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迷除子夜

 お兄ちゃんのような人を「ぼうくん」というらしい。

 お父さんの書斎にある辞書をひいてみたら、暴れる君と書くらしい。乱暴な王様という意味なのだそうだ。なるほど、お兄ちゃんにふさわしい。いつも偉そうにしていて、乱暴者で、ぼくを召使いのようにこき使う。まさに暴君だ。

「勝手にどっか行くなよ。俺が怒られるんだからな」

 行き交う大勢の人を眺めながら、ぼくとお兄ちゃんはお父さんたちが戻ってくるのを待っていた。

 大晦日の夜、太宰府のお婆ちゃんの家へ遊びに来た僕たちは、いつものように太宰府天満宮へ初詣に来ていた。いつもは九時に寝なければいけないのだけれど、今日だけは特別に、次の日になるまで起きていても怒られない。甘酒を飲んで、除夜の鐘の音を聞いて、年越しそばを食べるのだ。

 お兄ちゃんは中学生になってから、なんだか機嫌が悪い。ぼくにも意地悪になったし、お父さんやお母さんと喧嘩もしたりする。いつもイライラしていて少し怖い。

 でも、ぼくはたくさん本を読むので、それがどうやら「反抗期」というものであるらしいことを知っていた。うんと小さい時にもイヤイヤ期というものがあったそうだけど、中学生くらいにも第二のイヤイヤ期が来るらしい。赤ちゃん返りみたいなものだとお兄ちゃんに教えてあげたら、頭をたくさん叩かれて泣かされてしまった。

 お兄ちゃんは体が大きくなった。身長も高くなって、筋肉がついた。髭も生えて、声が少し低くなった。部屋も別々になってしまって、お兄ちゃんが急に大人になったような気がした。

「だりぃ。早く戻ってゲームしてぇ」

 大人になってもゲームはするのだな、とぼくは少し可笑しくなった。

「ぼくも寒いから早く帰りたい。戻ったら一緒に対戦しよう」

「布団の中でこっそりやろうぜ。見つかったらうるさいからな」

 お兄ちゃんの鼻が赤くなっている。ぼくもきっと寒さで同じようになってしまっているだろう。おうちに帰ったらコタツに潜り込みたい。暖かいお布団でもいい。

 不意に雑踏の向こうで手を振るお母さんが見えた。

「あ、お母さんだ!」

 参道の反対側、すぐそこのお母さんのところへ思わず飛び出してしまった。後ろでお兄ちゃんの怒鳴り声が聞こえたけれど、あっという間に大勢の人たちの流れに巻き込まれて、全然お母さんの方へ進めない。一生懸命に大人の人たちの間をかけ分けようとしたけれど、いつの間にか自分がどこを歩いているのかも分からなくなってしまった。

 ようやく人の群れから抜け出せた時には、ぼくはすっかり迷子になってしまっていた。お父さんもお母さんも、お婆ちゃんやお兄ちゃんも見当たらない。

 ぼくは本を読んで、こういう時にどうしたらいいか知っている。迷子になったらその場を動かないことが大切だ。

「うう、ううう」

 けれど、実際にこうして真夜中に自分だけでいることがこんなに心細いことだなんて思わなかった。怖くて怖くて、とても動かずにはいられない。とにかくお母さんたちに会いたくて、ぼくはますます迷子になってしまった。気づけば、参道から外れた、少し薄暗い通りを歩いてしまっている。

 悪い人に見つかってしまったら、きっと誘拐されてしまう。ぼくは泣き声が他の人に聞こえないように、ハンカチで口を覆ってポロポロと泣いた。

 お母さんやお父さん、お婆ちゃんもきっと心配しているだろう。お兄ちゃんは今ごろ怒り狂っているかもしれない。ぼくが一人で勝手に離れてしまったから。もしかしたら、お父さんたちになんで

ちゃんと見ていなかったのかと怒られているかもしれない。もう二度と一緒に遊んでくれなくなるかもしれない。そう思うと、余計に涙が溢れて止まらなかった。

 泣いているところを見られたくなくて、ぼくはますます入り組んだ道へと入っていってしまった。暗い道は怖いので、提灯の吊るされた道ばかりを選んで進んでいくうちに、まるでどこだか分からない場所まで来てしまったのだ。

