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[ためし読み]『不平等のコスト ラテンアメリカから世界への教訓と警告』「第1章」より

世界各地でいま、不平等が拡大している。不平等は経済成長を阻み、民主主義制度を弱体化させ、暴力や社会的不信を蔓延させる。それらは翻って、不平等を一層悪化させる。

長くこの悪循環を経験してきたラテンアメリカから、世界は何を学ぶべきか。また、どうしたら方向転換ができるのか。

豊富な事例研究が指し示す警告と、変革のための民主主義的提言。

本書から「第1章」の冒頭を公開します。
※「訳者あとがき」の一部も公開しています。こちらから


第1章 イントロダクション――不平等大陸ラテンアメリカからの教訓

 「ウォールストリートを占拠せよ」運動、スペインやギリシアでの反緊縮運動、米国のトランプ大統領やトルコのエルドアン大統領の勝利、イタリアの右翼政党を率いるサルヴィーニ党首の躍進、ブレクジット可決、二〇〇八年のリーマンショック、労働の非正規化……。私たちは二一世紀の最初の二〇年間で、すでに混乱の連続の中にいるように思っていたが、そこに新型コロナウイルス感染爆発が始まり、事態はさらに複雑になってしまった。世界はずっとショックに見舞われ続けている状態にあるようで、その中で多くの人々が苦境に喘いでいる。

 貧困は多くの国々で緩和されてきたし、世界はこれまでになく豊かになったが、不満を抱いている人の数は増えている。そうした人々は、豊かな人々がさらに豊かになっていくのを目の当たりにしながら、自分たちの生活水準の停滞を憂えている。彼らの多くは、子どもたちが自分たちほどの生活ができなくなるだろうと思っているし、経済に何か不正な操作が行われているのではないか、そして政治家たちはこうした状況を変えるために大したことはしてくれないのではないかと疑念を抱いている。新型コロナウイルスの蔓延によって私たちの関心は短期的には貧困・格差の問題から逸らされたが、実のところ所得格差はさらに拡大し、事態はさらに悪くなりそうなのだ。

 不平等に直面すると社会の不安定性が増大することは、私たちラテンアメリカを研究している者にとっては、意外でも何でもない。私たちは、所得や機会が一握りの人々の手に集中すると悲惨な結果がもたらされることをよく知っている。ラテンアメリカは世界で最も不平等な地域の一つであり、そこでは経済の低成長に始まり、弱い民主主義制度、そして暴力の蔓延に至るまで、歴史的に不平等が多くの社会病理を引き起こしてきた。ポピュリズム、度重なる金融危機、質の悪い仕事、社会的分極化など、ラテンアメリカは一〇〇年以上にわたりこうした諸問題すべてに悪戦苦闘してきたのだ。

 以上が、私が本書を執筆しようと決意した理由である。アメリカ合衆国からインドまで、豊かな国も貧しい国も、世界のほとんどの地域が、私が研究対象とし、こよなく愛するラテンアメリカ地域とますます似てきていることに、私は少しずつ気づいてきた。『フィナンシャル・タイムズ』紙コメンテーターのマーティン・ウォルフも最近、「欧米のいくつかの国で所得分配状況がラテンアメリカ的になるにつれ、そうした国の政治もラテンアメリカ的になってきている」と書いている(原注1)。なぜ各国が経済の持続的成長の達成にも、すべての国民に良い仕事を生み出すことにも失敗しているのか、なぜ各国の政治がますます分断化しているのか、なぜ社会的信頼が危機に瀕しているのか、そういったことを理解しようとするならば、ラテンアメリカが苦闘してきた経験をもっと学んでいくのが得策であるに違いない。

