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菅公巡夜《言霊堂福岡朗読会 書き下ろし作品》
太宰府近隣の神々が楽しみにしていた花見も無事に終わり、今年も幹事としての役割を全うしたことに安堵の溜息をついたのも束の間、ウカノミタマ様より呼び出しがかかった。
家で休息を取りたいと思っていたのだが、あの方からの呼び出しとなれば無碍には出来ぬ。いや、誰の呼び出しでも無碍にしたことなどはないが。放っておくと後が怖い。
指定されたのは西鉄太宰府駅から参道へ入って、すぐ右側に見える茶房『維新の庵』である。こちらの庭をウカノミタマ様は大変気に入っており、月に一度は必ず梅ヶ枝餅と抹茶を味わいにいくという。老舗なので私やウカノミタマ様の正体に薄々感づいていらっしゃるだろうが、それについて追及されたことはない。
「いらっしゃいませ」
対応に出てきた中年の女性が温和な笑みを浮かべている。
「すいません。待ち合わせをしていまして」
「はい、伺っております。お庭でお待ちです」
「ありがとうございます」
私が急いで何か注文しようとすると、その必要はないと言われた。
「ご注文は先に頂いております」
「そうでしたか」
どうぞ、と案内されて庭へ出ると、苔生した美しい風景が目の前に広がった。それほど大きい訳ではないが、私たちのように永くこの国に生きた者であれば懐かしいと思わずにはおれない風情がある。
「うむ。足労大儀である」
険しい顔をしたウカノミタマ様が低い声でそういって、手に持っていた餅の一つをこちらへと手渡した。
「春は良い。草花が萌もゆる季節ぞ」
「仰る通りですね。随分と温かくなりました」
「しかし、浮かれすぎてはならぬ。神たる者がこうして人の世に生きる以上は片時も油断をしてはいかんのだ。ましてや酒で前後不覚に陥おちいるなど言語道断である」
なんだか雲行きがおかしい。にわかに嫌な予感がしてきた。てっきり先の花見の宴に対して、労いねぎらの言葉を頂けるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
我ながら此度の花見はうまくいったように思う。一般人のサラリーマンが御神酒を賜たまわって浮足立ち、空の彼方へと飛んでいくこともなかったのだから。
「……何か不手際がございましたでしょうか」
「うむ? なんのことを申しておる?」
「先の花見のことではないので?」
ん?、と二人で小首を傾げる。
「アマノタジカラノミコト様がぎっくり腰になっての。そこの病院へ入院しておられる」
「……なんと、まぁ」
アマノタジカラノミコト様いえば、かつて天照大御神様が岩屋に御隠れになった折、八百万の神々が相談して一計を案じ、その岩戸を放り投げた神として知られる大変古い天津神だ。
「かの御仁が太宰府の酒屋でアルバイトをしておられるのは知っておろう。そこでの花見の席でな、隠し芸をやったそうな。従業員の車をそれぞれ片手で持ち上げて、『マジックです』というアレよ」
そういえば、そんな力任せな隠し芸をなさることが何度かあったように思う。神在月の出雲で似たようなことをやってみせて、酷く叱られたとかなんとか。
「それでぎっくり腰ですか」
「うむ。重いものを散々持ち上げた直後に、幼子を抱き上げたら腰を壊したらしい。神として顕現して幾星霜、腰を痛めたことは初めての経験だと大層驚いておられた」
「ああ、ぎっくり腰は辛いですからね」
「なんだ。おぬしも経験者か。まだ若造であろうに」
神となって千と百年経ってなお、若輩者じゃくはいもの扱いである。八百万の神の層は厚い。
「天津神の皆様に比べれば若輩かも知れませんが、人間三十五を超えれば身体にあちこち不良が出てくるものです」
数年に一度、大きいのをやらかして整体に通っているのが現状だ。あまり同じ店ばかりだと歳を取らないことを怪しまれてしまうので、あちこち店を変えたりしているが、腕のいい整体師というのは少ないので案外バレているかも知れない。
「そのアマノタジカラノミコト様直々の頼みでな。自治体の夜廻に代わりに出て欲しいと仰る。菅原、おぬしが代わりに出て参れ」
