[ためし読み]『膠着するシリア トランプ政権は何をもたらしたか』「はじめに」より
「今世紀最悪の人道危機」から解決なき終わりへ
アメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・トランプは、2021年1月、4年の任期を終えてにホワイトハウスを去りました。任期中に新たな軍事作戦を行わなかったトランプ大統領でしたが、任期の最初に国外でとった軍事行動が、2017年4月の、シリアに対するミサイル攻撃でした。その後も突飛な外交政策によって、シリアを翻弄し続けました。
シリア内戦は、10年間に及ぶ重層的紛争の末に、混乱再発の火種を抱えたまま膠着しています。本書はシリアが米国をはじめとする諸外国にどのように翻弄され続けてきたのか、解決なき終わりを迎えるシリア内戦の、混迷と惨状を丹念に追いかけた精細な記録です。
本書の「はじめに」から、シリア内戦の対立軸を示した部分を公開します。
【目次】
はじめに ←公開
トランプ大統領が最初に軍事力を行使した国/シリア内戦―勧善懲悪と予定調和が通用しない重層的紛争/「今世紀最悪の人道危機」の被害/膠着という終わり/シリアで何が起きたのか?
第一章 シリアと米国の関係
1 実効性を欠く制裁
2 「燃えるがままにせよ」戦略
3 戦略の破綻―トランプ政権へ
第二章 化学兵器使用疑惑とミサイル攻撃
1 最初のミサイル攻撃
2 二度目のミサイル攻撃
3 疑惑の真相
第三章 「テロとの戦い」の決着
1 同床異夢
2 勝者の筆頭
3 ガラパゴス化するアル゠カーイダ
第四章 米国が後ろ盾となった国家内国家―クルド民族主義勢力の趨勢
1 PYDとは?
2 繰り返される自治の試み
3 北東部の再編と続く確執
第五章 イランの封じ込め―イスラエルへのアウトソーシング
1 五五キロ地帯をめぐる攻防
2 独自の力学で動くイスラエル
3 繰り返される威嚇と取引
第六章 結託を強めるロシアとトルコ
1 停戦への側方支援
2 アレッポ・モデルの適用
3 和平プロセスの矮小化
第七章 世紀の取引
1 前哨戦
2 縮小を続ける反体制派支配地
3 革命発祥の地をめぐる戦い
第八章 「シリア革命」最後の牙城をめぐる攻防
1 回避されたイドリブ総攻撃
2 緊張緩和地帯第一ゾーン第二地区の攻防
3 二度目のイドリブ攻勢
おわりに
ロシア・トルコ両軍を襲うテロリスト/傭兵としての道/追い打ちをかけるトランプ政権―遠のく復興/滞る難民帰還/ポスト・トランプ段階/シリアは誰のものなのか?ロシア・トルコ両軍を襲うテロリスト/傭兵としての道/追い打ちをかけるトランプ政権―遠のく復興/滞る難民帰還/ポスト・トランプ段階/シリアは誰のものなのか?
図版出典一覧 註 参考文献一覧 索引
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はじめに
二〇二一年一月二〇日、アメリカ合衆国(以下米国)第四五代大統領のドナルド・トランプが四年に及ぶ任期を終え、ホワイト・ハウスを後にした。その過激で独断的な言動は、嫌悪と称賛の二つのリアクションをもたらし、一方で熱狂的な支持者を獲得したが、他方で米国社会に大きな分断をもたらした。選挙での敗北を最後まで認めず、任期終了直前には支持者が議事堂に押し入るという異常な事態にまで発展したトランプ政権の四年はまさに波乱含みだった。
国内の融和を掲げるジョー・バイデン第四六代大統領の施政をトランプ大統領と比較して評価するのはいまだ時期尚早ではある。とはいえ、トランプ大統領の敗北は、米国だけでなく、日本でも、嫌悪と混乱の終わりとして華々しく位置づけられた。
トランプ大統領が最初に軍事力を行使した国
外交に目を向けると、トランプ大統領は任期中に新たな軍事作戦を行わなかった希有な指導者である点がしばしば強調された。だが、気候変動に関するパリ合意やイラン核合意からの離脱に象徴されるように、米国至上主義を前面に打ち出し、国際協調主義や同盟諸国との関係を無視する姿勢は非難を浴びた。自身を当選に導いた大統領選をめぐるロシアとの関係は疑惑の目で見られ、北朝鮮や中国に対する威嚇はパフォーマンス目当てだと批判された。