 ラテンアメリカに最近起こったさまざまな事象は、期せずして本書の重要性をさらに高める結果となった。本書執筆時の二〇一九年には、チリとコロンビアで学生らによる社会抗議行動が、エクアドルで先住民反乱が、そしてボリビアでは政治的緊張の高まりが見られたが、これらは不平等度がきわめて高い社会において民主主義制度や経済発展の維持がいかに難しいのかを、改めて私たちに示したにすぎない。こうした事例はまた、世界のどの国・どの地域でも同様のリスクが上昇していることも示している。すなわち、悪循環が定着してしまえば、それを打ち破ることはますます困難になるというリスクである。豊かな人々がより大きな権力を手にするにつれ、彼らは政治システムをさらに自在に動かすようになり、その結果、人々の不満が高まって経済的・社会的不安定性は増大する。そして、さらなる所得分配の悪化を招いてしまうのである。

 それゆえ本書では、これまでのラテンアメリカの経験をもとに、不平等がもたらす経済的・政治的コストを明らかにする。豊かな人々と貧しい人々の間にみられる大きな所得格差は、どのようにして経済成長を阻む可能性があり、また良い仕事が十分に生み出されない原因となってきたのか。ラテンアメリカのどこを見ても、富裕層はこれまで、新規部門への投資に消極的であった。わざわざそんなことをしなくても既存部門でかなりの利益を上げられているからである。加えて彼らは、公的社会支出を十分に賄えるだけの税金を納めようとしてもこなかった。不平等はまた、弱い制度と反システム政治(訳注1)の出現の一要因でもあった。貧困層や中間層は、自分たちが不正な政治システムと見做している既存システムの中で損な役回りを押し付けられてきたと感じてきたので、伝統的な政党に対してはずっと不信感を持ってきた。そのようなわけで彼らはラテンアメリカの歴史の中で、こんな問題は簡単に片付くし、すぐに結果を出せるよと約束する政治指導者へと幾度となく引き寄せられてきたのである。不平等はまた、暴力の蔓延から都市での貧富の差による隔離居住(訳注2)、人種差別、そして社会的信頼の欠如まで、深刻な社会的コストをももたらしてきた。

 本書は、不平等のコストに起因する悪循環が、所得格差拡大をいかにして永続化させてしまうのかを理解するにも役立つだろう。不平等がラテンアメリカにおける政治的・経済的制度を形作ってきただけではなく、これらの制度もまた不平等の拡大を引き起こしてきたのである。例えば、労働市場の二重性(良い仕事と悪い仕事との間に大きな差が見られる)は、労働者間の所得格差のさらなる拡大を引き起こしてきた。政治と経済も互いの間で悪循環を生み出してきた。つまりは不平等によって、手軽な解決策に頼った挙句に経済危機を引き起こし、結局のところ富裕層を有利にしてしまうようなポピュリスト政治指導者が人々によって選ばれるという結果がたびたびもたらされてきたのである。

 本書は、第一義的には警告の書だが、同時にどうしたら方向転換できるのか、アイディアを提供しようとする書でもある。ラテンアメリカの経験だけでなく、より一般的な政策論義も援用することで、アイディアと政策と政治との間の結びつきが重要であると指摘したい。本書を読み進めていけば分かるように、私は斬新な解決策を提示することはしない。なぜなら、より平等な未来を創るためにすべきことの多くを、私たちはすでに知っているからである。私たちは社会運動を強化し、それを政治的にもっと影響力のあるものとしていかなければならないし、政策提言をするときは必ずその所得分配効果を考慮しなければならないし、民主的な制度の持つ力に改めてもっと信を置くとともに、世の中の主流となってしまった個人主義を理想とするような考え方を拒絶しなければならないのである。コロナ禍中の今、そしてコロナ後を見据えた対策を行う中で、前述のことがやはり重要なのだと私たちがさらに強く認識するのを、本書の読者とともに期待したいと思う。

