〈𠮟る依存〉がとまらないを読んでみた。
質問頂けるのって嬉しいし楽しいな~~って話
頂いていたお題箱にお応えするのが少し遅くなってしまった!
ごめんなさい!
質問はこちらでした~~。
そして待たせたわりに得るものが無く大変申し訳ないんですが、実のところ、うちの店(真澄屋)はヴィ―ガンに対してそんなに感度が高くないので、自分たちがあまり食べないだけでなく、お客さんからも作ったとかどうのこうのって6年くらい働いていて、本当に聞いた記憶がないのですよね!!あって豆乳くらいかも。
なのでインターネットで調べた情報しかなく、実感を持ってお答えできる話が一個もない…。どうやらアーモンドミルクで作っても美味しいらしいですよ…。基本的になんでも作れるようなのでトライしてみたら教えてください。(……)
真澄屋はわたしもマサちゃん(母)も乳製品結構好きだし、小麦粉も好きだし、アレルギー的なものをほとんど持っていない&身内でもいなかったので必要性があまりなくて、知識が少なくて申し訳ないです。
だからか、お客さんも熱心な人が多くないように感じるのかも。
コーヒーが好きなアチくん(父)が店に立っていた時はコーヒーが良く売れたし、私がお酒をよく飲んでいた時はそれなりにお酒も売れたし、みたいなことで、物売る人の興味関心と合う/許容が出来る/惹かれる人がお客さんとしてついてきてくれるのかもね。
同じくオーガニック食品店と言っても、場所や規模にかかわらず売れ筋が違ったりするのはそこで働くひとによる要素がそれなりにあるということ、面白く思います。
でもいつでも情報は求めているので、ぜひお買い物やご飯を食べに来たついでに暇があったら立ち話でもしてってくださいね~!
ここからはいつもの通り読んだ本の紹介をば!していく話
さて、今回は村中直人さん著の「〈叱る依存〉がとまらない」を読んでみた。
本の中、面白いと思った文があるページの端を折る癖があるという話
これが~~また~~なんとなく実感と共にあった思考に判を押されるような、別々にあった回路がつながるような、そんな感覚があるとても面白い本だったよ!!おかげで端を折ったり付箋がたくさん貼られることになって分厚くなってしまったくらい!
この本は、〈叱る〉という行為は親から子へ、上司から部下へ、というようなものだけじゃなく、実はとても強く、社会の仕組みとして組み込まれているかを知ることが出来るしし、〈叱る〉というのはどういう事なのか考えなおしてみることで「どうやって人は学び、成長するのか」ということも見えてくるのが面白い。
読み返してみると”ちょっと”が全然ちょっとじゃなかった話
ちなみにちょっと話は逸れるけれど(いつも)、例えば本なり何かしらの作品なりを見て「言っている意味が…わからないな?」と思ったとするなら、理解力不足を後ろめたく思ったり、わからないと思う自分を恥じる必要なんてひとつもないんだよな~。
その作品が自分に当てはまってないだけかもしれないし、分かりにくいように書いているのかもしれないしね。ああ、合わなかったんだ。それで終わりでいいんだよ~~。
けれど、少しでも内容に興味があってわかりたいと考えるときは、同じテーマを扱っている別の作品を見てみるのも良いし、とりあえず頭の中にわからないな!とそのまま放置してみるのも良い。
そうすると普通に生活していたり何かしら別のものに触れたときに、「あ!あの時書いてあったのってもしかしてこういう事かも?」と思い付くときが、半年先でも5年先でも20年先でもあるかもしれないので、その時まで楽しみに置いておくと喜びもひとしおですわ。
これは完全に耳学なんだけど、記憶は一度入れたらば消えることはなくて、ただ使用頻度が低いものは取り出せなくなるだけだということを聞いたことがある。(出典不明)だからいつ何時、回路が繋がってアハ体験が産まれるかわからないのが面白い事だね。
そもそも学びというのは自分で考えて理解して、間違えて、なぜ間違えたかを考えてまた理解しなおして、と訂正を繰り返しながら自分の中に落とし込んでいくものだし、落とし込む過程は家族といえど友人といえどみんな違うので、速度も方法も一人一人もちろん違うということを、私たちはすぐ忘れてしまうんだよな。ということを再確認して脳内に大きく赤く太い字で書きなおした。
いつだってすぐ思い出せるように。
自分が面白いと思った部分をまとめるのって結構技術が必要…?もしかして…の話
この本もたくさん言葉を尽くして誤解のないように丁寧に説明されているので是非読んでほしいんだけれど、なるたけ誤解のないようにおすすめをしてみたいと思うよ~~!