 気がつかないうちに、ぼくは林の中をひとりで歩いていた。竹を斜めに切った筒の中で、火がゆらゆらと揺れている。どこか青白くて、手をかざしてみても不思議と熱くない。道の左右に置かれた灯りが、林の奥へと真っ直ぐに続いていた。

 参道で聞こえてきたお囃子とは違う、もっと楽しげな太鼓や笛の音が聞こえてくる。なんだか不思議な気持ちになってきて、ぼくはいつの間にか泣くのを忘れていた。

 林の奥へ進んでいくと、道の傍らでいびきをかいて眠っているお爺さんを見つけた。白い髭のある、小さな背丈のお爺さんで、眉も髭、少しだけ残った髪の毛も真っ白だ。赤いちゃんちゃんこを着ていて、襟のあたりにふわふわとした白い毛皮がついているのが可愛い。気のせいか、時々ひくひくと動いたりしているけど、まさか本物ってことはないと思う。

 お爺さんは瓶を握りしめたまま顔を真っ赤にして寝ている。近づくとお酒の匂いがしたので、きっと酔い潰れて寝てしまったのだろう。このまま朝になれば、きっとカチンコチンに凍りついてしまうに違いない。

「お爺さん、お爺さん」

 声をかけてみたけれど、お爺さんのいびきがうるさいので聞こえていないらしい。今度は声をかけながら身体を揺らしてみたけれど、不機嫌そうな顔をするだけだった。仕方がないので、ぼくは道端の草を一本引き抜くと、その先っちょでお爺さんの鼻をこちょこちょとくすぐった。

「ふぁ、ふぁ、ぶわっくしょん!」

 まるで爆発みたいなくしゃみをして、お爺さんがむっつりとした様子で目を開いた。身体を起こしてむにゃむにゃと口を動かしてから、ぼくのことをじっと見る。

「……小僧。こんなところで何をしておるか」

「ええと、その、お父さんたちとはぐれてしまって」

「迷子か。おまけにこちら側に迷い込むとは、運が良いのか悪いのか。縁を頼りに此処まで歩いて参ったのは、見事と申さねばなるまいな」

 ふわ、と酒臭いあくびをしてから、お爺さんが立ち上がると、ぼくよりもほんの少し大きいくらいだ。お婆ちゃんと同じくらいの背丈かもしれない。

「ええい。こんな場所で横になるものではないな。腰が痛くてたまらぬわ」

 それからぼくの頭を、まるで犬にするみたいにワシワシ撫でる。

「来た道を戻ることは出来ぬぞ。前に進まねばならぬ」

 お爺さんの手は、お婆ちゃんの手にそっくりだった。シワシワだけど柔らかい。

「お爺さんはこんなところで何していたの?」

「大晦日から三ヶ日はあちこちに顔を出させばならん。さりとて、人間と同じ道を歩いていくのは御免よ。故にこうして丘の上の稲荷社まで道を通しておるのだ。此処ならば人もおらず、すれ違うのも神々ばかり故な。油断して酒を飲み歩いておったら、いつの間にか眠ってしもうた」

「お爺さんは、神様ですか?」

 うむ、とお爺さんは得意げに頷いてから先へ歩き始めた。

「何を隠そう。わしこそはウカノミタマノミコトノカミよ。五穀豊穣を司る、稲穂の神ぞ」

「……お米粒の神さまですか?」

 お爺さんはなんとも言いようのない顔をしていたけれど、間違ってはおらぬ、と唸るように頷いた。

「普通のお爺さんにしか見えないのに……」

「神たる証なぞ誰も持っておらぬわ。そもそも形のあるものではない。信心もそういうものぞ」

 ぼくが想像していた神様は、もっとこう白い服を着ていて雲の上に乗って、手にはぐにゃぐにゃに曲がった木の杖を持っているような神様だったので、道端で酔い潰れているお爺さんだとはいまいち信じられなかった。

「ともかく母御の元へ戻らねばなるまい。今頃、そなたの身を案じて気が気ではなかろう。大晦日の夜に迷子になる者は少なくはないが、ここへ迷い込む者はそうはおらぬ。いくら探し回ろうと見つからぬ故、早う戻らねばの」

