天地勉明
私の朝は目覚まし時計の音と共に始まる。
寝床から手を伸ばし、けたたましく喚き続ける目覚まし時計の息の根を止める。
西鉄大宰府駅から徒歩数分という好立地に立つ私の住まいは、築35年を数えるボロアパートである。最近はとかく換気にうるさい風潮があるようだが、私の家などはその点でいえば素晴らしいものがある。二十四時間、いつでも隙間風が入ってくるので夏はエアコンの室外機の風で蒸し暑く、冬はまるで冷蔵庫の中もかくやといった有様だ。
布団の中から這い出るのに、私は十数分の時間を要した。ようやく布団から出ると、もたもたはしていられない。さっさと歯を磨いて服を着替え、仕事道具を持って家を後にする。
「あら。おはよう」
錆びの浮いた階段を降りる途中の私を、庭を掃いていた大家さんが見つけた。大家さんは高齢だが、一人暮らしを謳歌している。入居者にとって彼女は非常にありがたい存在である。
「おはようございます。今日も寒いですね」
「ええ、ほんとに。早く暖かくなってくれるとよいのだけれど」
「春も間もなく来ますよ。それじゃあ、いってきます」
「行ってらっしゃい」
私の背を見送る大家さんへ手を振りながら、私は空を見上げた。曇った冬の空に、ため息がそっと溶ける。
駅が近づいてくるにつれ、学生たちの姿が多くなり、やがて学生の群れの中に飲み込まれた。わあわあ、ぎゃあぎゃあとやかましい。しかし、彼らの顔はどこか緊張しており、不安に押し潰されそうな顔をしている。
無理もないことだ。人生経験の少ない彼らにとって、受験は人生の一大事、分かれ道と思うのは無理からぬ話だ。
この時期、学問の神から御神徳を得ようと全国から受験生と、その親たちが集まってくる。地元の風物詩だが、それに関わる仕事をしている私からすれば、他人事ではない。私はおもむろに群れから逃れるように、脇道へと逃れた。
私の職場はどこかに決まったものではない。静かで長居ができ、ノートと鉛筆を使うスペースが確保できればどこでもよいのだ。美味いコーヒーを出す店であれば至高である。
よって、私が職場にしているのは喫茶店であることが多い。しかし、コーヒーの一杯で長居することを良しとしないような器の小さい店はよくない。少しでもうちにいてください、というような懐の大きい店でなくてはならない。そういう店にこそ私は足を伸ばし、長居をし、そしてほんの気持ち程度に御神徳を下賜するのである。
「おはようございます」
開店間もなくやってきた私の顔を見て、カウンターの向こうで豆を挽いているマスターが笑顔を作った。
「今日は冷えますね。いつものでいいですか?」
「はい。お願いします」
私は頭をさげて、いつものように窓側のテーブル席に座る。荷物からノートと手帳、黒と赤の鉛筆を取り出して整える。そうして、コーヒーがやってくるまで窓の外を眺めるのが日課だ。
「今日は観光客が多いですね」
「受験シーズンですから。おかげでこちらも儲かります」
「すいませんね。稼ぎどきに邪魔をしているみたいで」
「なにを仰いますか。お客様は神様ですから。時間の許すかぎり、ゆっくりしていって下さい」
正鵠を射る、とは正にこのことである。私は苦笑いしながら、何度もお礼を言った。
「どうぞ。熱いですから、気をつけて」
「ありがとうございます」
湯気のたちこめるコーヒーを一口啜り、香りと苦味が口の中に広がり、思わず口元が緩んだ。
さて、これで仕事をしないわけにはいかなくなった。
ノートを広げ、私はボサボサの頭をかきながら、願いのひとつひとつに目を通す。
◯
昔はよかった。
荒御魂となった私の魂を静めるべく、大勢の人間が慰撫してくれた。穢れが晴れていき、やがては神として崇められるようになった。学問の神、というのが私に当てはめられた神の姿だった。私は学問の神として、学問の道を進む者たちにできるだけの神徳を与えてきた。
