『霊能力というのはね、自らの意思で怪異を視る力のことを言うそうよ。私は、ただ霊を目撃しただけ。誰にでもできるわ。貴女も知っているでしょう? 私は霊魂否定派なのよ。今は少し違うけれどね。貴女がわざわざこうして他ならぬ私にこの手の話を振ってきたということは、そういうことよね』
「はい。実は……」
私は祖父の家を相続して住んでいること。毎日やってくる着物の女のことを話した。
『私も受け売りなのだけれど、霊というのは家人に招かれない限りは家の中に入ることはできないそうよ。あるいは、取り憑いて中に入るか』
「やはりお祓いをしてもらうべきでしょうか」
『どうかしらね。取材でよく聞くのは、自称霊能力者にお祓いを頼んで返り討ちにあった話。中には亡くなった人もいたから、少し慎重になるべきよ。そうね。私の知り合いでよければ紹介するわ』
「知り合い、ということは美嚢団地の取材の時にも?」
『ええ。専門家よ。しかも無報酬で働いてくれるわ』
「無報酬? ボランティアか何かですか?」
『県庁の職員なのよ』
先輩は珍しく、楽しそうに笑った。
○
夕方頃にやってきたのはスーツ姿の如何にも真面目そうな長身の男性だった。年齢は私と同じか、少し下くらいだろう。理知的で整った顔立ちで、メガネをかけた姿もさぞ似合うだろうな、と勝手な印象を抱いた。
「特別対策室から参りました、大野木と申します」
深々とお辞儀をしながら、手渡された名刺を眺めると本当に県庁の職員だった。生活安全課というのがまた奇妙にリアリティがある。
「初めまして。四条です。わざわざご足労いただきありがとうございます。どうぞ」
失礼します、ときちんと断ってから靴を並べ、鞄を胸に抱いて入ってくる様子がどこか可愛らしかった。
「大野木さんのことは先輩の三瀬から聞きました。旧知の間柄なのですか」
「いいえ。先生とは以前、三度ほど御助力を頂いていまして。その縁が今もこうして続いています」
「美嚢団地にも?」
「何度か。止めきれずにご一緒する形で……」
昔から強引な所のある人だったけれど、作家になってもそれは変わっていないらしい。創作の為なら手段を選ばない。誰かと競おうなんて微塵も思っていない。自分の納得のいくものが書けるかどうか。売れる売れないは二の次。読者に決して媚びない。そう、私とは違う。
「それは災難でしたね。あの人は昔からああなんです。創作以外に関心がなくて」
「四条さんも作家をしていらっしゃると聞いておりますが?」
「私は先輩のようにはなれません。いつも売上や受け入れて貰えるかということばかり気になってしまって。ここへ越して来たのも気分を変えたくて、父に無理を言ってこの家を譲って貰ったんです」
「そこで霊が出た、と」
「はい。だいたい同じくらいの時間にやってくるんです。着物姿の女性で、髪は長くて下ろしています。お願いします。除霊してください」
大野木さんの顔色が目に見えて青ざめていく。柱にかけられた時計を見ると午後五時にもうすぐ差し掛かる頃だ。
「申し訳ありません。大切な説明をまだしていませんでした。私はあくまで窓口担当と申しますか、依頼主の方とのヒアリングやアポイントを取るのが主な業務でして。その、大変申し上げにくいのですが、私自身に霊能力と言われるものは一切ないんです」
思わず絶句する。つまりこの人はただの窓口係りでしかないということ。
「それなら他の霊能力を持った人が別にいらっしゃるんですよね」
「はい。本来なら一緒に来る筈だったんですが、別件でどうしても来ることができなくてですね。その、申し訳ありません」
「いえ、大野木さんが悪い訳ではないので。急に話を振ってしまったのも私ですし。もしかして幽霊とかそういうものは苦手なのでしょうか?」
一瞬、なんとか取り繕おうとしたのだろう。なんとも形容しがたい表情をした後に、静かに頷いた。メガネもかけていないのにフレームを上げようとするのは彼の癖なのかもしれない。案外、最近まで眼鏡をかけていたのか、あるいは普段は眼鏡で生活しているのかも。
「私はあくまで職務として怪異と関わっているだけですから。昔からなんと言いますか、そういう非科学的なものが苦手でしたから。今でも慣れません。依頼者の方にこんなことを言うのは非常識だと思いますが」
「いいえ。私が聞いたことですから。お仕事、辛いんじゃないですか?」
「いえ。やり甲斐のある職務だと思っています。それに頼りになる相棒もいますから」
「ああ、その方が霊能者なんですね。やっぱりこうテレビで見かけるような年配の女性なんですか?」
「いえ、二十代の青年です。私よりも年下なんですが、頼り甲斐があります。これまで一体どれほど助けられてきたのか分かりません。合流する予定なので、間に合えばいいんですが」
不意に雨粒が窓を叩いた。夕立だろう。雨脚は急に激しくなり、まるで洪水のような大雨が降り始めた。
「大変、窓を閉めてこないと。すいません、少しお待ちください」
「はい」
廊下の窓に手をかけた瞬間、視界の端に何かが見えた気がして足が竦む。
恐る恐る、左へと視線を向けると、玄関の引き戸が少しだけ開いている。その僅かな隙間から這うように五本の白い指が見えた。あの着物姿の女が磨りガラスの向こうに立っていた。