そんなトランプ大統領が国外で最初にとった軍事行動が、中東の小国シリアに対してであったことは、忘れ去られて久しいようである。二〇一七年四月七日(米東部時間六日)、トランプ政権は、シリア政府が反体制派に対して化学兵器を使用したと断じ、その支配地にミサイル攻撃を行った。二〇一八年四月にも、英国、フランスとともに政府支配地にミサイル攻撃を行った。このほかにも、二〇一九年三月には、シリア領のゴラン高原(クナイトラ県)に対するイスラエルの主権を承認する大統領令を、国際社会の声に反して発した。二〇一八年末以降はシリア領内に駐留させている部隊の撤退決定とその撤回を繰り返した。そして、二〇一九年一〇月には、イドリブ県で特殊作戦を敢行し、イスラーム国指導者のアブー・バクル・バグダーディーを暗殺した。長年にわたって混乱に苛まれてきたシリアは、トランプ政権の突飛な外交政策によってもっとも翻弄された国の一つだったと言っても過言ではない。
シリア内戦―勧善懲悪と予定調和が通用しない重層的紛争
シリアが苛まれてきた混乱とは、チュニジア、エジプト、イエメン、リビアといったアラブ諸国を席巻した民主化運動「アラブの春」が二〇一一年三月に波及したことがきっかけだった。「シリア騒乱(Syrian Uprising)」、「シリア紛争(Syrian Conflict)」、「シリア危機(Syrian Crisis)」、「シリアに対する戦争(al-ḥarb ‘alā sūrīya)」、「シリア革命(al-thawra al-sūrīya)」とも呼ばれるこの混乱は、日本では一般的に「シリア
内戦」と呼ばれている。
「アラブの春」は当初、独裁を敷く悪の政権ないしは体制に対して、自由や尊厳の実現を目指す善なる民衆の蜂起、あるいは市民の革命だと賛美され、「悪は滅び、正義は勝つ」と考えられた。勧善懲悪と予定調和に基づかない解釈や研究は「人間の尊厳の蹂躙に他ならない」と非難され、真実を捉えていないとみなされ、独裁者が反対意見を粛清するかのように排除された。こうした風潮は、「アラブの春」によって体制転換を経験したほぼすべての国がその後に経験した政情不安定、経済の混乱を鑑みると、近視眼以外の何ものでもなかった。だが、それは今でも一部で根強く残っている。
シリア内戦も例外ではなく、勧善懲悪と予定調和に彩られたストーリーとして語られることが少なくなかった。だが、実態はフィクションのように単純ではなく、当事者や争点を異にする複数の局面が重層的に絡み合って複雑に展開した。
その主要な局面は、国内的局面と国際的局面に大別できた。
国内的局面は、①国家と社会を当事者とし、体制転換や改革の是非を争点とする「民主化」、②「民主化」をめぐって政府、反体制派(政治勢力)が権力闘争を行う「政治化」、③「民主化」をめぐって政府と反体制派(武装集団)が武力衝突する「軍事化」、の三局面からなっていた。国際的局面は、④諸外国が国内的局面に乗じて干渉する「国際問題化」、⑤混乱のなかで、イスラーム国、シャームの民のヌスラ戦線(略称ヌスラ戦線、現在のシャーム解放機構[シリア解放機構])に代表されるアル゠カーイダ系の国際テロ組織が反体制派との混在を深める「アル゠カーイダ化」、の二局面からなっていた。
シリア内戦は、体制転換や改革を求める抗議デモを政府が厳しく弾圧し、過激な抗議行動や武装闘争を誘発したことに端を発していた。だが、政府と反体制派による暴力の応酬は、こうした国内的局面ではなく、国際的局面のなかで際限なく激化していった。政府による抗議デモや反体制派の弾圧は、米国(シリアとの関係については第一章三〇〜三三頁を参照)、そしてその同盟国である西欧諸国のほか、サウジアラビアやカタールといったアラブ湾岸諸国、トルコが人権や「保護する責任」を振りかざして執拗な干渉を行う格好の口実となった。これに対して、長年にわたりシリア政府と友好関係を築いてきたロシア、イランといった国々は、主権尊重や内政不干渉の原則を持ち出して対抗し、政府を支援するとして同じく干渉を強めた。アル゠カーイダ系組織は、筆者が「人権陣営」、「主権陣営」として大別するこの二つの陣営がシリアを主戦場としてせめぎ合うことで助長された混乱に巣をくうかたちで増長し、暴力激化の一端を担った。諸外国はそれさえも逆手にとって利用し、「テロとの戦い」を口実として干渉を強めていった。
「今世紀最悪の人道危機」の被害