そして、現在。私の元にやってくる参拝客の数は年間約200万人と膨れ上がった。
200万人。つまり、1日に5480人の願いを把握しなければならない。
アホか。
一年間にこれだけの人間が何らかの願いをもってやってくる。その殆どは学問に関する内容で、志望校に合格する、資格試験に合格するなどのものだ。しかし、中には家内安全、交通安全、安産祈願、恋愛成就まで願ってくる者がいる。残念ながら、私は学問の神であるので、それらの願いは私が八百万の諸神にお願いして回っているのが現状だ。
とりわけ初詣の人手は凄まじく、日本各地から神々が新幹線で出張して仕事を手伝ってくれるが、二月の半ばまではその状態が続く。この時ばかりは近所の公民館を貸し切り、全国から神々が集まってヒィヒィ言いながら働かなければならない。彼らに任しているのはもっぱら雑務で、願い主の素行調査が主なものになる。最近はSNSのチェックをしていればだいたい素行がわかるので便利だ。
稼ぎ時だという者もいるが、私は出雲の大国主命に雇われているのであって、賽銭箱の行く末とは全く関与していない。いや、私を祀る宮の修繕や維持管理に使われているので無関係ではないが、1円たりとも懐に入ってはこないのだから仕方がない。
人々は神のことを色々な想像で語るが、それほど人間と変わりはない。姿形も人間と同じという神が殆どだし、ラーメンや焼肉を好み、賞味期限の切れたものを食えば腹を下す。
空を飛んだり、雷を出したりする者の方など数えるほどしかいない。私の学問の神としての力など、その者の偏差値が一目でわかるという大変に地味なものだ。
それでも、私は八百万の神々の一柱である。御神徳を与えられるようなら、与えてやりたい。そう思うからこそ、1日に五千人もの願いに耳を傾けるのである。
無論、すべての願いを叶えることはできない。明らかに偏差値の足りない者の学力を上げることなど不可能だ。大国主命ですら、そんなことはできないだろう。だが、受験の日の天候や、体調が良いものであるようにサポートすることはできる。我らの御神徳といえば、せいぜい欲しい参考書が手に入りやすいようにしたり、受験の朝に腹を下さなくてもよいようにしてやるくらいものだ。
なんだ、そんなものか、と思う者もいるだろう。私だってそう思う。
だが、そんなものだ。我々も八百万というと非常にたくさんの神がいるように思えるが、今は人の方が遥かに多いのだ。神に祈る時間も必要だが、やれることは全てやった後に祈ってもらいたい。
今は受験シーズン。私は今日も今日とて、200万人の願いに頭を悩ませる。
◯
A4のノートにはびっしりとその日の願いが書きとめられている。生年月日、名前、性別、住所などが事細かに記載されているのだ。個人情報にうるさい昨今、このノートを万が一にも落としてしまえば大変な騒ぎとなるだろう。
「ええと」
『志望校に合格しますように。ついでに彼が私と同じ大学にいけますように』
なんとも女子らしい願いである。偏差値をみる限り、問題はないだろう。体調管理さえしっかりとしていれば落ちる要素などない。
私は彼女と交際している男子生徒の願いを探し出した。
『ミュージシャンになれますように』
そもそも進学するつもりがないように見える。偏差値も恐るべき低空飛行。進学の意思の有無はともかくとして、彼女と同じ大学には進学できまい。体調管理云々以前の問題である。
「真実の愛があれば、そんなのどうとでもなるのではなくて?」
いつの間にかノートを覗き込んでいる相手に気づき、私は慌ててノートを伏せた。
「いつの間に来たんですか。心臓に悪い」
