テクノロジーで失われる教育機会 〜令和時代の「問と答の間」〜
先日、同じ学年を担当する教員と、効率化を求めて安易にテクノロジーに頼らないほうがいいよね、という話になりました。
その先生が言うには、テクノロジーによって「特活力」が失われるというのです。具体的には、人と人が直接交渉することをとおして育む調整力や交渉力について言及していました。
1 ある希望調査
学校では教科の授業のほかに、特別活動と呼ばれる時間が公的なカリキュラムに位置付けられています。話し合いを通して、何かを決めたりする活動もその一環です。いわゆる学級会というのもそうだし、クラスで○○係、○○当番を決めたりするのも特別活動です。時間割上は「学級活動」と明記されることが多いでしょう。
これまで何かの希望を児童から募って物事を決めるときには、黒板に決めたいことを書き出したり、表にして張り出したりしていました。その板面・紙面を前にして、子どもたちがあーだこーだ言いながら個別の交渉または調整をし、物事を決めたり、妥協点を見つけたりしていました。その中で調整力や交渉力といった「特活力」が養われていました。
これが児童の一人一台端末、いわゆるGIGA端末が配備され始めた2020年以来、「デジタルフォーム」というテクノロジーによって児童の希望を調整していく作業ができるようになりました。デジタルフォームとは、デジタルアンケートといってもよいものです。
たとえば子どもが入部したいクラブ活動を決める際に、人数の上限があったとします。デジタルフォームで希望のクラブのアンケートを第一希望、第二希望、第三希望までとります。デジタルフォームの結果を表計算ソフトに変換し、どの児童も第三希望までには入れるように教師の側で調整をします。最近はこの作業をAIに行わせることによって、教師が行う調整時間が飛躍的に短くなりました。
もし、この作業を黒板の前で、従来のアナログ方式で決めていくと、非常に時間がかかるし、希望のクラブに入れなかったと泣く子がでたり、児童同士の日常の力関係が児童の選択に影響したりすることがあります。デジタルに頼ることで、時間の短縮とともに、児童同士のトラブルを回避できるので、最近は何かの決め事をデジタルフォームのようなテクノロジーに頼る傾向が大きくなっているように思います。
しかし、これが教育における「効率化」と言っていいのでしょうか?
テクノロジーに導入によって、相手の立場を考えたり、気持ちを推しはかったりしながら妥協点を見つけていくという教育機会が失われることになります。時間をかけて物事を決めたり、トラブルを通して学ぶ機会がなくなります。教育にはテクノロジーによって効率化してはいけない領域があるように思います。
2 「問」と「答」との間
今から約60年も前の昭和40年に、雑誌『教育』に発表された大田堯の文章に
「『問』と『答』との間 —教育の危機について考える—」というものがあります。当時、教師の自主性が失われるような文教政策の問題や、全国一斉学力テストをめぐる組織ぐるみの不正の問題などがあり、教育の退廃や荒廃がひろくいわれていました。そういった日本の教育の危機の本質を大田は「問と答のとの距離が非常に近くなっている」と言い表しました。
大田は自分の中学生になる息子の例を紹介しています。
・三権分立について「司法、立法、行政」と鮮やかに答えられるが、その分立の関係について問われた息子が「そういうのは試験に出ないんだよ」と答える。
・音符を五線譜に書いていると思ったら、「明日試験があるから、誰が作曲したのかを言い当てられるように名曲の一部を暗記している」と答える。
・フランス革命=1789年とだけ答える。
これらの問いと答えの距離の短さのなかに、教育の危機というものが、集中的に表現されていると大田は主張しています。
では、なぜ問いと答えの距離が短くなってしまったのでしょうか。その問題の背景について大田は、
「今日の爛熟した資本主義制度のもとでは、大多数の大衆はものをゆっくり考え、自分自身に独自な内面的なものを大事にしていくということは、いわば夢のようなものになってしまった、といってもさしつかえないように思える(中略)わたくしたちは大部分の大衆が、資本主義社会機構から単に経済的に搾取を受けているという状態だけでなく、精神の内面的な価値さえも収奪されかねない、内面的なものさえも奪われてしまっている、という傾向も否定出来ないように思われる」と述べています。(大田 堯 著『学力とはなにか』、国土社、1990年、179―180p)
大田は、生物学的な「同化作用」と「異化作用」という生物学的な基礎をもとに人間らしい成長や発達を特徴づけようとしています。それは問いと答えの間のなかにおいて、発達の主体が広い環境との相互作用を繰り返し成長をとげていく、というものです。そういった「生物学的な基礎のもとの人間の成長・発達」と、問いと答えの間を近づけるような「資本主義社会機構の日常化、制度化」が相入れないことが教育の危機という問題の根本にあるのではないか、ということを大田は指摘しています。
大田はこうも述べています。
