夜行亜譚 愛
あれは確か二月の中頃のことだったように思う。
原稿を受け取りに細田先生の住まう鴨居荘へ向かうと、二階の窓を少しだけ開けて外を覗き見ている先生の姿が見えた。この寒空の下、僅かに開いた窓に注目しなければ誰も気付かないだろう。一体なにをしているのか。オート三輪が通過したのを確認してから、急いで通りを横断する。
鴨井荘は先の戦争でも焼けずに残った古い木造アパートで、いかにも大正浪漫を彷彿とさせる洋風のデザインをしていた。かつてはお雇い外国人とその家族が住んでいた由緒ある文化遺産だというが、先生のいうことなので本当の所はよく分からない。先生には虚言壁があるので、なんでも頭から信じ込んでしまうと痛い目に合う。
以前、南方で川端康成を部下にしていたと聞いた時には、酔っていたせいもあって本当に信じ込んでしまい、後からえらく恥ずかしい思いをすることになった。考えてみれば、先生はそもそも戦争に行っていないのだ。
立てつけの悪い玄関の引き戸を苦労して開け、靴を脱ぎ捨て、やたら段差のある廊下へと膝をついてあがる。飴色に照り輝く廊下を進んで、二階への螺旋階段を手をついて登っていく。薄暗い二階通路の一番奥にある部屋が作家、細田伊吹先生の自宅になる。
「先生。お邪魔しますよ」
ノックしてから声をかけると、少ししてからいかにも不機嫌そうな声でドーゾ、と返事が返ってきた。
ドアを開けて中へ入ると、積み重なった本があたりに散らばり、床が見えない。まるで本の海だ。顔をあげると、部屋の奥で窓を開け放ったまま細田先生がこちらを振り返りもせずに表の様子を見下ろしていた。先生はひょろりと背が高く、肩幅が女性のように小さい。虚弱体質な外見の通り、酷く身体が弱い。先の戦争でも兵役を免除されていた程だ。「爪楊枝に銃が握れるか」と憲兵にこっぴどく罵倒されたことを今でも強く根に持っていて、元憲兵を見ると腹が立ってしょうがないという。
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