[ためし読み]『東京外国語大学150年のあゆみ』「はじめに」
東京外国語大学は2023年、建学から150年を迎えました。
言語を礎に、世界各地の政治、経済、文化など多岐にわたる分野の教育・研究機関として紡がれてきたその歴史は、つねに日本を取り巻く国際情勢の変化とともにありました。
東京外国語大学文書館が保管する史資料や聞き取り調査から記述される本書から、「はじめに」を公開します。
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はじめに
一八七三(明治六)年、東京外国語学校が建学された。本書は、この建学の年から起算して一五〇年目に当たることを記念し、『東京外国語大学150年のあゆみ』として刊行されるものである。
すでに本学の年誌は、『東京外国語大学史』(本巻・資料編)が一九九九(平成一一)年に刊行されているが、これは「独立百周年」=「建学一二六年」を記念した出版であった。東京外国語大学の場合、「建学」と「独立」と二度大きな節目がある。「独立」とは、高等商業学校の附属外国語学校として再設置された東京外国語学校が、日清戦争後、対ロシアや大陸進出を念頭に置いて、朝鮮語・中国語・ロシア語、列強の英・仏・独・伊・西語などを教授する単独の外国語学校として独立したことをいう。この一八九九(明治三二)年の独立の年から一〇〇年を記念して、分厚い通史と資料編が編まれたのである。
戦前、東京外国語学校は官立の学校として政府が必要とする人材を育成することを使命とした。そのため、日本を取り巻く国際的環境による影響を大きく受けることとなった。
そもそも鎖国体制下にあった江戸時代の日本でも、長崎、薩摩藩、対馬藩、松前藩という四つの「口」を通して海外とつながっていた。直轄都市長崎ではオランダ・中国と、また中国船を通して東南アジアと、薩摩藩では琉球、対馬藩では朝鮮、松前藩では蝦夷(アイヌ)と交易が行われていた。そのため、長崎ではオランダ通詞・唐通事・モウル(ペルシア語)通詞が、対馬藩では朝鮮通詞が養成された。しかし、一八世紀末からロシア船やイギリス船など外国船が来航するようになると、これ以外の外国語や海外情勢を知る必要性が自覚されはじめ、一八一一(文化八)年、幕府の天文方附属機関として蛮書和解御用が置かれ、洋学者やオランダ通詞らが蘭書を翻訳した。
一八五三(嘉永六)年、ペリー来航と、それにつづく諸外国との和親条約締結を契機に、老中阿部正弘のもとで設置が計画され、洋学書の翻訳や洋学教育、翻訳書の検閲、翻訳書の刊行などを任務とする蕃書調所が、一八五六(安政三)年に設立された。そして、翌年正月一八日に、幕臣とその子弟一九一人を生徒とする洋学教育機関として開校された。それまでのオランダ語と中国語にかわり、国際的に英語の必要性が認識され、蕃書調所(一八六三年、開成所と改称)とは別に、一八五八(安政五)年には長崎に英語伝習所、一八六二(文久二)年には横浜に英学所が設立された。また幕府は、一八六五(元治二)年、横浜に仏語伝習所を設立した。
幕府の倒壊、明治新政府による接収を経て、一八七三年、学制二編追加の発布により、専門学校に対し、通訳を養成する学校として外国語学校が、東京・大阪・長崎に、翌年には愛知・広島・新潟・宮城に設立された。当時主流の外国語は英語であり、東京外国語大学以外は外国語学校=英語学校であった。東京外国語学校は、一八七三年末に東京英語学校として英語部門を独立させると、以後、英語以外の多言語を教授する日本で唯一の官立外国語学校となった。そして一八七七(明治一〇)年、西南戦争が終わると、政府の財政難から官立の外国語学校が廃校してゆくなか、東京外国語学校は多言語を教授する外国語学校として生き残ったのである。
