映画『トラップ』は罠だらけのシャマラン監督会心の傑作
ナイト・シャマラン監督の映画を好きで観るひとは多いと思うが、私もその一人でほとんどを見ていると思う。彼の映画はミステリーの底流の上に恐怖の味付けがあって、最後に種明かしのカタルシスがあるという展開だ。それぞれの段階での映像や演出が巧みで、ぐいぐい引っ張られてエンディングにたどりつく。私はこの快感が好きだが、全体の整合性をもたせるためでもあるが、途中に複雑な展開があって、そのあたりで納得しない人は、映画を高く評価できなくなるかもしれない。
観客の立場では、次にどんな展開なのかワクワクしてみていくわけだが、映画を俯瞰の位置から距離を置いてみてみると、がぜん予想しない構図が浮かびあがってくる。
それは騙しの構図だ。イントロの部分がすでにだましであって、それがいかに巧みかが、その後の展開の面白さにつながるわけだが、それが今までどの映画でも成功しているし、そこにシャマラン監督の真骨頂があるともいえる。
そしてこの映画についてネタバレ的にだましの構図について語りたくなるわけだが、それは、もうちょっと先のことにして、まずは、筋道について述べてみよう。
映画のテーマは父親の娘に対する親子愛である。このあたりで、すでに私の口元がゆるんで、うっかり本質を語りたくなるが、まずは、この父親が残虐な殺人鬼であり、最後の殺人が進行中であることも述べておきたい。娘はこのことについては全く知らないし、普段は消防士らしいこの殺人鬼は、なにごともなく妻と二人の子どもたちとで、普通の家庭をアメリカらしい中流の住宅地で営んでいる。
映画は、娘にせがまれて父娘二人で、人気歌手のレディー・レイブンのコンサートに行くところから始まる。巨大なアリーナにつくとそこはすでに娘と同年代の観客とその保護者たちでうまって息詰まるほどだ(このあたりは、撮影のスケールの大きさと演出の巧みさに感心させられる)。同時に、多数の警官がアリーナの周囲とすべての出入り口を固めている、だけではなく、あやしい観客のひとりひとりを呼び出して尋問しているようだ。父親はどことなく気になるが、しかし、まだ何が起きているのかは知らない。
コンサートはレディー・レイブンの闇からの印象的な登場ではじまる。見事な振り付けのダンスと響き渡る楽曲に、ティーンエージャーたちが、熱狂するなか、警官の取り調べが途切れることなく進行するにしたがって、父親は追い詰められていくような気持ちになる。
見事なのは、心理的に追い詰められる父親の表現と同時に、殺人鬼としての残虐な複数の犯行がフラッシュバックで挿入され、観客の恐怖心も掻き立てていく点だ。実際の犯行は見せないで、示唆だけで、恐怖心を駆り立てる。シャマラン監督流の心理操作というか第一の得意技がここで発揮される。
そして、ついに、父親は、この広いアリーナを閉鎖して捜索されているのが殺人鬼である自分であることを、アリーナでグッズの販売をするスタッフから聞き出して知る。つまり、殺人鬼である自分は、わずかな痕跡、例えば右腕のタトゥーの映像しか現場に残していないが、その程度の手がかりから、殺人鬼を探し出そうとして仕掛けられた罠が、このアリーナであり、それが題名の意味、トラップである。
そうなると、この罠から、殺人鬼がどうやって逃れるようとするのかが、映画の第二のテーマであり、ワクワクさせるお楽しみの部分であることが、観客にも分かる。
完璧に包囲されたアリーナ、そして、逃亡する殺人鬼の心理を読むことにたけたベテランのプロファイラーの登場、そして、会場を埋め尽くす観客。そこに、歌姫レディー・レイブンと殺人鬼の娘との交流もはさまれて、殺人鬼にとっては絶対絶命のなかで、ドラマがテンポよく、思いがけない展開の連続で進んでいく。
後半重要な山場の一つは、レディー・レイブンが事件解決への重要な役割を果たすスリリングな場面で、歌姫が緊迫した状況のなかでも冷静さを失なわない顔のアップや、機転を利かせて危機を切り抜ける場面は、印象的につくられているし、この小柄な俳優、サレカ・シャマランによりそって、監督がそのきゃしゃな仕草を十全に演技のレベルに引き上げているのがよく分かる。