 私は、ラテンアメリカに魅力を感じてくれている読者にとって、この地域の長きにわたる不平等との闘いのストーリーが、ラテンアメリカに対する理解を深めるのに役立つことを願っている。さらには本書が、不平等のコストは今日においても、また将来においても高くつくものだと考えるすべての人の関心にも応えるものであることを願っている。次章以降で見ていくように、ラテンアメリカの歴史は、所得の集中が危険であり、いち早く改善すべき課題であることを、痛みとともに思い出させてくれる。本書は主として所得格差に焦点を当てつつも、時にはそれがジェンダー、人種、民族における格差とどのように繋がっているかについても考える。

 次節では、近年、先進諸国でどのくらい不平等が拡大したのか、そしてなぜ私たちはそれについて心配しなくてはならないのかを示すことにしよう(原注2)。本章ではまた、私たちが所得分配の不平等の長期的なコストを理解しようとするときに、なぜラテンアメリカこそが研究対象として最適なのかも説明しよう。さらに本書では、主要な分析用具として事例研究の手法を用いるが、なぜそれが世界を理解しようとするときに重要な(時に過小評価されることがあるにしても)アプローチであるのかについても述べる。そして本章のむすびでは、本書の主張をまとめるとともに、私たちが目撃している不平等という病に立ち向かうための有効な方法について考察することとしたい。

1 不平等は先進諸国でも拡大している――ラテンアメリカではもっとだけれど

 ここ(米国マサチューセッツ州ナンタケット島)では「いいワインを飲みたくなっても気兼ねすることなんかないさ。レストランで一本三〇〇ドルのワインを注文したら、隣のテーブルの野郎は一本四〇〇ドルのを注文してやがるんだから」と二〇〇〇年代半ばに『ニューヨーク・タイムズ』紙記者に説明していたのは、当時五億ドルの資産を所有していた起業家のマイケル・キトレッジであった(原注3)。彼は、米国企業CEOやヘッジファンド・マネージャーや起業家といった、一九八〇年代初頭以来の米国の政策転換
から最も恩恵を受けた一握りのエリートのうちの一人である。(後略)

訳注1 民主主義と新自由主義を基調にする政治経済において有力な勢力に対し攻撃を加える政治を指す。ベネズエラのチャベス元大統領やボリビアのモラレス元大統領およびその政党である社会主義運動(MAS)などがその典型といえる。詳細は第4章を参照のこと。
訳注2  urban segregation 都市において富裕層と貧困層が別々の地区に、時には隣接する地区に集住しながら、互いに関係を持たず、互いに対する不信感を醸成しながら両居住区が併存している状況を言う。

原注1  Wolf, M. (2019), “Why Rentier Capitalism is Damaging Liberal Democracy,”Financial Times, September 18.
原注2 世界の国々をどのように分類し、どのように呼ぶべきかについては、学界や政策担当者の間で活発に議論されている(先進国と発展途上国、グローバル・サウスとグローバル・ノース、中心と周辺など)。本書では、問題があることを認識しつつも、主に「先進国」と「(発展)途上国」という語を用いるが、これは単にそれが一般メディアで今でも最もよく使われていることによる。
原注3  Fabrikant, G. (2005), “Old Nantucket Warily Meets the New,” New York Times, June 5, https://www.nytimes.com/2005/06/05/us/class/old‒nantucket‒warily‒meets‒the‒new.html.


目次・著者紹介・書誌情報

【目次】
 謝辞
 
第1章 イントロダクション――不平等大陸ラテンアメリカからの教訓
1 不平等は先進諸国でも拡大している――ラテンアメリカではもっとだけれど/2 事例研究を通じて不平等を探求する/3 本書で伝えたいこと――不平等の経済的・政治的・社会的コスト/4 私たちはここからどこに向かっていけばいいのか――ラテンアメリカからの教訓/5 本書の構成
 
第2章 ラテンアメリカ――世界で最も不平等であり続けた地域?
1 世界で最も不平等な地域?/2 バカなことを言いなさんな、ラテンアメリカで問題なのは金持ちの方なんだよ!/3 いつだって不平等?/4 もはやラテンアメリカは例外ではない――世界各国で進む不平等化
 