ところが、官営工場の払い下げを進めるなど、明治政府は民間の経営能力の育成、経済活動の推進を図る方向に舵を切っていた。そこで、期待されたのが、実業界で活躍できる経営・管理能力を身につけた人材を育成する学校であった。一八八五(明治一八)年文部省年報には、専門学校一〇一校(官立二、府県立四九、町村立五、私立四五)について、「目下緊急の学科」であるとし、とくに「商業学校の如きは総て商売輻輳(ふくそう)の地に設けたるものにして、多くは該地人民の其必要なるを感し、町村費併に寄附金等を以て維持せるものとす、蓋し地方に於て此等の実業学校の漸次興起する傾向にあるは甚た嘉(よ)みすへきなり」と、商業学校は専門学校のなかでもとくに必要なものとされた。その必要性は、政府というより、多くはその地の人々が必要性を認識し、町村費と寄付金で維持している実態を述べ、地方でこうした実業学校が起こってきているのはたいへん喜ぶべき事態であると評価するのである。
こうした動静のもと、一八八四(明治一七)年、文部省は、東京外国語学校のカリキュラムや教員、校舎をそのまま転用できることの利点に目をつけ、東京外国語学校内に高等商業学校を附属させた。さらに、翌年には、別に農商務省管轄で運営されていた東京商業学校を文部省に移管したうえで、高等商業学校と東京商業学校を合併して東京商業学校とし、高等商業学校の母体であった東京外国語学校もこれに合併した。通訳に必要な知識や技能を尽くした東京外国語学校のカリキュラムが、皮肉にも高等商業学校が求める経営に通じた人材教育にも利用できると判断された結果であった。この翌年、語学部も廃止され、事実上、東京外国語学校は姿を消すことになったのである。
その後、再び東京外国語学校が誕生するのが、日清戦争後、日露戦争前、再び海外に目を向けてゆく時期にあたる。政府や財界の求めに応じて姿を現すことになるのである。
このように、東京外国語大学の歴史は、日本近代の政治・経済から直接影響を受けて動いてきた。その意味では、東京外国語大学の歴史を学ぶことで、日本近代史を勉強することになる。日本史を苦手とする学生たちも、自分の学校の歴史を知るのであれば、日本近代の政治外交史を受け入れやすいのではないか。そこで、二〇一四(平成二六)年度から「東京外国語大学からみた日本近現代史」という授業を始めた。東京外国語大学文書館が主催し、世界教養科目の一つである授業科目「世界の中の日本」(二単位)として開講された。授業は、通史編とテーマ編に分け、複数教員によるリレー講義である。(中略)
この授業は、毎年続けられ、担当教員の交替は若干あるものの、東京外国語大学文書館の倉方慶明研究員の力で、二〇二三(令和五)年度の今に至るまで連綿と続いている。受講生も多く、最大では一年に二〇〇人を超える学生が単位を取得していった。このリレー講義に登壇した教員たちは、各々の専門分野の知見を活かし、東京外国語大学にまつわる歴史を調べ講義した。その蓄積が、今回の一五〇年史の記述に反映されているともいえる。(中略)
今回の一五〇年史編纂が、一九九九年の百年史編纂と大きく異なるのは、次の二点である。第一に、一九九九年以降に東京外国語大学が歩んできた足跡が、新たに加えられていることである。最も大きな変化は、二〇〇四(平成一六)年の国立大学の法人化であり、次いで二学部化である。新制大学以降、外国語学部という一つの学部からなる大学であったものが、二〇一二(平成二四)年に二学部化され、さらに二〇一九(令和元)年には三学部に改編された。こうした近接した歴史に関しては、二〇一六(平成二八)年に国立公文書館等に指定された本学文書館に、歴史的公文書として移管された史資料をもとに記述されている。第二は、百年史では十分に扱われなかった学生や卒業生の活動を意識的に取りあげたことである。これまで多くの卒業生を輩出しているなかの、ほんの一部ではあるが、就職状況なども取りあげながら、学生の動向を浮き彫りにしようと努めている。(中略)
最後に、貴重な史資料をご寄贈くださった卒業生等の方々、聞き取り調査に協力してくださった方々、そして館員をはじめとする教員の皆さまのお力添えに、感謝の意を表したい。そして、一人でも多くの方々にこの書が読まれることを祈念している。
二〇二三年八月三〇日
東京外国語大学文書館館長 吉田ゆり子