自然、視線が隙間へと移ろうとするのを、顔を伏せて堪えた。身動きひとつできない。あの女がこちらを見ているのが分かる。目を合わせてはいけない。本能的にそう思った。
「四条さん」
大野木さんが近づき、どた、と視界の右側で尻餅をついたのが見えた。
ガララ、と引き戸が少しずつ開いていく。雨の音が強くなると同時に、あの潮の香りが一段と強くなる。
ごめんください。
黒地に蝶をあしらった着物に身を包んだ、中年の女性だった。長い髪は濡れて波をうち、ぐっしょりと濡れている。
ごめんください、と抑揚のない声が繰り返す。まるで壊れたラジオのよう。ひび割れ、感情のない声が、何度も執拗に。
「な、なんの御用でしょう」
女性の声が止まる。
「帰ってください! お願いですから! 帰ってください!」
思わず大声で叫んでいた。恐ろしさと怒りが混ざったような感情だった。どうして私がこんな目に遭わないといけないのか。理不尽な恐怖に大声で怒鳴っていた。
「もう嫌なの! ここは私の家なの!」
その瞬間、掻き消えるように女の姿が溶けた。顔をあげると、玄関にはもう誰も立っていない。
消えていた。
「はぁ」
思わず力が抜けてずるずると床に座り込んでしまう。耳元でうるさいほど心臓の音が響いている。
「だ、大丈夫ですか!」
「はい。なんとか」
「すいません。なんのお役にも立てず」
「そんなことありません。一人だったらきっと気を失っていました。あの女の人の霊はもう来ないでしょうか」
「どうでしょう。彼がいたなら深く視てくれるのですが。怪異には相応の理由があります。原因と言いますか、因果が。これがわかれば解決に繋がるんですが。生憎、私にはそういうものが皆目見えないのです」
「因果、ですか」
「はい。柊という別の霊能者は『真』と言っていましたが」
あの女性の霊が訪ねてくる理由。どうしてうちなのだろう、そう思った瞬間、不意に疑問が浮かんだ。あの女性は私がここへ来るよりも前からやって来ていたのではないだろうか。
祖母は亡くなってもう随分と年月が経っている。だとするのなら、祖父を尋ねて来たのではないか。
その時だった。ガラス戸に拳を叩きつけるような音が家の中に響き渡った。
血の気が引いていくのを感じる。
恐る恐る、仏間の方を覗くと、袖廊下のガラス戸の向こうにあの女が立っていた。どん、と戸を叩く。びし、と亀裂が走り、細かい破片が廊下に落ちた。
不意に玄関が開く。
無言で入って来たのは二十代の青年で、端正な顔立ちをしている。青い雨合羽を着たまま框を上がると、遠慮する様子もなく仏間へと入っていった。彼には右腕がなかった。
「誰も口を開くなよ。一言も声を出すな」
彼はそう言うと、仏壇にある祖父の位牌を掴み、女の方へと近づいていった。女の手が止まる。
鍵を開け、彼は祖父の位牌を女に手渡した。
「持っていけ。その代わり、二度とここには来るな。アンタはもう来なくてもいいんだ」
女は祖父の位牌を胸に抱くと、亀裂のような笑みを浮かべた。長い髪の間から覗く白い歯が、やけに不気味に見えた。
女の姿が溶けるようにして消える。彼はすぐさま戸を閉めて、不機嫌極まりないといった顔でこちらを振り向いた。
「千早くん。よくこの家がわかりましたね」
「苦労したぜ。何度電話をかけても繋がらないし、メールしても返事はない」
「すいません。四条さん、彼が実務を担当してもらっている桜千早くんです」
どーも、と彼は会釈すると、大野木さんの上着から勝手にハンカチを取って雨合羽の雨粒を拭い始めた。
「あの、ありがとうございました」
「別に。俺は何もしてないよ。位牌を手渡しただけだ。悪いとは思うけど、あのままだとあの女も成仏しないままだから仕方ない。元はと言えば、あんたの爺さんの蒔いた種だ」
「祖父の?」
「清廉潔白な人間なんていないんだ。気にしない方がいい。とにかく。あの女はもう来ない。ただ来年のお盆の時期はこの家にはいない方がいいな。盛り塩でも玄関にしとくと多少は違うと思うけど。あと庭があるなら槐の木を植えたらいい。魔除けになる。この庭は色々と溜まりやすいみたいだ」
そう流暢に話す彼の右眼が淡い青色に見えて、思わずドキリとした。
「あなたには何が視えたの?」
「孫娘が知らなくてもいいことだよ。お姉さん」
行こうぜ、と玄関へ向かう。経や祝詞を唱えるでもなく、ただ『視る』だけで霊の因果を辿ることができる。先輩も言っていた。彼は本物だ、と。なるほど、確かに彼は本物の霊能者だ。
「四条さん。また何かありましたら名刺の番号へお電話ください。いつでも伺います」
「ありがとうございました。あの、何か御礼を」
「必要ありません。ただ、どうぞこの件はご内密に願います」
深々と頭を下げて、大急ぎで彼の後を追っていく。
玄関へ送り出すと、いつの間にか雨は上がっていた。
雨上がりの空の下、雨合羽を着た霊能者と、その隣を歩く公務員。面白い組み合わせだな、と思った。
後日、母から電話があり、祖父母の眠る墓から祖父の遺骨だけが忽然と消えていたという。
あの女だ。そう思ったが、あえて何も言わなかった。
祖父はあの女の人に何かをしたのだろう。おそらくは悪い、恐ろしいことを。
そして、死して尚、その罪が許されることはなかったのだろう。
あれから数年経った。
今でも雨が降ると、あの日のことを思い出す。
あの二人は、今も誰かの為にこの街を守っているのだろうか。
それとも。