第3章 不平等の経済的コスト
1 教育と技術革新について歴史をたどってみよう/2 今日における教育の問題/3 不平等は一国経済を活性化するチャンスを抑えてしまう/4 エリート層から税金を取るのは難しい/5 所得格差と金融危機/6 不平等がもたらした経済構造から再び不平等へ/7 ラテンアメリカから世界への教訓
 
第4章 不平等の政治的コスト
1 民主主義とエリート権力の居心地の悪い同居/2 ポピュリズムの第一波――民主主義の欠如に対する反応として/3 権威主義体制による民主主義の破壊――エリート層の過剰反応/4 現在へと至る流れ――民主主義の限界と新たなポピュリズムの反応/5 不平等がもたらした政治体制から再び不平等へ/6 時間旅行から現在へと戻ってみると
 
第5章 不平等の社会的コスト
1 世界で最も暴力の蔓延する地域/2 分断された生活、閉じられた空間
3 相互不信と制度に対する不信/4 人種主義と差別――不平等の原因として、不平等の帰結として/5 不平等がもたらした暴力・分断・不信・人種差別から再び不平等へ/6 ラテンアメリカから世界への警戒信号
 
第6章 ラテンアメリカから学べることもたくさんある、という話
1 思想のゆりかごとしてのラテンアメリカ/2 ラテンアメリカにおける社会運動の独創性/3 政策――二〇〇〇年代の予期せぬ不平等縮小に学ぶ
 
第7章 そして今、何をすべきか? 不平等との闘い方――ラテンアメリカで、そして世界で
1 ラテンアメリカの経験は、不平等との闘いがいかに難しいかを示している/2 不平等を削減するために使える政策はたくさんある/3 政治なき政策は決して機能しない/4 結論
 
 訳者あとがき
 原注

【著者略歴】
ディエゴ・サンチェス= アンコチェア
(Diego Sánchez-Ancochea)
オクスフォード大学国際開発学研究所教授(開発の政治経済学担当)。専門は、中米を中心とするラテンアメリカ政治経済学。主な著作に本書のほか、いずれもJuliana Martínez Franzoniとの共著でGood Jobs and Social Services: How Costa Rica Achieved the Elusive Double Incorporation (Palgrave Macmillan, 2013)、The Quest for Universal Social Policy in the South. Actors, Ideas and Architectures (Cambridge University Press, 2016)がある。
 
【訳者略歴】
谷 洋之
(たに・ひろゆき)
上智大学外国語学部イスパニア語学科教授。専門はメキシコを中心とするラテンアメリカ経済論。主な著作に、清水達也編『ラテンアメリカ経済入門』(アジア経済研究所、2024年―分担執筆)、『トランスナショナル・ネットワークの生成と変容:生産・流通・消費』(「地域立脚型グローバル・スタディーズ叢書」第2 巻、SUP上智大学出版、2008年―リンダ・グローブとの共編)のほか、メキシコ農業部門関連の論文多数。
 
内山直子(うちやま・なおこ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授。専門は開発経済学、ラテンアメリカ経済。主な著作に浜口伸明編著『ラテンアメリカ所得格差論:歴史的起源・グローバル化・
社会政策』(国際書院、2018年―第3 章担当)、Household Vulnerability and Conditional Cash Transfers: Consumption Smoothing Effects of PROGRESA‒Oportunidades in Rural Mexico, 2003 – 2007( Springer, 2017年)ほか論文多数。

※肩書・名称は本書刊行当時のものです。

【書誌情報】
不平等のコスト――ラテンアメリカから世界への教訓と警告

[著]ディエゴ・サンチェス=アンコチェア
[訳]谷 洋之、内山直子
[判・頁]四六判・並製・352頁
[本体]3000円+税
[ISBN]978-4-910635-14-9 C0036
[出版年月日]2025年3月3日
[出版社]東京外国語大学出版会


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