嫉座紅席
夜行堂という摩訶不思議な店が、どうやら屋敷町にあるのだという噂を聞いたのは、たしか去年の暮れのことだったように思う。私が二つ目になって数年経ち、なかなか手前の落語ができずに燻っている所だった。
『祝連坊』の寄合の席で、そんな馬鹿げた事を口にしている恰幅の良い男がいた。狸じみた顔を歪めて、だくだくと冷や汗をかきながら、周囲の先達たちから夜行堂という骨董店の話をしろと脅迫されているようだった。
彼は困った様子で渋っていたが、どこの世界でもそうであるように、我々の世界にも年功序列というものが存在しているので年配者の意見を無碍には出来ない。しかも、それが自分の師匠筋に当たる人物であればむべなるかな。無闇に機嫌を損ねてしまっては破門されかねないというものだ。
「それで。その夜行堂というのは、屋敷町の何処にあるのだ」
「いや、その、何処と言われましても。わたくしめも何がなんやら。気がつけば、店のある場所に迷い出ておりまして。どんな道を歩いたのかも、とんと覚えていないのです」
「馬鹿な。それほどの逸品を仕入れておいて、何処で物にしたのか話さぬとはどういう了見か。わしらを馬鹿にしとるんだろう」
「滅相もないことです。わたくしは、本当にどうしてあの店に辿り着いたのか、まるで覚えていないのです。どうか信じてください」
「では、なぜ、それをワシらに見せようとせぬのだ。何も奪ってしまおうというのでない。あんな逸品を見せびらかすだけしておいて、触らせもしないというのは我慢ならん」
「いえ、ですが、その」
もごもごと言い淀む態度に、師匠たちの癇癪が爆発する。大勢の年寄りが、立場の弱い人間にぎゃあぎゃあと喚きたて責め立てる姿があんまり意地汚かったので、助け舟を出してやることにした。
「お師匠方、まもなく車が参ります。何卒、御移動をば願いまする」
水を差されて師匠たちは黙り込み、これで終わりではないぞ、と狸顔に念を押してから座敷を後にした。あのままでは杖で殴り殺されかねない勢いであったから、良い熱冷ましになっただろう。
「いやあ、助かった。助け舟を寄越して頂いて、感謝の言葉もありません」
「次の河岸が決まったので、御移動を願っただけのこと。感謝される謂れもありませんよ」
「はは、親父の後を継いで入会しましたが、どうにも私には荷が重いようです。芸の肥やしになればとも思いましたが、なかなかそうはいかないようだ」
「なるほど。『かつては噺家たちの切磋琢磨の会だったが、今となっては年老いた化け物供の巣窟』ですか」
「いいえ、そこまでは申しませんが。そうですね、想像していたものとは違いましたね」
「言いたいことは理解しておりますよ。確かにお師匠様方の骨董に関する情熱は、もはや落語のそれを上回って余りある。口を滑らせたのが命取り。軽々にそんなものを持ってくるあなたにも問題がある」
「いや、まったく。話のネタにでもなればと思いましたが、ああも食いつかれては口を噤むほかありませんな。軽率でした」
男はそう言って、袂から小さな白い包みを取り出すと、ふぅ、と息を吹きかけた。包みがするするとひとりでに解けるようにして顕になったのは、紅玉を掘って作ったブローチだった。目を閉じた女性の横顔が彫り込まれていて、そのあまりの美しさに思わず息を呑んだ。
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