[ためし読み]『新しい意識』
ヘンリー・ミラー、カフカ、クレマン・ロセ、ジッド、フォークナー、フロム、鈴木大拙、サルトル、ハイデガー、ユグナン、ヘミングウェイ、カザンザキス、トマス・ウルフ、ニーチェ、チャップリン、モーム、サローヤン、イヴォ・アンドリッチ、アポリネール、禅……。
近代西欧の文学・思想の批評を通じて、自身の内なる〈生〉の炎を燃え上がらせる若き詩人思想家ファム・コン・ティエン(1941-2011)の苦悶と覚醒の記録。『新しい意識』は、ベトナム戦争下の1964年に刊行され、ベトナムの若者たちの共感を呼んだ。現代も読み継がれ、時代や地域を超えていのちの共鳴を呼び起こしている。
以下の章から、訳者が薦める6箇所を公開します。
序文に代えての手紙(一)
第一部 四章 不滅の意識 イヴォ・アンドリッチの小説における人生表象
第一部 八章 受容の意識 チャールズ・チャップリンと芸術家の魂
第二部 二章 絶望の意識 アーネスト・ヘミングウェイの作品におけるクレマン・ロセの悲劇の哲学
結論 自決の意識 ニーチェへの手紙
附録 第四版序文(一九七〇年)
序文に代えての手紙(一)
一九六三年六月、ニャチャン〔ベトナム中南部の海辺の町〕
フイへ
降りしきる雨の夜、サイゴンの薄暗い喫茶店でぼくたちが見た女性歌手の涙に濡れた瞳を、ぼくはきっと一生忘れることはないだろう。
そのもの悲しい面影は、この青い海辺の土地で過ごす暗く長い夜の間中、ぼくから離れなかった。
ぼくは今でも、サイゴン川の岸辺の酒場でフイと一緒に座っていたあの夜のことを忘れることができない。その夜は、雨が降り、風も吹いていた。雨は船を覆い尽くした。雨は若者の果てしない望みを覆い尽くした。ぼくは、燃える煙草を見つめていた。グラスを見つめていた。雨に濡れる木の葉を見つめていた。ぼくは顔を上げ、フイの目を見た。その目は彼方を見やり、悲しみをたたえていた……夜中、痩せ細った女性歌手の、深夜の子守歌が、どこからか響いてくるのを耳にした。それから、ぼくは落ち葉に覆われたサイゴンの道のことを思った。それから、逃げていった若さを思った。それから、密かに海へと流れる川を……。
ぼくはサイゴン川を捨て去り、海へと流れ着いた。そして今はこの小高い丘に一人で暮らしている。夜中に寝転んで、穏やかな風と遠くで打ちつける波の音を聞いていると、サイゴンでのぼくたちの楽しかった日々をふと思い出したりもする。
ああ、あの楽しい日々はあまりに早く過ぎ去った。煙草の煙のように早く過ぎていった。夕暮れの斜陽のように早く過ぎた。ぼくたちの若さのように早く過ぎた。そして、すべては思い出にすぎなくなった。そして、思い出はぼくたちを苦しめるだろう。涙は流れるだろう。そして、若者は悲しくうなだれるだろう……。
人は、ぼくたちのことを感傷的なやつらだと言うかもしれない。逃げ出したやつら。人生に負け、投降したやつら。ぼくたちはただ、静かな微笑み、あるいは涙の溢れ出る眼差しによってしか答えることができない。そして、ぼくたちは、たくさん雨を降らせてくれと天に祈る。ああ、雨よ降れ。もっと降れ! 雨よ、もっといっぱい降ってくれ。世の中はひどく乾ききっているのだから。土地は痩せ、人の心は砂利に変わってしまっているのだから……。
ぼくたちの胸の裡の歌声は止まってしまっている、そうだろう、フイ? 唇は動かない。若者は歌を忘れた。若者は無口になった。ぼくたちは本当の年齢よりも年を取ってしまっていた……ぼくは港で歌う労務者たちを想像する。さびれた村でじゃれ合う子供たちを思い描く。夜明けの鳥のさえずりを想像する。そして、それらが人生最後の美しいイメージだと思う……。
サイゴンでだらだらと過ごしていた夜、ぼくたちは悲しみの道をさまよい、そして最後には、ナイトクラブに集まり、頭をうなだれ外の歌声を聞き、頭をうなだれ外の歌声を心の中に迎えていた。ぼくたちは心の中の歌声を失っていたから。そして、若者の心の中で鳥はさえずるのをやめてしまっていたから。
あの夜、寂しげな女性歌手の悲哀に満ちた歌声の中で、フイはぼくに嘆いた。「これから、ぼくの人生はどこへ向かうんだろう?」
「ある日、どこかの片隅で、誰にも知られず、老いぼれて死ぬんだろうな……」、フイの吐息混じりの言葉がぼくにはつらく、フイの手を握って微笑むことしかできなかった。なぜなら、ぼくは、ただ自分がどこにも行かなければいいと思っているし、どこかの片隅で、誰にも知られず死んでしまいたいとずっと思っているからだ。ぼくの一生は、そんな風でありたい。(…)(pp.9-12、「序文に代えての手紙(一)」より)
(…)私は潜在意識の中に、とりわけ月の出た夜には、ヤマクの風変わりな表情をはっきり目にし、イリンカの苦悩の泣き声を聞く。ヤマクとイリンカは人間として最もあるべきイメージではないだろうか。人間は苦しむために生まれそして死ぬ。その苦しみこそが、人間を最も高貴で、最も美しい動物に変えたのではないだろうか。人間は不滅である。それは人間が苦しむからである。(イヴォ・アンドリッチより約一〇年前にノーベル賞を受賞した時の)フォークナーの言葉は、今でも私の耳に鳴り響いている。「人間は不滅である。なぜなら、人間には魂が、憐れみ、犠牲を知り、苦しみに耐える精神があるからである」。(…)(pp.173-174、「第一部/四章 不滅の意識 イヴォ・アンドリッチの小説における人生表象」より)
チャップリンについて語る時に、このような細々したことを語る以外、今、何を語ることができるだろうか?