 林の間の道を進んでいくと、提灯の下で座り込んで酒盛りをしている人が何人か見かけた。それはおじさんであったり、お姉さんであったり、おばさんであったり、お兄さんであったりしたが、誰もがお爺さんの顔を見ると深々と頭を下げた。

「あの人たちも神様ですか?」

「神もおるが、ほとんどは神使よ」

「しんし?」

「神の使いよ。狐であったり、鴉であったり、色々とおるわい。大晦日は主は血を吐くほど忙しいが、神使たちは割とのんびりとしておるのでな。なにしろやれることがない。束の間の休みをああして、楽しんでおるのだ」

「どうして人の姿をしているんですか?」

 たわけ、と呆れたように笑われてしまった。

「箸も握れず、どうやって馳走を味わうと申すか。人の姿ほど便利なものはないぞ。多少窮屈だと申す者もおるが、どこへ出かけるにも不便がなく、バスや電車も使えるではないか」

 バスや電車に乗るんだ、と意外な気持ちになってしまった。案外、僕たちが気づいていないだけで、普段からあちこちで神様や神使を見かけているのかもしれない。そう思うとなんだかとても不思議な気がした。

 赤い橋をお爺さんと一緒に渡っていく。こっそり橋の下へ目をやると、キラキラと光が輝いている。よく見ると光があちこちに動いたりしていた。

「落ちるでないぞ。太宰府の夜景を眺めておるでな」

 ああ、あの光の点が進んだり、止まったりしているのは車の明かりだったのか。あのひときわ眩しい明るい辺りが、きっと天満宮なのだろう。あそこにお母さんたちがいて、ぼくのことを探し回っているのかもしれない。

 橋を渡り終えると、石の階段が見えた。脇には小さな電話ボックスがあった。小学校の近くにも公衆電話があるのは知っていたけれど、ぼくは生まれて九年間、一度もあの中に入ったことがない。

「ええい。稲荷社から本殿へ降りていくのも面倒よ。ここらであそこへ繋いでしまわねばなるまい」

 お爺さんはそういうと、電話ボックスの扉を開けてぼくを連れて中へ入った。中は想像していたよりも広かったけれど、一人で閉じ込められてしまったらきっと怖いと思う。

「ええと、何番にかけるのだったか。ええい、耄碌していかんわい」

「誰にかけるんですか?」

「菅原よ。正月に土地の一切は奴が取り仕切っておる」

「菅原さん」

 口に出してみると、なんだか聞き覚えのある名前だ。何度か口にしたことがあるような、ないような。そうだ。お婆ちゃんが天神様と呼んでいた神さまの名前だ。

「菅原道真。この太宰府天満宮の祭神よ」


      ○

 菅原道真さまのことは、ぼくだって知っている。

 ぼくが通っていた幼稚園は天満宮の中にあった。毎月、誕生日の子たちと一緒にみんなでお参りに行っていたのでよく覚えている。小学校に上がる前に、お家ができたので太宰府からは引っ越してしまったが、菅原道真さまのことは幼稚園でよく習っていた。

「とっても頑張り屋さんだったのに、悪い人に嫉妬されて、太宰府にさせんされてしまった人」

 詳しいことは分からないけれど、たしか学問の神様だった筈だ。だって、今夜は初詣よりも、お兄ちゃんの合格祈願が一番大事な用なのだから。

 お爺さんが電話をかけている相手は、その菅原道真さまらしい。

「難しいことは言わぬ。そちらへ繋げばよい。社から戻る訳にもいくまい。……ええい、しのごの言わずに早うせぬか!」

 ぼくには大人のことはよく分からないけれど、どうやら学問の神さまよりも、お米粒の神さまの方が偉いらしい。たしかにどんなに偉い人でもお米は食べるのだから、それはもう偉いに違いなかった。