「……頼まれたのはウカノミタマ様ではありませんか」
「ええい、ワシは忙しいのだ」
「私とて忙しい身です。神使の方を代わりに立てては如何ですか?」
「それは出来ぬ」
きっぱりとそう言い切った。いつもなら、まずは己の神使にさせる筈だ。それでも出来ぬとなって初めて、他の神に頼むというのが筋である。
「何か事情があるのなら、教えてください」
「是非には及ばぬ。ただ、おぬしは代わりに出ておればよいのだ」
頑なに言われると、こちらも怪訝に思わずにはおれない。何をそんなに意固地になる必要があるのだろうか、と考えてみると思い当たる節があった。
ウカノミタマ様は伏見稲荷大社の御祭神である。すなわち神体は狐である。古今東西、狐は犬を嫌う。どれほど霊力の優れた天狐であっても、犬を前にしては縮み上がるというほど恐ろしいらしい。以前、チワワに吠えられて思わず尻尾を出しておしまいになられたウカノミタマ様を一度だけ見たことがあった。
「承知しました。考えが足らず、失礼しました」
「うむ。分かれば良いのだ」
安心した様子のウカノミタマ様が、実に美味しそうに梅ヶ枝餅を頬張る。
「しかし、具体的になにをすれば良いのでしょうか」
「自治会の者が当番で回ることになっておる。仔細はその者らに聞くとよい。今夜、七時に集まればそれと分かるであろう。後はワシから話しておく」
「当番の方とお知り合いで?」
「五条駅から程近い居酒屋で知り合うての。まぁ、それなりに長い付き合いよ」
「相変わらず人との交わりが多うございますね」
「ふん。向こうから慕ってくるのだから仕方あるまい」
自治会で夜回りを実施じっししていることは私も知っていたが、まさかその中にアマノタジカラノミコト様が混じっておられたとは知らなかった。いや、私の知り得ぬところで神々がおわしてもなんの不思議もない。八百万の神々はこの国の至るところにおわすのだから。努々、自暴自棄になっても馬鹿な真似はするべきではない。
「ともかく承知致しました。今夜の集まりに間に合うよう仕事に戻ります」
「左様か。頼んだぞ」
はい、と頭を下げてから庭を後にする。ついでに自宅で食べる為に梅ヶ枝餅を三つ買うことにした。いつも「きくち」を特に贔屓にしているが、偶たまには違う店のものを食すのも良いものだ。
電車で帰ろうかとも思ったが、せっかくの陽気なので自宅のある五条まで歩いて行くことにした。どうせ一駅しか離れていないのだから、散歩にはちょうどいい。
西鉄の線路沿いに進んでいくと、道路を挟んだ右側にアマノタジカラノミコト様が入院しているという病院が見えた。
見舞いに行くべきか、とも思ったが、あのお方の性格を考えると弱っている所など見られたくはないだろう。昨今、世界中を震撼させたあの新型ウイルスに感染したときにも強がって薬ひとつ飲まなかったほどだ。
「いずれ快気祝いをお持ちしましょう」
万全の状態で土産を持参する方が間違いないと判断して、病院の前を素通りすることに決めた。
●
私は勉学の神を司っているだけあって大変真面目に仕事をこなす。その働きぶりは神使の鷽が心配をするほどだ。彼女は私がしたためた文を神々へと持参するのが主な役目であるが、携帯電話が登場した昨今は主に私の秘書的な存在と言えた。
そんな彼女が肩にとまり、ぴぃぴぃと何かを訴えようと、懸命に叫んでいる。
「ん?」
生前から詩作や仕事に没頭していると、周囲の音が聞こえなくなる。こうして無理やりにでも起こしてくれなければ、力尽きるまで延々と集中を続けることがよくあった。しかし、どうして静が叫んでいるのかが分からない。
時計を見ると、午後六時半に差し掛かっていた。
「しまった」
慌てて立ち上がり、押し入れからウォーキングに使えそうな一張羅を引っ張り出すと、大急ぎで着替えてしまう。斜めがけにできる鞄へ財布と携帯電話、家の鍵を放り込んでから玄関でスニーカーを履いて、大急ぎで四畳半の我が居室を後にした。
一瞬の躊躇ちゅうちょもなく五条駅へと走り、電子マネー決済で改札を潜り、ホームへ滑り込んだ所で太宰府駅行きの電車が入ってきた。