「頭を抱えていらっしゃるようでしたから、つい」
薄く微笑むこの美女はこの近くに社を持つ神の使いである。正体は狐だというが、私は今まで一度も彼女が人間以外の姿になったことを見たことがなかった。
「この時期は毎年こんなものです。なんの御用でしょうか。見ての通り、忙しくて仕方がないんですが」
「先生がたまには挨拶に来い、とワガママを申しております」
「そんな暇などありません。どうせまた甘栗をもぐもぐやりながら、愚痴をこぼしているのでしょうが、生憎とこちらは人の願いに耳を傾けるのに忙しい。お力添えを頂きたいくらいだ」
「先生は五穀の神ですから、学問の神ではありませんもの」
「アスパラガスが豊作になりますように、との願いを書いてきている強者もおります。是非にと」
「伝えるだけは、伝えておきましょう。しかし、根を詰めすぎると倒れてしまいますよ。あまり無理をし過ぎると、また都に雷を落とすと皆が心配致します」
「そ、それは昔の話です。もうそんなことはしません」
千年以上も前の話を持ち出されるのは気持ちのいいことではない。
「ともかく。先生には宜しくお伝えください。桜の咲く頃にはひと段落つきましょう」
「では、また政庁跡にて花見をしましょう」
「あんなに人気の多いところへ行くのですか。あんまり騒がしいのは得意ではないのですが。それにあそこは元職場ですから、なんというか新鮮味に欠けます」
「そう仰らずに。またご挨拶に伺いますわ」
踵を返し、颯爽と店を出て行く彼女の艶やかな背を、マスターが惚れ惚れした様子で見送った。
「美しい方ですね。なんの仕事をしている方ですか? モデルさんみたいだ」
「ええと、秘書ですかね。強いて言えば」
「ははあ。羨ましいですなあ」
中身は狐ですよ、といっても誰も信じまい。
人間は知らない。この国にはタヌキやキツネ、仙人や天狗、八百万の神々までもが息づいている。それと知らぬのは人間ばかりで、実に雑多なモノたちが入り混じって生きているのだ。
「ああいう美人のアルバイトが入ってくれないものですかね」
「それこそ、仕事になりませんよ」
結局、今日も閉店まで仕事を続けたが、終わる気配は一向にない。
◯
ラーメンが食べたい。
駅前のラーメン屋の豚骨ラーメンが食べたい。チャーシューをこれでもかと乗せた、胃にどっかりとくるような奴がよい。麺は固め、スープはこってり、辛子高菜をこれでもかと乗せたラーメンを口いっぱいに頬張りたい。
無論、そのような時間的余裕はない。
閉店後、自宅に戻った私は相も変わらず、黙々と案件に目を通す作業に追われていた。私の仕事は小説家や漫画家と同じで、休憩はあるが、休みはない。よって、延々とこの作業が続くのである。特にこの時期の作業量は殺人的であり、全国的に八百万の神々が悲鳴をあげる赤い季節である。
不意に、呼び鈴が鳴った。
苛立ちまぎれに立ち上がり、ドアの覗き窓から外を覗くと、見覚えのある中年男が立っていた。出っ張ったお腹を撫でながら、はやく開けろ、とのたまう。
「なんだ。アンタか」
「なんだとはなんだ。せっかく来てやったのに」
招きいれると、巨体を揺らしながら勝手に部屋の奥へ入っていく。
「相変わらず汚い部屋だな」
「やかましい。何の用だ。私は忙しいのだ」
「差し入れを持ってきてやったのになんたる言い草か」
差し出された包みを怒りに任せて引きちぎると、梅ヶ枝餅がぎっちりと詰まっていた。
「渋い茶が欲しくてな。一服しようぞ」
「私は今、ラーメン腹なのだ。こんな甘いものばかり持ってきやがって。いったいどういうつもりだ」