「あ? 名前とな。小僧、名前はなんと申す」

「ひなた、です。大内ひなたです」

「聞こえたか。そうよ。お主の氏子であろう。分かったら繋がんか!」

 そう言って勢いよく受話器を置いた瞬間、後ろのドアが勢いよく開いた。

「うわ!」

 驚いて後ろへ転んでしまったぼくが目を開けると、そこは見覚えのないどこかの家の廊下で、板の間がひんやりと頬に冷たい。

「頭をぶつけてはおらんか。ほれ、立つがよい」

 お爺さんが電話ボックスから出てきて扉を閉めると、それは木の戸になってしまっていた。意味がわからないぼくが慌てて戸を開くと、そこは普通のトイレだ。

「ここは、どこですか」

「此処は修羅場よ。八百万の神々、ここいらの社の神が一堂に会しておる。ほれ、そこの襖をそっと開けてみるがよい」

 お爺さんに言われたとおりに、静かに襖を開けてそっと中を覗いてみて、ぼくは言葉を失ってしまった。そこには大勢の人たちが、とてつもない表情でばりばりと紙に何かを書いたり、亀の甲羅を火で炙ったりしていた。なにをしているのか分からない。でも、とにかく必死で全員が疲れ切っている様子だった。あちこちに栄養ドリンクのから瓶が転がっていて、まるで締切前の作家さんのようだと思った。あくまでも想像だけど。

 ぼくはそっと襖を閉じた。

「神さまたちは、ここでなにをしているんですか?」

「参拝客の願いを叶えておる。とにかく数が多いのでな。神々とてあのような有様よ 

「お爺さんはしなくてもいいのですか?」

「わしは良いのだ」

「どうして?」

 ぼくが聞くと、後ろからぼさぼさの頭をした背の高い痩せた男の人がやってきて、今すぐ布団に飛び込んで死んでしまいそうな顔で笑った。

「それはウカノミタマ様が同じ部屋で仕事をするのも憚られるほど尊い方だからです」

 とっさにお爺さんの後ろへ隠れる。

「おお。こやつ、幼いのに見る目があるわい」

「困りましたね。神通力とエナジードリンクで体力は回復させているのですが、目の下のクマがどうしても取れなくて」

 男の人はそういうと、膝を曲げてちょうどぼくの視線と同じくらいの高さで話せるように屈んだ。

「こやつが先に話しておった、此処の祭神よ」

 お爺さんがそういうので、ぼくは思わず口をぽかんと開いてしまった。だって、目の前にいる男の人はなんというか普通の人だ。髭を蓄えている訳でもないし、浮いて光ったりもしていない。その辺りを歩いている人だと言われても、ぼくはすぐに信じただろう。

「そうやってすぐに子供に正体を明かすのはやめてください」

「細かいことを言うでない。成長すればじきに忘れるわい」

「忘れない子が割といるから困るんです」

「ええい、わしのやることに文句をつけるでないわ!」

 ぎゃあぎゃあ、と喧嘩する姿がなんとも神さまらしくない。ぼくとお兄ちゃんの喧嘩となにが違うのだろう。

「本当に、道真さまですか」

「ええ。そうですよ。君は天満宮の幼稚園へ通っていましたね。お兄さんのこともよく覚えていますよ。年長さんの時に転んで足の骨を折ってしまったでしょう。兄の怪我が早く治るよう真摯に祈っていて、優しい弟なのだなと思ったものです」

 ぼくはなんだかとても感動して、ぱんぱんと二回柏手を打って頭を叩いた。

「呼ばずとも目の前にいますから不要ですよ」

 よしよし、と頭を優しく撫でられた。

「まずは御家族を見つけねばなりませんね。社務所で保護して貰うという手もありますが」

「たわけ。なんの為にお主の元へ来たと思っておる」

「そんなことを言われましても、氏子の居場所を神通力で見つけるようなことはできませんよ」

「使えぬ男よ。お主の社の領内であろうが」

 なんだかぼくが思っていたよりも、神さまにできることというのは少ないらしい。

「無茶を言わないでください。年越しを祝おうとどれだけの参拝客が来ているとお思いですか。流石に一人一人の居場所までは分かりません。おまけに、この体調ですから」

 確かに道真さまの顔色は子どものぼくから見ても、病気の人みたいに具合が悪そうだ。牡蠣に当たった時のお兄ちゃんを思い出した。

「仕方あるまい。誰ぞに助力を乞おうぞ」

「お言葉ですが、此処に集った神々にそんな余力のある方はいません。ですから、ここは縁に頼るとしましょう。ウカノミタマ様、以前お貸しした指南車はどちらに?」

「おお、それは妙案ぞ。少し待つがよい。アマテラス様と東京観光に使ってから宝袋に入れっぱなしにしておった筈」

 腰から下げた小さな袋の中から、次から次へとよく分からないものが飛び出してくる。天津甘栗の袋、竹とんぼ、金平糖、食べかけのみかん、大福、猫じゃらし、空になった酒瓶、それから花札がいくつか。