チャップリン、ぼくは見知らぬ鳥がいる森の名を呼ぶように、大海原のように青いドヌーブ河の名を呼ぶように、その人の名を呼ぶ。
そして、最後に、ぼくはここに、詩人ブレーズ・サンドラールがチャップリンについて語った、天才が天才について語った言葉を引用する。
「人間の特性とは、消滅すること、死ぬことだ。さあ急いで、すべてを笑おう。ありがとう、チャップリン」。
すべてを笑おう!
苦悩を笑い、死を笑い、人生の残酷な屈辱すべてを笑おう。
これが、人類の今日の崩壊に対する唯一の解脱の道だ。これが、生きることを恐れない人間の最後の道理だ。私たちはチャップリンを神の座に上げるべきではないだろうか?(…)(p.293、「第一部/八章 受容の意識 チャールズ・チャップリンと芸術家の魂」より)
雨は『武器よさらば』の数百ページを濡らす。ページをめくるぼくたちの手にも雨が染みる。ぼくたちの目にも雨が染みる。そして雨は、ぼくたちの乾いた心にも降ってくる。
(…)『武器よさらば』の雨は、S・モームの『雨』の中のパゴパゴでの雨、あるいは、「なお雨は降る」(「空襲、一九四〇年、夜と夜明け」)の大詩人イーディス・シットウェルの雨だ。
雨はまだ降っている。
世の中のように暗く、ぼくたちの喪失のように黒く
十字架に打ちつけた
一九四〇本の釘のように盲目に
パゴパゴのどしゃぶりの雨は、デイヴィッドソン司祭の死体の上に降った。イーディス・シットウェルの雨は、くすぶった瓦礫の世界に降った。そして、『武器よさらば』の長引く雨は、戦線に向かうためフレデリック・ヘンリーが恋人と別れた時に、負けたイタリア軍が撤退する時に、フレデリック・ヘンリーが捕まった時に、キャサリンがこの世を去った時に降った……。(…)(pp.321-392、「第二部/二章 絶望の意識 アーネスト・ヘミングウェイの作品におけるクレマン・ロセの悲劇の哲学」より)
ニーチェは叫び、吼え、喚き、罵倒することだけを知っていたのではなかった。これらの憤怒の挙動の他に、ニーチェは歓喜に舞い踊ることを知っていたのだし、初春の鳥のさえずりのように、夜へと向かう泉のざわめきのように、高らかに歌い上げることを知っていたのだ。
ニーチェよ、ニーチェもまた、人生の最後に一度、強く懇願したのではなかったか。
新しい歌を私に歌って聞かせてくれないか。
(ガストへのニーチェの手紙、トリノから、一八八九年一月四日)
その新しい歌とは新しい意識だ。それは人類のちっぽけな枠を超越した〈超人〉の澄みきった歌だ。(…)(p.512、「結論 自決の意識 ニーチェへの手紙」より)
この時代の重大な病は、騒音だ。騒音に継ぐ騒音、機械の、銃弾の、エンジンの、爆弾破裂の騒音は、人間意識の爆発に対して発せられた象徴だ。私たちの、地球の詩人たちの使命は、巨大な赤いキノコのように人間の意識が爆発するよう手助けすること、百万トンの爆弾のように意識を爆発させることである。私たちは、その驚天動地の爆発音に耐えられるだろうか?
もし、人の意識が水素爆弾のように爆発し得ないのなら、まさにその水素爆弾が、人間の意識に代わって爆発するだろう。私か、あるいは私に代わる他のものか、だ。人間は、人間に代わるものを追いかけ回しているにすぎない。意識は常に、意識に代わるものを探し回っている。決して「それ」ではあり得ず、「その代わり」なのだ。(…)(pp.535-536、「附録 第四版序文(一九七〇年)」より。太字は本書では傍点)
※肩書・名称は本書刊行当時のものです。