「いや、こちらに足を伸ばした時は必ずこれだけは食わねばいかんと決めている。特に菊屋のものがいい。この前、私の氏子のとある若い男女が祝言をあげた。その際、こちらの梅ヶ枝餅を引き出物にしたのが嬉しくてね。思わず出席したものたち全てに御神徳を与えてしまったよ」
わはは、と笑いながら餅を頬張る。
「手伝いに来たのか。邪魔しに来たのか。はっきり言え」
「差し入れを持って邪魔にしに来たのだ。喉が渇いた。茶をくれ。渋いのがいい」
「自分で淹れろ!」
やれやれ、と巨体を持ち上げて狭く汚い台所でガタガタやり始める。
「おい。お茶っ葉はどこだ」
「棚の上にあるだろう。勝手に使え」
「お。この金箔入り玉露というのがいいな」
「それは来客用だ!」
「なにおう。私も客だぞ」
「お前なんぞ客でもなんでもないわ!」
私は積み重なる案件をやっつけながら、頭をばりばりと掻き毟る。早く受験シーズンが終わってくれねばこちらの身が保たない。偏差値が高く、内申点のよい者は楽で良い。しかし、低空飛行を描く若者をどこにでもよいから滑り込ませるのに骨が折れるのだ。そして、割とそういう者が多い。
「勉学の神というのは大変なものだなあ」
ずびずびと茶を啜りながら、しみじみのたまう。
「海の神も暇というわけではあるまい」
「そりゃあ、うちの上司三女神は年中なにかと忙しいなあ。私は下っ端だからそれほどでもない。特に年末年始はよその神々に比べたら暇な方だな。だからほれ、こうやって参道の店をぶらぶらできるのだ。そういえば、参道にスターバックスができていたな。お洒落すぎて店に入る勇気が出んかった」
「餅を喉に詰まらせて死ねばいいのだ!」
「なんてことをいう。そんなに根を詰めると、また雷を落とすぞ。苛立ってはいかん。神たる者、心をどっしりと構えておれば自ずと事態は好転するというものだ。もっと余裕を持て」
妄言を撒き散らす阿呆に、いっそ雷を落としてやろうかと思ったが、今ここでそんなことをすれば、このオンボロアパートに住まう全世帯の家電という家電がご臨終することは間違いない。癇癪を起こして困るのは他でもない私だ。
「海にまつわる願いはないのか。その分の案件は私が手伝おう」
「気持ちは嬉しいが、そんな案件があるかな」
私は山積みになっている書類の中から、とりあえずそれらしいものを取り出して渡した。
「これは私でもいけるな。ほれ」
案件に視線を落とすと『水産高校合格』とある。
「おい、合格祈願だぞ」
「海にまつわる願いだ。まぁ、いけるだろう」
「おい、そんな適当にされたら困る!」
「なに、不勉強だったら落ちるだけだ」
「身も蓋もないことを言うな! もういい、俺がやる」
「なんだ。結局、自分でやるのか」
次々に案件の用紙に目を通しながら、ふ、と手が止まる。
「どうした?」
私は無言で用紙を見せながら、思わず眉をしかめた。
「こういう案件が一番判断に困る」
「なに、どれどれ」
目を通しながら、海の神の顔色が急速に曇っていく。
「あー、こういうのが一番悩むなあ」
内容は志望大学に合格したいというものなのだが、問題はこの青年の合格祈願を目にするのはもう四度目なのだ。正直にいってしまって学力レベルが足りない。滑り止めでも受けていれば話は違ってくるのだが、彼は確固たる意思をもって大学を目指しているのだ。
「正直にいって、今年も落ちる」
「どうにかならんのか」
「美術大学だからなあ。実技はどうにもできん。デッサンが破滅的に下手くそだ。しかし、このまま放っておくわけにもなあ。絵を描くのが好きな純粋な男だ。真面目で根気強い。大学には行けなくとも、なにかしら力になってやりたい」
おまけにいえば、参拝のたびに五百円を賽銭箱に納めているので、さすがに心苦しい。
「四浪は辛いなあ。親も負担が大きかろう。うちの隣の家の子もな。浪人生なんだが、予備校の学費も馬鹿にならんそうだ。釣りが趣味なら、年間釣り放題の加護を授けてやるのにのう」