私はぜぇぜぇと息を切らしながら、やってきた電車へ乗り込むと、なるべく人気のない脇の方へと逃れて肩で荒い息を繰り返した。こんなに全力で駆けたのはいつぶりだろうか。耳元で心臓の鼓動がやかましい。今にも脈が飛びそうだ。
通路の片隅で苦しげにしているので、不審者のように思われないだろうか。これなら自転車を漕いでいった方が却って楽だったかも知れない。私が愛してやまないママチャリ『飛松』もさぞ悲しんでいることだろう。悪いことをしてしまった。
やがて電車が太宰府駅のホームへ入り、ゆっくりと止まり、左側のドアが一斉に開いた。降りていくのはサラリーマンと学生が半々くらいだろうか。
改札を抜けると、すっかり暗くなった駅前のロータリーが送迎の車で渋滞を起こしていた。おまけに、あちこちで若い学生のカップルがしっとりくっついて睦言を囁き合っている。私の時代には相手の女性の顔すら満足に見ることが出来ず、御簾の向こうから聞こえてくる声に夢想したものだ。
しかし、私はあまり人の顔の美醜にこだわるタイプではなかったので、妻との縁談が決まった時にも御簾越しの会話だけで十分だった。芯が強く、心根の優しい女人であることは話をしていれば感じ取れるし、顔は目と耳が二つ、鼻と口が一つずつあればよかった。どんな美男美女も老いれば美貌は失われてしまうものだ。無論、妻にはそんな言い方はしない。一目惚れしたのだと生涯、言い続けた。
まぁ、中にはやはり顔を確かめねば辛抱たまらぬという者もおり、そうした者たちは夜に女人に会いに行った。御簾というものは、昼間は外の方が明るい為、中から外の様子を見ることはできるが、外から中の様子を伺い知ることはできない。だが、夜になればそれが逆転するのだ。
それに引き換え、現代は男女の距離が近く、なんとも好ましい。
駅前にいる人の中から、それらしい人物を探そうと目を配ると、観光案内所の前に初老の男性二人を見つけた。片方は背が高く痩せぎすで、もう片方はがっしりとしていて背が低い。楽し気に談笑している様子に思わず、たじろいでしまった。
生前から、ああした集まりに上手く合流するのが苦手だ。当時、出世して一番良かったことは身分のおかげで周囲が気を遣ってくれたことだろう。私は元来、文章博士、つまりは学者なので社交性はそれほど高くない。人に会わずに済むのなら会いたくないし、寄り合いに出ていくのも最後まで躊躇するタイプだ。
私は彼らの前を二度、三度と通り過ぎたが、なかなか勇気が出て来ない。あちらから声をかけて貰うのを待つにも限界がある。
楽しそうに歓談している所に水を差すのは気が引けるが、意を決してこちらから声をかけることにした。
「あの、お話中にすいません。自治会の夜廻よまわりりをなさる方でしょうか?」
二人は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに思い当たる節があったようで温和に会釈をしてくれた。
「はい、そうです。菅原さんですね。伏見先生からお話は伺っております。今夜は御迷惑をおかけしますが、何卒宜しくお願いします」
伏見というのはウカノミタマ様が好んで用いる人の子らに名乗る名前である。私も偽名を使いたかったのだが、どういうわけか許可が下りずに、ここ太宰府の地で本名のまま生活している。おかげで一度名乗った相手に顔を覚えて貰えなかったということは、一度もない。
「いえ、こちらこそ宜しくお願いします」
無事合流できたことに胸を撫で下ろす。
「秋山と申します」
背の高い方の男性がそう名乗ってから、隣に立つ背の低いがっしりとした男性が「稲葉だ」と短く名乗った。
二人とも年齢は還暦を迎えて間もないといった所だろうか。既に隠居しているのかも知れない。
しかし、この二人を前にすると、いかにも私は迂闊だった。どちらも夜道でも目立つように白い上着を羽織り、おまけに反射板のついたタスキを肩からかけている。車の運転手に自分の存在をアピールする為の配慮だろう。
それに引き換え、私は以前、神功皇后様じんぐうこうごうさまに半ば無理やり購入させられた黒い上下のジャージ姿である。闇に紛れて何をしようというのか。これでは轢ひいてくれと言っているようなものだし、いかにも怪しい。