「ぼくの鞄の方が片づいてる」

「余計な世話じゃ。この袋は幾らでも詰められるのはよいが、目当てのものを探し出すのも一苦労よ。ええい、面倒な」

「いつまで待っても返して頂けなかったのは、そういう理由でしたか」

「くどいことを申すな。すぐに返すわい」

 あったぞ、とお爺さんが袋の中から取り出したのは、掌に乗せられるくらいの大きさで、車輪が二つある乗り物に乗った仙人みたいな人が剣をかざしている。持つ部分がついていて、お母さんが持っている自撮り棒みたいだ。すべて木で作られていて、表面が飴のようにつやつやとしている。

「これは指南車よ。なんといえばよいか。これを持って目的を念じながら歩けば必ずやその場所や、相手の元へと辿り着くことができる。菅原が時の天皇より秘かに下賜されたものよ」

「本来なら宝物殿に収蔵されるべきものなのですが、少し手を加え過ぎまして。人の手には余るので、お貸しするまでは押し入れで死蔵しておりました」

「ともかく、これさえあれば容易に縁を辿ることができる。ひなた、そなたも家族の元へ戻れよう。さぁ、持ってみよ。落とすでないぞ」

「はい」

 落とさないように両手で棒を持ってみると、思っていたよりも軽い。

「そのまま家族のことを思い浮かべてみよ」

 お爺さんに言われたとおりに、ぼくはお母さんや家族のことを思い浮かべた。早くおうちに帰りたい。温かいコタツに入って、一緒に年越しそばを食べたい。

 カタカタと棒の上の人形がひとりでに動いて、急に右の方へ回転した。ビシッと剣を向けている方向に、ぼくの家族がいる。それが不思議とわかった。

「さて、では参ろうかの。着いて参れ。菅原」

「残念ながら、私はここを離れる訳には参りません。猫の手、いえ、狐の手も借りたい忙しさなのです。故に何卒、我が氏子を家族の元へお連れ頂きますよう伏してお願い致します」

 お爺さんは一瞬だけ唇を尖らせたけれど、ふん、と大きく鼻を鳴らした。

「仕方あるまい。務めを果たすがよい」

「感謝致します。ひなた君も道中気をつけて。ご家族と会えるよう心から祈っていますよ」

 ぼくが幼稚園の頃から知っていた学問の神さまは、やっぱりとても優しい神さまだった。お兄ちゃんが合格できるようにお願いしようかと思ったけれど、ここで直接お願いをするのはなんだか間違っているような気がした。


     ○

 お爺さんに連れられて階段から一階へ降りると、そこはご飯も食べられるお土産屋さんのようだった。テーブルで泣きながらご飯を美味しそうに頬張っているお兄さんたちも、もしかするとどこかの神さまなのかもしれない。

「いかん。急がねば間もなく年が明けてしまう」

 ぼくはお爺さんと手を繋いで、参道の人混みの中へとえいやと飛び込んだ。前も後ろも、右も左も人だらけで身動きが取れない。指南車は参道の先、大きな鳥居の方を向いたままだ。

