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『地図から読む江戸時代』認識が地図をつくり、地図が認識を変える

 「本書を手に取ったあなたに最初にしてほしいこと。それは日本の地図を描くことである」という書き出しに、どきりとした。学校時代、地理は得意科目ではなかったからだ。それでもとにかく頭に浮かべたのは、天気予報でおなじみの、海を背景に日本列島の輪郭が取られたあの図だった。

ほどなく、私がそんな図を思い浮かべたことを著者がずばりと当てたのでもう一度どきりとした。どうしてわかったのか。実は、私があの日本地図をイメージしたのには、江戸時代にまでつながる理由があったのだ。

本書の冒頭で著者が指摘するとおり、地理的な正しさは、地図というものをはかる指標のひとつにすぎない。位置関係や地形以外にも、地図にはいろいろな情報や観念が示されている。なかでも日本という存在を表す図(日本図)には、それが作られた社会の状態や、そこで共有されていた世界観が映し出されている。

逆に、ある日本図が広まることによってひとつの認識が広く共有されていくこともある。本書は、日本図が江戸時代にどのように変遷したかを、それぞれの地図が作られた背後にある政治情勢や社会の様子を織り交ぜながら立体的に描き出す。

冒頭でふれたとおり、今日、私たちの多くは日本の地図を描くとなればまず日本列島の輪郭から描き始めるだろう。それは、私たちにとって「日本」といえば日本という国が基礎単位であるからだと著者は述べる。中世の日本ではそんな認識は共有されていなかった。15、16世紀に描かれた日本図は、本書で「くに」と表記される日本国内の国(摂津国など)をうろこ状に重ねていく「行基式日本図」が主流だった。行基図に表れているのは、まず日本列島があってその内部が「くに」に分かれているという考えかたではなく、基礎単位である「くに」の集合体が「日本」であるという考えかたなのだ。

江戸時代に入ると、徳川家を頂点とするひとつの国の構造が作られていき、また出版文化が生まれたことによって日本図は大きく変化する。徳川幕府が最初に作らせた日本図は、各地方に派遣されていた巡検使が収集した地図をもとにしたものだった(1633年に作製開始)。ところが島原の乱の鎮圧に手間取り、その図ではとくに西日本の地政学的情報が不十分であることが露呈したため、幕府はすぐに新たな日本図の作製に着手する。さらに数年後には、全国レベルでより詳細な交通情報や軍事情報を盛り込んだ「正保日本図」の作製に取りかかった。

これらの日本図が作られたのは、外国への渡航を禁じ、貿易や外国人の入国を厳しく制限する鎖国政策が推進された時期でもある。幕府の日本図作製は深いところで鎖国政策とも共鳴しており、外国人(キリスト教徒)が入らない、自分たちだけがいる領域としての日本を図で示すことで人びとが日本像や日本人像を「想像/創造し、共有」するのを助けたのではないかという指摘は興味深い。

江戸時代も中期に入ると出版文化と旅行文化が発達し、今でいうガイドブックが次々に刊行された。そんななかで大活躍したのが石川流宣という浮世草紙作家だ。浮世絵師でもあった流宣は1687年に「本朝図鑑綱目」、91年に「日本海山潮陸図」という大型の地図を作った。彩色され、主要な街道の宿場に関する情報、各藩の石高などが詳しく記されたこれらの図は、旅に出ない人でも想像力を掻き立てられ、相当楽しめたのではないだろうか。これらの図は改版を重ねて実に約90年にわたって売れ続けた。

他方で、美しさよりも地理的な正しさを追究する動きもあった。本書は森幸安と小津栄貞(のちの本居宣長)というふたりの個人による地図作製を取り上げる。幕府も試行錯誤し、徳川吉宗の代に方位測量に基づく「享保日本図」ができた(1728年)。以後、正しさを重視する傾向が現在まで続く。江戸時代後期には、学者の長久保赤水による日本図が出版され(1779)、流宣図に劣らぬロングセラーとなった。

赤水日本図はあくまで科学性を追究したものだ。縮尺の概念が導入され、出版日本図では初めて経緯線が記されたことでも知られている。同様に科学的方法を用いて作製されたのが伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」(いわゆる伊能図)である(1821年に完成)。伊能図を前にするとついその「正確さ」に目が行くが、本書が注目するのは、伊能図では「くに」間の境界線が引かれていない点だ。ここで初めて、基礎単位が「くに」ではなく日本である図が登場したのである。それは「近代的なグローバル世界のなかでみずからを定位しなければならなかった時代、伊能図が先取りして示した」日本の姿であると著者は述べる。

どんな人が何を考えて日本図を作製したのか。その日本図には「日本」や「日本人」についてのどのような認識が見え隠れするのか。扇や屏風に描かれたもの、浮世絵師が趣向を凝らしたもの、南が上になっているもの、手描きのものから出版されたものまで、掲載されているさまざまな日本図を見ながら本書を読んでいくと、臨場感あふれる描写にも誘われ、江戸時代へのタイムスリップ気分を味わえる。

世界のどこの地図でも容易に見ることができる時代、一枚の地図が持つ深さに浸ってみるのもおもしろい。本書を読み終わるころには地図を見る目が変わっているはずだ。

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