「つまり、問いというものが——自分で問を出すばあいもあり、また、他人から問を出されるばあいもあるが——自問、他問にかかわらず、問いに直面して、それに対する過程で、ああも考え、こうも考える、いろいろ曲がりくねって考えた末に答を出す。しかもそれがテストのばあいのように一つとは限らないで、二つも三つも出し得るばあいが一般には多いに違いない。そういう問と答との間を曲がりくねって考えぬいていく過程、その間で人間は発達をとげるというようなものだと思う。いわば問と答の間には教育と学習との本質があるのであり、教師はいわば、問と答との間に勝負をかけているといってもいいのだ。そこに教師の専門性というものが含まれているといういい方をしてもよいと思うのだ。」(大田 堯 著『学力とはなにか』、国土社、1990年、172p)
今から60年も前の文章です。大田堯からの問いかけは、むしろ令和時代のほうが切実に感じられるのではないでしょうか。テクノロジーをどのように使うのかというのは「児童・生徒の問と答の間を教師がどのようにデザインするのか」という視点につながり、それは令和時代の教師の専門性における新しい側面といえるでしょう。
3 GIGA端末と、「問」と「答」の間
問と答との間を曲がりくねって考えていく過程で人間は発達をとげるという視点は、今の学習指導要領にある程度反映されています。それは「主体的に学習に取り組む態度」という評価の視点が明記されたことからわかります。主体的に学習に取り組む態度の評価は2つの側面でとらえられるとされています。
一つ目は、知識及び技能を獲得したり、思考力、判断力、表現力等を身に付けたりすることに向けた粘り強い取組を行おうとする側面です。二つ目は、 粘り強い取組を行う中で、自らの学習を調整しようとする側面です。「自己調整」「自己調整力」と呼ばれることもあります。
問いに対してどんな答えを出したかといった、インプット—アウトプットだけでなく、その間=プロセスを評価しようという視点が公的なカリキュラムにはっきりと明記されたことはよいことだと私は考えます。子どもがもつ問いと答えの間の「粘り強さ」や「自己調整力」を育むための知識が技能が教師の専門性の一つになっているとも言えます。
一方で、GIGA端末の導入によって、実際の児童の問いと答えの間は、昭和時代以上に近くなっているというのが学校現場の実感です。
何か調べ物をするときに、児童はまっさきにインターネット検索をします。検索ボックスに問いを打ち込めば、すぐに答えが表示されます。その間、数分です。最近はそのあまりの速さを嫌って、あえて図書のみで調べる活動が学校現場では増えています。図書には、児童の語彙に合わせた本があり、情報量も児童の理解度に適しているので、わかりやすいようです。
教科の知識の獲得といった面では、メディアの特性や情報の信頼性といったことも併せて指導し、慎重に答えを出したり、出した答えを吟味したりする指導も重要になっています。
4 精神面の成長における「問」と「答」の間
児童のGIGA端末やスマートフォンの使用実態を見ていると、知識の獲得だけでなく、人間関係の悩みについても「検索」によって早く答えを出すといったことがあります。
これは大人でもそうでしょう。「パワハラ上司の対処法」と検索すれば、すぐに目ぼしいサイトが表示されます。人に相談する前に、または自問自答を繰り返すことなしに、インターネット検索で答えを出す。最近はAIが質問に答えてくれるようになりました。
SNSの普及によって、相手がメッセージを早く返してくれないと落ち着かなくなったり、不安になったりする児童も増えています。相手がどう考えているかをあれこれ考えるまえに、LINEやDMで相手にメッセージを送り、すぐに返信がなければ催促し、できるだけ早い答えを要求します。そのようなやりとりがスマホやSNSによって日常化しており、「答えの出ない状況に耐える力」や「ネガティブな感情のままでいられる力」を養う機会は減っているように感じます。
ネガティブな感情のままでいられる力は、最近は「ネガティブ・ケイパビリティ」という用語で語られることも増えています。精神科医である作家の箒木蓬生(ははきぎ ほうせい)氏は著書のなかで、ネガティブ・ケイパビリティを「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」または「性急に証明や理由を求めずに、不確実さ、懐疑の中にいることができる能力」と、詩人キーツの言葉として紹介し、素早く情報処理をして解答を出す力である「ポジティブ・ケイパビリティ」とくらべています。そして、「答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄」と述べています。この指摘は大田堯の指摘に通じるものがあります。(箒木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ——答えの出ない事態に耐える力』、朝日新聞出版、2017年)
大田堯のいうように問と答との間を曲がりくねって考えていく過程で人間は発達をとげるとすれば、テクノロジーの導入や利用よって人間の発達や、「ネガティブ・ケイパビリティ」の獲得が妨げられている、とも言えるかもしれません。
実際の授業では、早く答えを出すことよりも、答えを慎重に出したり、答えを性急に出さずに、問いを問いのまま抱え続けることを楽しむという「到達目標」があってもいいのではないでしょうか。
人間関係の問題はとても「楽しむ」というものではないかもしれませんが、答えを出すことよりも、悩み続けること自体に価値があるということを児童・生徒に伝えることが重要なのではないかと思うのです。