蛙闇雨魂
茹だるような暑い夏の日だった。
五条旧街道もあまりの暑さに陽炎が揺らめいている。最近は舗装されている道も多く見かけるようになったが、まだまだ少ない。この街道のように凹凸の激しい地面ばかりだ。
風鈴の音色が耳に煩い。
ハンカチで汗を拭いながら、鞄の紐を肩にかけ直す。
街道に面した一軒の民家、表札には『福部』とある。玄関の戸を開け、中へ声をかける。
「木山です。お約束のものをお持ちしました」
奥から忙しない様子で駆け寄ってきた割烹着の女性が、手拭い頭巾を脱ぎながら人懐っこい笑顔を向ける。
「こんにちは。木山さん。今日も暑いわね。ご苦労さま」
「みやこさんこそ、ご苦労さまです。身重なんですから、家事も程々にしておかないと」
「ありがとう、でも動かないでいるのもよくないのよ」
「大変ですね」
「暑かったでしょう。今、麦茶を持ってくるわね」
「いえ、お気遣いなく。ご主人は二階ですか?」
「そうなの。仕事が行き詰まっているみたいで、朝からうんうん唸っているわ。銀行からの融資もお願いしないといけないんだけど、なかなか難しいみたい」
「なるほど。大変そうだ」
「あなたは? あの人の所で修行だなんて大変でしょう。傲慢だし、人のいうことは聞かないし」
「傍若無人の体現者ですからね」
「誰に対してもそうよ。あの人の屋敷には行ったことがある?」
「近衛湖にある豪邸ですか?」
「いいえ、あそこは別宅よ。屋敷は御山の麓にあるの」
「肝心なことは言おうとしない人ですからね。秘密主義というか、なんというか。人のことはとやかく聞いてくる癖に、自分のことになると煙に巻こうとする。女遊びが激しいのは昔からですか? お二人は昔馴染みだとか」
「郷里が同じなの。小さな山村の生まれで、あっちは大地主の御当主、こっちは分家の中でも特に遠縁。同じ一族とは言っても、身分違いも甚だしいんだけど、ああいう性格だからトラブルも多くて、歳も近いからいつも間に立ってたわ。そうね、15を数える頃には悪い遊びを覚えてたわ。お酒に賭け事、女の人とか」
木山くんは覚えてはダメよ、と釘を刺される。
「あなたも二枚目だもの。女性の方が放って置かないでしょう。まぁ、程々にね」
はい、と曖昧に返してから二階へ上がる。
襖を開けると、畳の上で文机に向かってうんうん唸っている福部氏の後ろ姿が見えた。
「福部さん。入りますよ」
「ああ、木山君か」
振り返った福部さんの表情はいつになく暗い。分厚いメガネを指で押し上げながら、バリバリと頭を掻いた。無精髭があちこち生えていて、なるほど、これはかなり煮詰まっているらしい。
「頼まれていたものを帯刀から預かってきました」
「おお! 本当かい!」
目の色を変えて四つん這いで駆け寄ってくる彼を手で制する。
「約束の物が先です」
「もちろんだ。ええと、どこにやったかな」
部屋の隅に乱雑に並んでいる玉石混合の骨董品の山。その中から、小さな木箱を取り出して、埃を手で払いながら笑顔を浮かべた。
「あった、あった」
木箱を開けると、中には黒い光沢のある布が納められていて、その布を丁寧に解くと中から真っ白い根付が姿を見せた。ぼんやり、と銀鼠色の輝きが私の眼には視えた。
「これは」
福部さんが掌の上でくるり、と根付の正面をこちらに向ける。それは固く目蓋を閉じた蛙の横顔を模していた。手足を縮め、丸く体を閉じている。
「江戸時代の終わり、慶応年間に水晶で作られたそうなんだが、少し色が濁っているだろう? 随分前に手に入れたんだが、一向に買い手がつかなくてね。ほったらかしにしてたんだ。ところが、こないだ帯刀とここで飲んでいたら急に『蛙の根付を寄越せ。銀行の頭取が欲しがっている物と交換してやる』だなんて言うもんだから、驚いたよ。渡りに船とはこのことだ」
「この根付のことは前から話していたんですか?」
「いいや。彼はね、そういう不思議なところがあるんだ。僕はね、神通力だと呼んでいるけれど、彼に言うと馬鹿にされるんだ」