そして、いよいよ映画の本筋の謎解きである、父娘関係や、犯人の異常性とまとわりつく母親コンプレックスなど興味深い心理劇と、最後のすべてが種明かしとして終わって、ようやくエンディングに到達する。
父親であり殺人鬼役のジョシュ・ハートネットの過不足ない完璧な演技、影の主役ともいえるベテランプロファイラー役のヘイリー・ミルズの重厚な存在感。特に、ミルズの顔を斜め上からふかんして、微笑みを画面に映して、プロファイリングの正しさをそれとなく観客に伝える、シャマラン監督の巧みな演出、さらにアリーナのホール内の熱気と、ホールの外の廊下の冷めた現実感の対比と組み合わせ、すべての細かい計算が合致して観客の感情を堪能させて終演に向かう。ここで強調したいのは、シャマラン監督の特質だと思うのだが、ホラーでありながらも決してグロに向かわない、私のような怖がりも安心できる映画づくりがここでも発揮されている。
ここまで、書いてしまったので、ちょっと深堀させてもらうと、この映画の発端のなぜアリーナですべてが始まるのかの理由が明かされる、殺人鬼の妻の告白の場面は、映画にとってヤマ場のはずだが、意外に調子がはずれてしまった感がある。肉切ナイフが出てきてホラーの要素たっぷりだが、シャマラン監督も消化しきれていないのか、殺人鬼のセリフの中で妻への怒りを、複数回言わせて強調しようとしている。しかし、なによりもこの場面で印象深いのは、妻役のアリソン・ピルの横顔のアップだ。それまでのにこやかな正面からのアリソン・ピルは、ゆるぎないミドルクラスの家庭の妻役だが、ここでのピルは不安と不信にみちた妻の顔である。
つくづくシャマラン監督の巧みさに感服する一つが、人物にたいするカメラワークの使い分けだ。そして、それに応える俳優の層の厚みにもうらやましさを感じる。
すべてが終わり、映画の出来を堪能し、ふと見終わったあとの静寂にひたると、その時に、そうサレカ・シャマランこそシャマラン監督の娘であり、このシンガーソングライターのために、壮大なアリーナのシーンを用意し、ヒロインとしての機知を見せつける場面を演出したのが、父の監督だったことに思い至るのである。
そこで、この文章のはじめで、この映画のテーマが父親の娘に対する親子愛だと書いたが、それが、二重の入れ子構造になった、観客をこっそり引き込むトラップであったことに気づく。殺人鬼の父親が愛する娘のためにアリーナのコンサートに行くことによって自分が引っかかるトラップ、それが、映画の大筋であるが、そして、もう一つが、シャマラン監督が自分の娘のために観客に、娘のこれからの大成を願ってしかけたトラップ。映画には隠されたテーマがあって、父としてのシャマラン監督の、実の娘であるサレカ・シャマランへの愛だったという大きな構図に思い至るのだ。
蛇足を承知で付け加えると、その後、シャマラン監督がインタビューで、この映画を思いついたのは、娘のサレカのパフォーマンスを見たことがきっかけだった、と書かれていたので、私の推測もあながち間違ってはいないと思う。
そして、シャマラン監督がニンマリするシーンも想像できる。
それはそれで、観る側の醍醐味としておこう。
蛇足に蛇足すれば、シャマラン監督の映画の多くは、謎解きの最後の部分で、超常現象やオカルト的なファンタジーに逃げ込むことがある。そうすると、はぐらかされた感じが残ったり、あるいは、逆にそれが好き、という人も出てくる。私の場合は、それがすこし物足りなかったりもした。しかし、この映画は最後まで、現実が舞台であって、謎解きの部分につかわれるプロファイリングも現実味が十分あって巧みな展開だったので、シャマランファンの私にとっては十分すぎるほど満足できる映画だった。
皆さんはどう思われることだろう。
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