琥眼落命《横須賀朗読会書き下ろし作品》
遠く山の稜線にかかる、鉛色の雨雲を眺める。
腹の底に響く音に耳をすませると、春雷という言葉が脳裏を過ぎった。意味はたしか、春の訪れを報せる雷だったか。雷鳴に驚いて冬眠していた虫たちが驚いて目覚めるというので、別名を『虫出しの雷』というのだと彼女が話していたのを思い出す。
◇
彼女は私の三つ年上の油画専攻で、いつもキツい煙草の煙を燻らせているような女性だった。中性的で整った顔立ち、体のラインが顕になるような細身のシャツを好み、黒いスキニージーンズを穿きこなす。声色がハスキーで、指先はピアニストのように細く、繊細で美しかった。実際、彼女は魅力的で男女を問わず人気があったが、そんな評判に後ろ足で砂をかけるような女だった。
新歓コンパでたまたま横に座ったのが縁となり、キャンパスで顔を合わせると、なんだかんだとよく話すようになった。別になんて事のない話ばかり。だいたい話をするのは彼女の方で、私はその話に相槌を打つ。ただ、それだけ。
当初こそ先輩なんて呼んでいたのだが、彼女はそれを酷く嫌がった。
『先輩なんて呼ぶのはやめて。名前で呼んで。そうしないなら、もう二度と話しかけないで』
そう言ってにべもない。苗字で呼ばれるのも嫌いだというので、仕方なく年上の彼女を名前で呼ぶことになった。
梓さん、と私が名前を呼ぶと満足そうに頷く。
私たちは不思議と気が合った。
彼女は私の部屋へやってくると、窓の脇にある若葉色のソファに腰を下ろして、小難しい本を読む。家主の私などお構いなしに読み耽り、勝手に冷蔵庫の中から麦茶を出して飲んだ。
たまに野良猫が家へ遊びにくるような感覚に近かったように思う。実際、猫のように彼女を餌付けしていたのは間違いなかった。
梓さんは芸術家だった。自称したことは一度もないが、キャンパスの誰もが、彼女のことを知る人は芸術家だと評価する。抜群に絵が上手いというのもあるが、何より彼女の絵には一貫してテーマがあった。
『私の作品のテーマは【可能性】よ。こうだったかも知れない未来、ありえたかも知れない自分。何者かになろうとする可能性を描きたいの』
人の心を奪う、という表現がよく使われるが、梓さんの絵は違っていた。
心の欠けた部分に、かちり、と嵌るような。失くした何かを取り戻したような感覚を、観た人間に味合わせる魅力があった。
しかし、同じく絵画を志す者の多くが、その絵に叩きのめされた。とても同い年とは思えない、重厚で固く、信念に満ちた独自の世界観に筆を折った。羨望や妬みの眼差しを向けられても、彼女は何も変わらない。
私は、そんな彼女に近づきたくて、辛うじてその場に踏み止まっていた。
『千花はもう少し自分に自信を持った方がいいわ。あなたの眼を通して、心で濾過して解釈された世界が、あなたの作品になることを自覚すべき』
高校でも、予備校でも私より絵の上手い人間なんていなかった。私が絵を描くことが上手いのは当たり前のことで、それは人が歩けるのと同じくらい当然のことだったのに。今は何百枚、何千枚と描いても納得できるものができない。まともに歩けている気がしなかった。
梓、と呼び捨てにできるようになっても、私は彼女の隣に並び立つことができないでいた。
彼女の卒業作品を観たとき、心の欠落を突きつけられたような気がした。圧倒的な作品を前に、悔しさで涙が滲まない絵描きがいるだろうか。
なんて素晴らしい絵なのだろう。そう思うと同時に、なんでこんな絵が描けるのだ、と心が戦慄した。これから先、何年、何十年と絵筆を持っても、私には届かない。そう思わせるだけの尊さがあった。観ている世界が、あまりにも違う。
壁にかけられた巨大なキャンバス。裸体の女性が、黒い暴風の中、顔を掻きむしるようにして叫んでいる。歯も髪の毛も逆立てて。ウルフカットの髪の奥で、声ならぬ絶叫をあげているのは彼女自身だ。自らがモデルになり、裸体を晒す行為さえも言葉にして、彼女は作品を創り上げていた。
作品のタイトルは『モラル』。
唇を噛み締めて、私は己の不甲斐なさに泣いた。
ようやく悟った。
私は天才なんかじゃなかった。
ただの凡人。
私は、ただの石ころだった。
しかし、美しい宝石は忽然と消えた。
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