急に恥ずかしくなり、私は穴があったら入りたい気持ちになったが、そんな私を見かねたのか、稲葉さんがタスキを外して私に貸してくれた。
「そんな恰好じゃ危ねぇよ。これだけでも身に付けておいた方が良い」
「ありがとうございます。助かりました」
「礼には及ばないさ。お兄ちゃんが来てくれて助かるんだ。自分じゃまだまだ若いつもりだが、不審者とトラブルがあったりすると大して身体も張れんからなあ」
「と、トラブルがあるのですか?」
もしも腕っぷしを頼りにされているのなら、力不足も甚だしい。とてもお役には立てそうにない。
「ちょっと社長、脅かさないでくださいよ」
「冗談だよ。そういう連中が闊歩しにくいようにこうしてパトロールしているんだ。予防だよ、予防。警察も忙しいから、自分の町は自分で守らねぇと」
「社長をしていらっしゃるのですね」
「いや、元だよ。小さな建設会社をしていたんだがね、息子に継がせた今は隠居して悠々自適さ。毎晩、居酒屋で飲んだくれて女房に叱られてばっかりでね」
がはは、と豪快に笑う。
「そういうこちらは元校長先生さ。なぁ、先生?」
「先生は止してください。定年退職してもうずいぶん経つんですから」
秋山さんが学校の先生をしていたというのは雰囲気で分かるような気がした。役人とも少し違う、柔らかい空気が好ましい。きっと生徒の信頼の篤い先生であったのだろう。
「伏見先生から伺いましたが、菅原さんは元官僚だとか」
「え? あ、はぁ、まぁ、そういう感じ、ですかね」
一体なんのことだか分からない。ウカノミタマ様は彼らに私のことをどのように話しているのだろう。どうせ酔った拍子に色々と話して、それらを誤魔化す為に嘘をつく羽目になったのだろう。
「いや、優秀ですな。大学はどちらに?」
「ええと、京都です」
「そうですか、京都大学ですか。官僚になられる方は違いますね」
「凄いのかい。その京都大学というのは」
「ええ。それはもう優秀な方でないと行くことができませんよ」
大したもんだ、と稲葉さんから背中を叩かれながら、私は冷や汗を掻いた。
「あの、そろそろ参りませんか?」
「ああ、もうこんな時間ですか。すいません、無駄話ばかり」
「いえ、そんな。今夜はどのようなルートで回るのですか?」
秋山さんは頷いて、駅前の観光案内板の地図を指差してみせた。
「ここ太宰府駅から太宰府小学校の方へ向かい、筑紫台高校の前を通って御笠川沿いに白川の住宅街を歩いていきます。市役所まで出たら駅の方まで向かい、九州国立博物館と筑紫女学園大学を見てから駅まで戻ります」
なるほど、およそ一時間と少しといった所か。
「分かりました」
「ゆっくり行きましょう。不審者を見つけたら通報するので、怪しい人物を見かけたらすぐに教えてください。私たちは見ての通り、あまり目が良くないので」
「分かりました。任せて下さい」
私も彼らのように眼鏡をかけることもあるが、あくまで仕事で書類に目を通すときだけだ。近いものを見る時には裸眼で見るよりもよく見えるので、重宝している。
駅前の交差点を渡り、コンビニの裏手から小さな路地へ入った。観光客はまず通ることがないが、ここには御笠川が流れており、小さな東屋あずまやがある。夏には地元の子供たちが水遊びをしたりする憩いの場所だ。
「カップルが何組かいるだけで、特に問題はなさそうですね」
私の言葉に対して、稲葉さんの表情がやけに険しい。
「今時の高校生ってのは、みんなあんなにぴったりくっついているもんなのかね。勉学に励むべきじゃないのかい」
「どうでしょう。私は楽しそうで実に良いな、と思いますが」
「学生の本文は勉強だろう。それなのに」
「社長、その辺りで。すいません、菅原さん。この人、近所で暮らしているお孫さんに初めての彼氏が出来たそうで」
「ああ、そうでしたか。それは確かに心配ですね」
「ほら、行きましょう」
むっつりとした稲葉さんの背中を押して、奥へと進んでいく。睦言を語らう彼らにとっても迷惑だろう。いや、見た限り、みんな自分たちの世界に夢中でこちらなど眼中にないようではあるが。幸あれ。