そうですか、と私は呟きながら、根付のことが気になって仕方がなくなってしまった。
「木山君? どうかしたのかい」
「いえ、特には。少し、見惚れていました」
「良いだろう。だけどね、さっぱり売れないんだ。この商いをしていると、たまにこういうことがある」
「そういうものですか」
「ああ。でも骨董は良いよ。幾人もの持ち主と年月を経て、器に魂が注がれてゆくんだ」
「ええ。本当に素晴らしいものは、視れば分かる」
思わず本音が漏れてしまい、口を閉ざす。
「すいません。話が逸れてしまった」
「いや、構わないよ」
「では改めて、こちらが御要望の品です。中身は見るな、と言われていますので鞄ごとお渡ししますね」
鞄と木箱を交換する。満面の笑みを浮かべる福部さんは、今にも鞄に抱きつきそうな程だ。よほどの物が入っているのだろうが、私の目にはなんの色も視えない。ならば、そんなものに用はない。
「彼らしいなあ。別に見せてあげてもいいだろうに。ねぇ?」
「小間使いですから」
「不服そうじゃないか。でも、本当に助かったよ。これで融資が受けられるのなら有難いことだ。帯刀にもよろしく伝えておいて欲しい」
「分かりました。そのように」
立ち上がって、帰ろうとする私を福部さんが引き止める。
「もう帰るのかい。今来たばかりじゃないか。お茶でも飲んで行ったらいい。そうだ、蕎麦を食べに行こうか。もり蕎麦でもたぐりながら話そう」
「ありがとうございます。ですが、お仕事の邪魔になりますから。早く融資の話を進めたほうが良いと思いますよ。みやこさんに心配をかけたらいけません」
「え? みやこが?」
それでは、と告げて背を向ける。襖も閉めないまま、階下へ降りて、真っ直ぐに玄関へ向かう。
「あら、もうお帰り?」
「はい。次の用事がありますので、これで」
「気をつけてね。暑さに倒れてしまわないように」
ありがとうございます、とだけ答えて家を出る。後ろ手で戸を閉めながら、不意に掌の中にある木箱がみじろぐように動いたような気がした。遠くで蝉の声が聞こえる。頬を伝う汗が、ゆっくりと顎を伝って地面へと落ちた。
●
魂の色は、その者の本質をこれ以上ないほど雄弁に語る。
どれほど外見や言葉遣いを繕っても、其れだけは嘘をつかない。
色は千差万別だが、一つだけ共通していることがある。
——罪を犯した者は、魂の色が濁ってゆく。
全ての色を混ぜ合わせると黒くなるように、色は混沌を増すごとに、深く黒く堕ちていく。
輝かしいほどに美しい魂が、濁っていく。その落差こそが、真に尊く美しいのを私は知っている。
黄昏に染まる街並みを遠くに眺めながら、掌の中の根付へ視線を落とす。
目を閉じた水晶の蛙。これは、本物だ。
思わず口元が歪むのを止められない。
「折角の機会だ」
街並み、雑踏の中を行き交う人々を視る。
川の流れのように動いていく雑多な色合い、その中に、一際濁った男を見つけて微笑む。あれなら良いだろう。
血走った瞳、上着の懐に深く入れた右腕、背中を丸くして、足早に歩いていく。その背後をつかず、離れず追う。男は決してこちらを振り向くことはない。誰かを襲うことはあっても、自分が襲われるなどとは想像もしないのだろう。
やがて、男の足が止まる。人気の無い薄暗い路地を歩く、若い女性の後ろ姿。
獲物を見つけた、獣のように獰猛に笑っているのが分かる。
トンネルに差し掛かり、夕陽が届かなくなる。
男の歩みが早くなる。音もなく、背後から駆け寄り、口を塞ごうと左手を伸ばした瞬間、男の魂に指をかける。爪の先を引っ掻けるように、そっと触れるだけでいい。
蜘蛛の糸に絡めとられたように、男の動きが硬直する。呻き声ひとつ、上がらない。指先ひとつ満足に動かせないだろう。
女性の後姿が、やがて見えなくなった。