「別れ際に菅原に何か言いかけておったろう。何か頼み事でもあったのではないか?」

「うん。でも、あそこでお願いをするのはおかしいような気がして」

「神を目の前にすれば、誰であれ願い縋りつきたくなろう」

「ぼく、お兄ちゃんを合格させてくださいってお願いしようとしたんです」

「ほう。ならば、何故に願わなんだ」

 お爺さんに言われて、ぼくは少しだけ考えた。

 息を夜空に吐くと、冷たい空気に湯気になってすぐに消える。あちこち眩しくて、なんだか夢の中にいるみたいな気持ちになった。

「お願いされる神さまも、すごく大変なんだなって思いました。ぼく、今までそんなこと思いもしなくて。あんなに大変な思いをしながらしてたんだなって」

 身勝手に願いごとを口にするのが、なんだかすごく恥ずかしくなってしまった。

「簡単にお願いしたらいけないなって思ったんです」

 ぼくの言葉を聞いて、お爺さんは難しい顔をしてから、こつん、とぼくの額を小突いた。

「生意気な坊主よ。人を呪い、成功を妬むようなものならいざ知らず。他者の幸せを願ってのものをどうして無碍にすることがあろうか。何も恥じることなどあるまい」

 ようく聞け、とお爺さんがぼくの顔を両手で包む。

「本来、神前で人がすべきは誓約よ。他ならぬ己に大願を誓い、神を証人に天命を乞う。誓願をたてた者は人事を尽くさねばならぬ。分かるか。人の努力があってこそ、よ。合格の祈願がしたいのならば、まずは兎にも角にも勉学に励む他に道はない。天命以外の何物も入る余地のないほど積み重ねられた努力の果てに、時運は訪れるのだ」

 それこそが神々の領分よ、とお爺さんは力強くそう言った。

「お兄ちゃんは、毎日たくさん勉強しています。ずっとずっと勉強しています」

「ならば神前で祈るがいい。きっと聞き届けられようぞ」

 結果は神のみぞ知る、とお爺さんは笑う。ぼくはようやくこの方が、本当に神さまなのだとそう分かった。

 不意に、指南車が震えた。見ると、仙人が剣をぐるぐると動かしている。

「菅原め。趣味の悪い改造を施しおってからに。目立っていかん」

「壊れたの?」

「縁を見つけたのだ。お主との縁を誰よりも探しておった者が、そこに来ておるぞ」

 お爺さんがつい、と指を振るとほんの一瞬だけ人混みが途切れた向こうに、お兄ちゃんの姿が見えた。上着を脱いで、泣きそうな顔をしてあちこちに目を配っている。声は聞こえなかったけれど、唇が動いて、ぼくの名前を呼んでいるのが分かった。

「お兄ちゃんだ」

「良い兄御じゃの。兄弟仲良く致せ。今宵のことはひと夜の夢と心得よ」

 良いな、と念を押しながら指南車を手に取る。

「ありがとうございました」

「礼には及ばぬ。……及ばぬが、どうしてもというのなら天津甘栗を開闢稲荷の社へ奉納せい。迷子にならぬよう兄と共にな。気が向けば相手をしてやるわい」

 お爺さんはそう言って、ぼくの背中を優しく押した。

「振り返るでないぞ」

 言われるまま、参道の反対側へ辿り着いた。慌てて振り返ったけれど、お爺さんの姿はもうどこにも見つけられなかった。

 ひなた、とお兄ちゃんの怒鳴り声が聞こえる。

 でも、ぼくにはいつもよりずっと優しげに聞こえたのだった。


 それから、ぼくはお父さんとお兄ちゃんから散々に叱られて、お母さんとお婆ちゃんはホッとして泣いてしまった。

 迷子になっていた間のことを聞かれたけれど、正直に話すわけにはいかないので、とにかく探し回っていたと嘘をついた。神さまもこんな嘘ならきっと許してくれるだろう。

 お兄ちゃんはぼくを探すために天満宮の中を何周もしてくれたらしい。脇道を探したり、交番に行ったり一番がんばってくれていたのだという。

 本殿に辿り着く頃には、年が明けてしまった。遠くで除夜の鐘の音が聞こえる。あちこちで新年の挨拶が交わされる中、今からが本番だと気を引き締めている青い顔をした人たちは、きっと神さまに違いない。

 ぼくたちが知らないだけで、気づいていないだけで本当はあちこちに神さまがいて、ぼく達のことを見守ってくれているのかも知れない。確かめる術なんてないけれど、そう思うと少しだけ心強い。正しい行いをすることが、努力することが間違ってはいないと言ってくれているような気がした。

 長い長い列を待って、ようやく本殿の賽銭箱へ五円玉を放り投げる。

「お兄ちゃん。神さまに何をお願いするの?」

 手を合わせながら、お兄ちゃんが不機嫌そうに顔を歪める。

「二度と食中毒にならないように頼むわ」

 お爺さんが、ウカノミタマ様が聞いたならなんて顔をしただろう。

 きっと鼻で笑ったに違いない。

 春になったら、お兄ちゃんと御礼参りに来よう。

 合格していても、していなくても。

 きっと神さまも天命を尽くしてくれたと思うから。

 


 

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嗣人
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