少し進むと、川を渡る小さな橋に差し掛かった。緩やかにカーブを描きながら進む坂道の先に太宰府小学校がある。
「秋山さんもこちらで働いていたことがあるのですか?」
「いえ、私はもっぱら筑豊方面へ赴任することが多くて。家族には迷惑をかけてしまいました。特に妻には頭が上がりません。子育てを任せきりにしてしまい、申し訳なく思っています。その恩返しのつもりで、定年後は妻の故郷で暮らそうと決めたんです」
「そうでしたか。地元はどちらに?」
「みやま市です」
みやま市といえば県南である。もう少し南下していけば熊本県だ。百五十年ほど前に足を運んだ時には宿場町として栄えていて、酒蔵が多かったように思う。それと幸若舞こうわかまいが有名で、毎年一月下旬に奉納舞ほうのうまいが行われる。七百年も続く伝統をウカノミタマ様は手放しで褒めておられた。
「良い所ですよね」
「御存知ですか」
「ええ。以前、伏見先生と二人で立ち寄ったことがあります」
「はは、何もいない田舎ですよ。それでも私の懐かしの故郷です。今はもう親戚にも住んでいる者はいませんが、たまに無性に帰りたくなる」
小学校の前を通り過ぎると、大型駐車場の裏手へと出る。昼間は大型の観光バスや観光客たちで賑わっているが、夕方に施錠せじょうした後は静かなものだ。右手に流れる御笠川のせせらぎの音に耳を傾けながら進んでいくと、筑紫台高等学校が川の向こうに見えてくる。部活動の強い学校らしく、私を勉学の神と知ってか知らずか、必勝祈願にやってくる生徒が多い。サッカーのルールもいまいちよく分かっていない私だが、せめて万全の状態で試合に臨めるよう近隣の神々と共に力を尽くしている。
「このまま橋を渡っていけば住宅地ですね。どちらに向かいますか?」
橋を渡らず真っすぐに進むと、御笠川と駐車場に挟まれた小道を進むことになる。昼間は散歩道としてよく用いられている道だ。
「住宅地の方から回りましょう。この道を通って帰宅する生徒さんも多いですから、よく見ておかないと。変質者が出るという話はここ最近聞きませんが、温かくなるとどういう訳か、目撃情報が増えます」
秋山さんの言う通りで、暖かくなってくると春に呼応して様々な動植物が目を覚ます。ついで変質者も涌わいて出る。いらぬものまで湧いて出るのが困りものだ。
それから暫く御笠川沿いに進んでいく。
閑静な住宅地を時折、下校する生徒たちが自転車で颯爽と走っていく。
「こら! 横一列で走るな!」
急に稲葉さんが大声を張り上げたので、思わず飛び上がってしまった。見れば、男子高校生が道路一杯に広がって自転車をのろのろ漕いでいるではないか。
彼らはうろんげに稲葉さんを睨みつけたが、いかにも肉体労働者といった稲葉さんの迫力に圧倒され、そそくさと自転車を漕いで逃げていった。
「お見事」
思わず拍手してしまった。
「痛い目に遭ってからじゃ遅いからなあ。楽しくやっている所を叱りつけたくはないが、ああやって怒鳴ってやらにゃ」
一昔前までは、稲葉さんのような大人が沢山いたように思うが、今のご時勢ではなかなかそうはいかない。ちなみにウカノミタマ様は神代の時代から現代に至るまで、雷爺という渾名で一貫して子どもたちから恐れられ、同時に親しまれてきた。
暫く道なりに御笠川沿いを進んでいくと、ふと対岸の物陰に肌色の人影が見えた。暗がりに身を潜めている人物と目が合う。その顔に、私はどことなく見覚えがあった。
「あの、少し向こう側を見てきても良いでしょうか?」
「どうかなさいましたか?」
「気になることがありまして。大丈夫です。すぐに追いかけます」
怪訝そうにするのも無理はない。しかし、このまま彼を放っておくことはどうしてもできなかった。私の記憶が正しければ、かつて天満宮へ七五三に来他ことがある筈だ。
「分かったよ。それなら俺たちは先へ進んでいるから、市役所の辺りで休憩しておく」
私は二人へ頭を下げて、数メートル先に見える橋を渡って、向こう側の道を戻っていく。先程、一瞬しか見えなかったが、服を着ているようには見えなかった。あの可愛らしかった幼子が変質者として成長しているのであれば問題である。いや、外で裸を晒さらしている時点で大問題だ。