という意気込みをもって、試行錯誤しながら書いてみてたんだけれど、どうしても”叱る”ということに注力しようとすると説教みたいな雰囲気になってしまいそうでやめておくことにする。
〈叱る〉ことに悩んでいたり、知りたい人はぜひ本を読んでみてくださいませ!
本屋でも電子書籍でも図書館でも真澄屋でも読めますから~~!
良い悪いではなく、まず”在る”を知るのは大事という話
なので一番私の中で興味深かったのをひとつだけ。
「〈叱る依存〉がとまらない」を読んでみて一番驚いたのは、どんな人間でも「悪いことをした誰かに、罰を与えたいという欲求は、産まれもって皆等しく持っている」という話だった。
この欲求は処罰感情というんだけれど、処罰感情は「美味しいご飯(生理的報酬)」や「働いて得た給料(学習的報酬)」や「周囲からの誉め言葉(社会的報酬)」などの様々な報酬欲求と同じように「(自分が損をしてでも)ルール違反をした誰かに罰を与える」ことで回路に報酬を与えるということがわかっているんだって。
だからご飯を食べておいしい!また同じような体験がしたい!幸せだ!と思ったときと同じような報酬が、脳にとっては(自分が損していても)他者を罰する時にも出ているということである。
個人的にはこの(自分が損してでも)ということが意外な事実だった。
ではそもそもなんで、こういった処罰感情が「全ての人間に」備わっているかというと、
コミュニティのルールを守るために生まれたと考えられる処罰感情は、”コミュニティ”の範囲がインターネットによって境目がなく大きくなり、小さいコミュニティだけだとまだ自制されていた部分もあった傍観者という立場が暴走してしまうという繋がっているよねえという話
これらの処罰感情が、〈叱り〉ということが、身近な存在だけじゃなくて、芸能人などへのバッシング、往々にして実害を受けていない人が行うことの多いヘイトスピーチ、そして実情と合っていない少年法の改悪や中々なくならない死刑制度、そして日本の選択肢が少ない中絶方法や、夫婦別姓の制度導入などといった社会の構造の問題にも実は深く関わってくることがわかる。
〈叱り〉というのはいつだって規範/ルール/その場での正解、を決めて相手をコントロールできる「権力を持っている人」が出来ることだから。
権力を持っている人、というのは関係に上下が出来た時点で生まれるから別に特別なにかしらの立場が必要になるわけじゃない。
パートナー間にだって、友人関係にだって、一見対等に見えるものでも片方が「普通」「常識」「当たり前」というルールや規範をもってして相手をネガティブ(恐怖や不安、苦痛など)な感情を抱かせ、無意識/意識的にコントロールしようとした場合、「権力者」になるんだ。
そしてそれらは、特別な人がなるわけでなく、皆等しく持っていて、かつ暴走しやすいものでもある。ということを知ることは大きく意味があるんじゃないだろうかな。
人を〈諭す〉とき、〈説得する〉とき、〈言い聞かせる〉とき、相手を思いやる気持ち以外にも自分の快楽が発生しているんだ、ということを知ることはストッパーになり得るんじゃないだろうか。
そんなことを考えたな~~。
この本、自分の取り巻く環境や年齢の経過によってどう捉えるか、何を思うのか、何が響くのかが全然違いそうで、また是非読みたいです!
ぜひみなさんも読んでみてくださいませ~~~!
次回予告の話
さて次回は
2024年の振り返りをしてみます!
あっという間に(心から信じられない気持ちと共に)、もう2024年の振り返り…?そう……地球って今日も回ってたんだね…
ではまた次回で~!
何かしらあればこちらでも
いついかなる時も何を書こうか悩んでおりますので、なにがしらの質問や読んでほしい本などあればなんでもどうぞ!という気持ちで、お題箱おいておきます。よろしくね
なんでもどうぞ (@masumiya_kabu) | お題箱 (odaibako.net)
◎八百屋真澄屋 日曜日ー金曜日10:00〜19:00
定休日 土曜日
◎百笑カフェおおきなかぶ 日曜日ー木曜日11:00〜15:00
定休日 金曜日、土曜日
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