「今世紀最悪の人道危機(worst humanitarian crisis of this century)」、「世界最悪の人道危機(world’s worst humanitarian crisis)」と称されたシリア内戦は、国内的要因が発端だったとはいえ、混乱の主因は国外的要因にあった。この紛争が「代理戦争(proxy war)」だけでなく、「シリア人なきシリアの戦争(non-Syrian war in Syria)」とさえ言われるのはそのためである。そこでは、体制転換の是非をめぐって争っていた政治家・活動家たちは、政治的立場のいかんにかかわらず外国に翻弄され、事態に対処する術を失ってしまった。武器を手にした者たちも、外国軍や外国人戦闘員の圧倒的な暴力を前に、被害者、ないしは共犯者になりさがった。人々の多くが、平和な日常を失い、一部は家を追われ、難民、あるいは国内避難民(IDPs[internally displaced persons])となった。主体性を失ったすべてのシリア人の苦難こそが、シリア内戦がもたらした最大の不幸だった。
英国を拠点とする反体制派NGO(non-governmental organization)のシリア人権監視団によると、自由や尊厳の実現、そして体制転換を目指す「シリア革命」が始まったとされる二〇一一年三月一五日から二一年三月一四日までに確認された死者総数は、三八万八六五二人にのぼった。同監視団によると、この数値には、政府支配下の刑務所・拘置所で拷問を受けるなどして死亡したとされる約八万八〇〇〇人、イスラーム国の刑務所・拘置所で死亡した三二〇〇人強、シリア軍(政府軍)が拘束した捕虜や失踪者四一〇〇人強、イスラーム国やアル゠カーイダ系組織を含む反体制派が拉致した約一八〇〇人は含まれておらず、これらを含めると、死者総数は四八万人に達するという。
二〇一一年以降にシリア国外に逃れた難民は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR[Office of the United Nations High Commissioner for Refugees])によると、五五七万一一八人(二〇二〇年一二月三一日)に達している。また、国連人道問題調整事務所(OCHA[Office for the Coordination of Humanitarian Affairs])によると、国内避難民は推計六二〇万人(二〇二〇年末)にのぼる。
国連西アジア経済社会委員会(ESCWA[Economic and Social Commission for Western Asia])が二〇一八年八月七日に発表した推計によると、被害総額は三八八〇億米ドル、うち実際の物的被害は一二〇〇億米ドルとされる。この被害額には人的被害は含
まれていない。
膠着という終わり
トランプ政権の四年間は、「今世紀最悪の人道危機」と呼ばれた惨状に大きな変化をもたらした。本書で詳しく見る通り、戦闘は本書脱稿時点(二〇二一年夏)においても北部などで散発的に続いているが、二〇一八年末までにおおむね収束した。UNHCRのアミーン・アワド中東・北アフリカ局長は「戦争はほぼ終わった」と述べた。死者数、難民数、国内避難民数は減少傾向にあり、自発的な帰還の動きも見られる。難民・国内避難民の帰還促進を目的としてロシアの国防省と外務省が開設した合同調整センター所轄の難民受入移送居住センターの発表によると、ロシア軍がシリア領内での爆撃を開始した二〇一五年九月三〇日から二〇年一二月三一日までの間に帰国した難民は八六万六二五〇人、帰還した国内避難民は一三三万五二六四人に達した。
だが、内戦の収束は、理想的な終わりを意味しなかった。(後略)
【著者紹介】
青山弘之(あおやま・ひろゆき)
一九六八年生まれ。東京外国語大学総合国際学研究院教授。ダマスカス・フランス・アラブ研究所(現フランス中東研究所)共同研究員、JETROアジア経済研究所研究員などを経て現職。専門は現代東アラブ政治、思想、歴史。著書に『「アラブの心臓」に何が起きているのか―現代中東の実像』(編著、岩波書店、二〇一四年)、『シリア情勢―終わらない人道危機』(岩波書店、二〇一七年)などがある。またウェブサイト「シリア・アラブの春顚末記―最新シリア情勢」(http://syriaarabspring.info/)を運営。
【書誌情報】
[著]青山弘之
[判・頁]四六判・並製・274頁
[本体]1800円+税
[ISBN]978-4-904575-91-8 C0031
[出版年月日]2021年11月1日発売
[出版社]東京外国語大学出版会
※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。
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