身を隠していた草むらの辺りをそっと探してみると、案の定、ひょろりとした若者が怯えた様子で身を潜めていた。ガゼルを髣髴とさせる痩せた手足、大きな目は恐怖に怯えており、頬には真新しい痣がある。
私はどう声をかけようか思案したが、反射的に言葉がでてきた。
「もう大丈夫ですよ」
彼は幾分か安堵したのか、表情が和らいだ。
「すいません。通報はしないでください」
「そんなことはしませんよ。でも、どうしてそんな格好でいるんです? 春になったとはいえ、まだ日が暮れると寒いでしょう。パンツ一枚では風邪を引きます」
私の言葉に、彼は嗚咽を漏らした。
「身ぐるみを剥がされました」
ここ百年は聞かなかった言葉である。現代の太宰府に山賊が出るとは、にわかには信じられない。
「来週から東京の大学へ行くんです。それを妬んだ奴らにやられました」
纏っているのはパンツ一枚だというのに、妙にハキハキと話す。
「それは災難でしたね」
「はい。でも、こうしてパンツだけは死守しました」
へへっ、と強がっているが、恐ろしかったに違いない。数の暴力というのは恐ろしいものだ。抵抗することも出来ず、一方的に蹂躙された経験は一生忘れないだろう。
「なによりです。大丈夫ですか? 立てますか?」
「はい。体調的には立てますが、このままでは捕まります。あの、タオルか何かお持ちじゃありませんか? もしお持ちなら武士の情けで下さいませんか?」
「生憎、自治会の夜回りの途中でして。貴重品の類しか持ち合わせていないんです」
彼は困った様子で茂みに身を隠したまま、不安げに辺りを見渡した。
「一か八か、自宅まで駆け戻ることも考えたのですが、少し距離があるので諦めました」
「ちなみに、ご自宅はどちらに?」
「二日市です」
隣町である。少し距離があるなんてものではない。間違いなく途中で捕まるだろう。
「……こんなことを聞くのは失礼ですが、虐められているのですか?」
「違います。連中は私に嫉妬しているんです。同じ大学を受けたのに、私だけ受かったのが気に入らない。そういう連中なんです。身ぐるみを剥いで置いていったのも、きっと不祥事にして合格取り消しを目論んでいるんだ」
彼は鼻水をすすりながら、眉間に深い皺を寄せた。
これがイジメでなければなんなのか、とも思うが、外ならぬ彼が虐めではないというのだから、そういうことなのだろう。
「誰よりも勉強した。だから合格した。それなのに、裏切り者なんて後ろ指を差される筋合いはありませんよ。ズボンも上着も失いましたが、それくらいなんてことはありません」
パンツ一枚だというのに大変な気迫である。私は思わず感心してしまった。
しかし、このままでは些か可哀想である。
「合格おめでとうございます。『去る鳥、跡を濁さず』なんて言葉がありますが、どんな鳥だって飛び去る時には騒がしいものです。周囲の鳥だって動揺するでしょう」
「……動揺するのは、他の鳥は飛ぶことが出来ないからでしょうか」
「いいえ。彼らだって飛ぶことは出来ますよ。ただ、行き先が違うのに戸惑うのです。しかし、自分が行くことの出来なかった道へ飛んでいく鳥を羨むばかりでは、何処へも進めない。まずは飛び立つ。行動してみる。それからようやく、自分だけの目的地を見つけられるようになるものです」
どれほど仲が良くとも、己の人生の舵は自ら切らねばならない。誰かの後を追従しているばかりでは、自分の行きたい場所へは辿り着けないものだ。
「君の友人たちは、寂しかったのでしょう。まぁ、だからといって身ぐるみを剥いで良い理由にはなりませんが」
彼は複雑そうな顔をして、口を真横に引き結んでいた。
「……思えば、私も自慢ばかりしていたように思います。あれだけ努力したのだから、報われるのは当然だと思っていました。妬んでいる暇があるなら勉強しろ、とさえ感じていました」
「もしも、まだ交わすべき言葉を胸に秘めているのなら、それは伝えるべきでしょう。今、この瞬間は二度と巡っては来ないのですから」
「……はい。そうですね」
一件落着と言いたい所だが、何ひとつ解決していない。彼は相変わらずパンツ一枚のままだし、このままではいつ人目について警察へ通報されるか知れない。そうなれば彼は一か八か逃げ出して、太宰府の町を死に物狂いで逃げ惑うだろう。警察に捕まってしまえば大学の合格も取り消されてしまうかもしれない。