「そんな加護があるのか」
初耳である。プロの釣り人が聞いたら財布ごと賽銭箱に投じるに違いない。
「ん、片恋の相手がいるのか。元クラスメイトか。ほほう。こりゃあ別嬪だ」
「あ、本当だ。いつの間に」
私は少し思案して、携帯電話を手に取った。
「宝満山の竃門神社の玉依姫にご助力願おう。−−あ、もしもし。いつもお世話になっております。菅原です。忘年会ではお世話になりました。ええ、はい。そうなんです。折り入ってお願いがありまして。ぜひ縁を結んでやってほしい者がおりまして。そうです。心根の素直な者でして。はい。ありがとうございます!はい!はい! 失礼しまーす」
「上手くいったか?」
「上手くいった。ベロベロに酔ってらしたが、良縁ならば結んで下さるそうだ。ああ、よかった。これで四浪しても自暴自棄になったりはせんだろう」
「しかし、菅原よ。こうして一人一人に心を砕いておっては身がもたんぞ。もう少し仕事と割り切ってしまえ」
「そういう訳にいくものか。確かに私は失意の底で死んだ。都を追われ、この大宰府の土地に左遷された我が身を嘆いたものだ。しかし、死後私の御霊は大勢の者たちの信心によって癒され、こうして神となった。心を砕くのに惜しむ理由はあるまいよ。それにな、私は真正直に生きている者が救われぬなどというのは好かん」
「生真面目だのう」
海の神が立ち上がり、でっぷりとした腹を撫でる。
「なんだ。もう帰るのか」
「宗像の大社も忙しくてな。息抜きも大概にせんと」
「電車か?」
「いや、車で来た。都市高速でひとっ飛びよ。ではな」
「三女神様に宜しく」
海の神は歯を見せて笑い、四畳半の部屋を後にした。
目の前には変わらず、案件の用紙が山積みになっている。
「さて、もう一踏ん張り頑張るか」
⚪︎
今日は朝から社へ向かうことにした。
特に理由があった訳ではない。ひとつの現実逃避だ。受験生が勉強の最中に、突然大掃除を始めたり、漫画の整理をするのに似ている。
参拝客でごった返す参道をえっちらおっちら進み、やたらとお洒落なスターバックスに返り討ちにされ、馴染みの店で梅ヶ枝餅を買った。途中で外国人の一団に記念撮影を頼まれ、迷子の幼女を拾い、その親を一緒に探したりしている内に最後の鳥居を潜った。
「はあ。さすがに疲れた」
休憩所の近くにある錆びたベンチに腰掛け、持参したペットボトルのお茶で一息ついた。
こうして見ると、実に大勢の人間がいる。老若男女は言うに及ばず、国籍すらも関係ない。誰も彼もが御神徳を得ようと、あるいは我が身を慕って飛んできた梅の樹を愛でようとしている。
「あの、大丈夫ですか?」
突然声をかけられ、思わず飛び上がりそうになる。
「あ」
声をかけてきた青年の顔には見覚えがあった。年上の綺麗な女性と親しげに手を繋ぎ、真摯な瞳で私の身を案じてくれた彼は、昨夜の案件の彼だ。
長身に、鍛えた身体。短く刈り上げた髪に、太い眉。およそ美術を志すようには見えない外見である。
「具合でも悪いんですか? 神社の人、呼びましょうか」
「いや、大丈夫。ありがとう。隣の女性は、恋人かい?」
燃えるように、顔が赤くなる。見ていて面白いほどだ。
「は、はい。そうです! 今日から、俺の恋人です」
にかっ、と歯を見せて笑う。
その笑顔に、なんだか疲れが吹き飛ぶようような気がした。
「初対面でこんなことを言うと変に思うだろうが、大学に行くばかりが人生じゃない。どんな時でも好きな人と共に歩んでいける道を探しなさい。彼女との縁を手放してはいかんよ」
もったいない、と私は続けて彼らに頭を下げてその場を去った。
参道を戻る。
築35年のオンボロアパートに戻ってやらねばならぬことが、私にはある。