「人間は誰しも、生を受けた頃には純白に輝く魂を持っている。けれど、君のように自らの魂を汚し、濁らせていくだけの存在になる者も少なくない。私が我慢ならないのは、君のような人間が他人の魂にまで薄汚れた手垢をつけることだ。生かしておいて何になるというのか」
正面から男を見据える。我が身に何が起きたのか分からず、その顔は恐怖に染まっている。狩る側が、狩られる側だと思い知らされ、恐ろしさに震えていた。
上着の下に握られた、錆の浮いた出刃包丁が鈍く光っている。
「裁こうなどとは思わない。ただ、私はどうしても知りたいんだ」
掌を開く。
水晶の蛙が、口を開いて鳴く。
一つではない、幾百、幾千もの蛙の絶叫が薄暗い闇に響き渡る。狂ったような悲鳴。
ぐるり、と蛙の固く閉じられた瞳が開く。
宇宙のように深淵な瞳の奥に虚が在った。
男が絶叫をあげる。断末魔の悲鳴は、いつ耳にしても骨身に沁みる
蛙が全てを呑み込み、その瞳と口を閉じる。
銀鼠色のそれが、にわかに変色する。まるで、男の魂の色が滲み出ていくように。黒く、黒く変じていく。鉄黒色となった蛙を、そっと撫でるとヒヤリと冷たい。
「俗物ほど悲鳴が大きいのは、どういう訳なのだろう」
布に根付を包み、木箱へと恭しく納める。
帯刀は気付くだろうか。
あれは、深くものを視る。
「その時は、その時か」
自嘲せずにはいられない。愚かだと言ってしまえばそれまでだが、こればかりはどうしようもない。
学生帽を目深にかぶり直し、黄昏に染まる雑踏へ足を踏み入れてしまえば、誰も私のことなど見えはしない。
翠薇楼の中庭の東屋で帯刀は私が来るのを待っていた。
既に日は落ち、古池には夜空の月が映り込んでいる。
「随分と遅かったな」
葉巻に火を灯しながら、帯刀は少し責めるように言った。
「福部さんの所で世間話をしていました。みやこさんのお腹も随分と大きくなっていましたよ」
「あいつの腹がでかいのは昔からだろう」
「昔馴染みにも口が悪い」
「性分だからな。それで? 福部から預かってきたか?」
「ええ。言われた通りに」
木箱を取り出して手渡す。蓋を外し、布を解いて、じっと根付を視る。
「間違いない。こいつだ」
帯刀は頷いてから、根付をぽい、と古池へ放り投げた。ぽちゃん、と水面が弾けて、蛙の根付は音もなく沈んでいく。
「どうした。何か言いたげだな」
「勿体ない。要らないのなら、私にくれたら良いのに」
「馬鹿言え。あれは曰くつきだ。人の手に渡らない方がいい。本当は砕いてしまってもよかったんだが、あの蛙に罪はない。そうあるべく創られただけだ。忌々しい、あの骨董店の言う通りにな」
「人が物を選ぶのではない。物が持ち主を選ぶ」
「言い得て妙だろう。あの蛙もいずれ、縁のある持ち主を選ぶのかもしれん。その時は、その時だ」
葉巻の煙を闇夜に吐きながら、ため息をこぼす。
「みやこの様子はどうだった?」
「元気そうでしたよ」
「そうか」
少し沈黙が続いて、帯刀が溢すように言葉を出した。
「禍福は糾える縄の如し、という言葉があるが、うちの一族には祝福と呪いを受けている。あいつはもう帯刀の分家も抜けて、福部に嫁いでいるから無用な心配かも知れないがな」
「幸せそうでしたよ」
「そうか」
呟くように言ってから、目を閉じ、言葉を噛み締めているようだった。
「それなら、いい」
帯刀の魂、その輝きがかつてない程に揺れるのを私は視た。
それは炎の揺らめきのように荘厳で、心を奪われるほど美しかった。
その時、私の中で生まれた衝動を何と言えばいいだろう。
危うい均衡で積み上げられた、荘厳な塔。その根元にある急所を見つけた。そんな気分だった。
高く、高く積み上げなければいけない。
何もかも、一切が灰塵と化すほどに。
「木山。術理を教えてやろう」
「それは、どういう心境の変化ですか」
「気まぐれだ。嫌ならやめるが」
「なら、ありがたく」
古池の小岩の上で蛙がひっそりと鳴く。
その声は、どこかあの男の断末魔に似ているような気がした。