助けてあげたい。しかし、神は無暗に人と交わってはならぬ。
正直、何を今更いまさらという感じではあるが、高天ヶ原の神々はしっかりと見ておられる。神在月の出雲で釘を刺される者が後を絶たないのだ。その筆頭は言うに及ばず、ウカノミタマ様その人である。
くしゃん、と身震いをしてクシャミをする様子を見ていられない。
私は意を決して、おもむろにジャージの上下を脱いだ。
「いったい何を」
「私は暑がりなので、服を脱ぎ捨てているだけです。黒い生地にピンク色のラインが入っているのも絶妙にダサいなぁと思っていたので、いい機会です」
肌着姿にウォーキングシューズという、およそ他の神々には見せることのできない情けない格好となってしまったが、悔いはない。
「いいですか? 私はここへ服を捨てたのです。決して、あなたに差し上げた訳ではありません。捨てたものを誰がどのように使おうと構いません」
我ながら意味不明なことを言っているが、これくらいしておかなければ後々言及された際に言い訳がたたない。
「でも、それでは今度はあなたが変質者になってしまいます」
「心配は無用です。さぁ、誰かが通りかかる前に急いで!」
彼は弾かれたように慌てた様子で私のジャージに穿き替えると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。この御恩は生涯忘れません」
いや、帰ったらすぐさま忘れて欲しい。
彼は駐車場の方へと短い土手を勢いよく駆け下りると、脱兎の如く一目散に逃げていった。これからも慢心することなく、たくましく生きていって欲しい。
こうして前途ある若者の未来を守ることは出来たが、私もうかうかしていられない。このような格好でいる所を見られたら社会的に死んでしまう。肉体的には死んでも黄泉の国から様々な手順を踏めば帰ってくることもできようが、社会的に死んでしまうとそうはいかない。
「背に腹は代えられませんね」
私は覚悟を決めて、神威を解き放つ。太宰府市白川の一角で眩まばゆくも神々光が迸ほとばしった。
◇
太宰府市役所のバス停前に秋山さんたちの姿を見つけて、私が大きく手を振ると、二人はギョッとした顔でこちらを振り返った。しかし、ここで動揺してはいけない。
「菅原さん、その格好はいったい……」
秋山さんがそう言うのも無理はない。さっきまで上下ジャージ姿だった男が、急に雅やかな束帯姿でやってきたら誰でも面食らうだろう。束帯は平安時代に宮中へ赴く際の正装で、紫の袍を纏まとっている。おまけに烏帽子に笏まで手にしているのだから、これで目立たない方がどうかしていた。
「いや、諸事情ございまして」
「どんな事情があれば、そんな格好になるんだい。しかし、すごいな、これは。大したもんだ」
稲葉さんは感心半分といった様子で、しげしげとこちらを眺めている。
「いや、諸事情ございまして」
もうこれで貫つらぬき通すしかない。これは神としての正装であるので、いつでもどこでも身に纏まとうことが出来るのだが、如何時代のニーズにまるで合っていないので、普段はまず使いどころがない。
二人はまだ何か言いたげであったが、私が頑なに「諸事情」で済まそうとしているのを感じ取って、曖昧に笑って見せた。
「お待たせして申し訳ございません。では、参りましょうか」
何事もなかったかのように歩き始めた私の後ろを、二人が苦笑しながら続く。
夜とはいえ、すれ違う人々の好奇の視線に耐えて歩かねばならないのは辛かった。中には写真を撮る者までおり、目立ってはならないという神々の掟おきてを真正面から破ることになってしまったことは大変遺憾である。
こうして太宰府の治安は守られた。
かの青年の尊厳も守ることが出来たので後悔はない。
しかし、然るのちに高天ヶ原から呼び出しを受け、天津神の方々から厳しく詰問されたことは言うまでもないことだ。
〜菅公巡夜〜 完
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