長渕剛論

かつて日本に長渕剛というシンガーソングライターが存在した。 
活動時期は1978年から1997年。

今いる長渕剛は別モノで、作る曲も体格も顔も違う。同じなのは氏名くらいである。

かつて存在した長渕剛の曲の中から好きなものを選んでプレイリストを作ってみた。

たぶん、一般的に知られてる曲は入ってないと思う。

全部で何曲あるのか知らないがこの40曲に長渕歌の個人的な好きが入っている。

活動時期を1997年までと書いたが、その後、長渕は何を始めたかと考えると、身体を鍛え始めた。
その結果、別の人間になってしまった。

21世紀に入ってからの(マッチョになってからの)長渕のアルバムを10枚ほどゲオから借りて聴いたことがある。

本当に、いい曲が1曲も無かった。
俺の琴線に触れるような曲は1曲も無かった。


俺はスピッツの曲を「ロビンソン」と「チェリー」くらいしか知らない。
その2曲のみから「なんかポップで善良なバンド」という印象を持っている。

スピッツのアルバムをちゃんと聴いた経験のある人は思うだろう。
いや、他にもっとイイ曲がたくさんあるよ。
スピッツの音楽性の本質的な部分は〇〇ってアルバムを聴くと分かるよ。
思ってるのと全然違うバンドだよ。


一般的に有名なパブリックイメージとなる曲とそのアーティストの本質的な曲は違う。

それは有名なアーティストのほとんど全て、ミスチル、B'z、米津玄師、Ado、RADWIMPS、Official髭男dism、セカオワ、Mrs. GREEN APPLE、ブランキー、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、ゆず、ワンオク、エレカシ、GReeeeN、WANIMA、湘南乃風、EXILE、SMAP、嵐、SnowMan、等、

…挙げればキリがないが(全く知らないアーティストも入れてみたが)、一般的に有名なアーティストほど、シングルでもないアルバム収録曲に「えっ、思ってたのと違う…」という曲が入ってる。はず。

音楽評論家でもない限り、それら全てを聴く必要は無いし、時間的にムリなのでしないけど。


長渕剛の有名な曲といえば…「とんぼ」「乾杯」「順子」「巡恋歌」辺りだろうか。どれも昭和の曲なので現在、一般的に有名な長渕の曲というのは存在しないのかもしれない。

noteの冒頭に画像で載せた40曲が長渕剛(〜1997)の本質的な曲である。一般的に知られてる曲は少ない。

長渕(〜1997)ほど、一般的なイメージと本業である歌の内容が違うミュージシャンはいない、と感じ続けている。

一般的なイメージは「マッチョ」「男らしさの押し付け」「保守的」「ロクデナシ」「ホモソーシャルの権化」「なんか嫌なやつ」だろうか。
このうち合っているのは「ロクデナシ」と「なんか嫌なやつ」くらいだ。

あの、よくネットで見る「セイッ!セイッ!」って何?…と思う。身体を鍛えてからのパフォーマンスだろうか。


長渕の曲は人間(長渕自身)の弱さ・狡さ・汚さ・情けなさ・どうしようもなさを歌っているものが多い。

長渕はブレイクのきっかけの1つである「順子」という曲を当時、音楽評論家から批判されている。
批判の内容は「女々しすぎる」である。

長渕はブレイク当時から批判され、嫌われてきた。
「隠れ長渕ファン」という言葉は80年代から存在してたし、俺もその1人だった。

なぜ嫌われ、批判されたのか。

まず、顔が悪い。

セカンドアルバムのジャケットだが、顔が悪い。顔が悪い上に、なんかムカつく。
なんかムカつくのだ、コイツは。分かる。俺は長渕の歌は好きだが絶対に長渕には会いたくない。


長渕の歌に戻るが、フォークやブルースを基調とした楽曲に、
心の琴線に触れてくる歌詞を乗せてきやがる。
個人的に好きなやつだ。
全くスタイリッシュでも、カッコよくもないし。

安全な場所から「負けないでね 頑張ってね」とキレイな言葉で歌われても、元々元気な人が更に元気になるくらいの効果しかなく、

弱者や敗者は「本当にもう、どうしようもねえよな。俺もそうだけど」と歌われる方が救われる。


長渕の歌詞をいくつか抜き出してみると

天井には姉ちゃんのすすり泣きが響き 俺はじっと明日を垂直に考えてた

信じる心はバナナの叩き売りみたいに しおれた花に足を踏んづけやがる

なんでアンタあん時 死なんかったんや
ウチが女やさかい 殺せんかったんと違う

人混みに紛れると なおさら涙が出るから やっぱり1人に なろうとした

トランキライザー4錠 囓っても眠れない夜を数え 天井へ落ちてゆくような 午前4時の俺

欲張りな子どもが こっちを見てた
知恵をつけなさい 人を蹴落とすために 思わず僕は 言葉を送った

そして生きてく 勇気が欲しくて
それでも死ねない 自分がなお悲しい

あなたのように 強く死ぬまで生きようと

俺のようなろくでもねえ虫ケラは
人に揉まれて 上等さ

だけど良いも悪いも全部 自分だから

覚えたことと言えば 臆病になることと
年老いた親を 騙すことくらい

舌を噛み切った 絡み合う唇の中

あゝ 当たり前の 男に会いたくて

呆けた かあちゃんが遠くを見てる
病院のベッドで 死んだように
俺の少年 ばっかり探してる

どれだけ人を愛しても 愛しぬいたとしても
母親の子宮に戻ることはできない
それは弱いということじゃない

執念深い貧乏性が 情けねえほど染み付いてる



……呆れるほど弱く狡く汚い歌詞が多い。
女性は気持ち悪いと感じるかもしれない。
たぶんそれは、正常な反応だ。

というか…女性が長渕を見て、あるいは曲を聴いて
「なんかイヤ。なんか嫌い」
と感じることは(ある種の防衛本能として)正しいのではないだろうか。


長渕の歌詞に最も多く出てくる単語は、たぶん「俺」である(「僕」や「オイラ」「私」の時もあるが)
とにかく1人称視点、自分のことを歌ってる曲が多い。


長渕が一番興味があるのは、長渕自身である。

どんな自分に興味があったのか。

弱い自分である。


長渕のコンプレックスは「身体の弱さ」である。
幼い時から喘息持ちで痩せた虚弱体質の身体で、
長渕が10代までを過ごした50〜70年代の九州・鹿児島で
暴力が支配する男性社会の中で長渕がどんな扱いを受けていたのか、だいたい想像がつく。

社会の中での敗者・弱者としての歌を1997年までの長渕は歌っていた。

90年代に長渕は長者番付・芸能人部門で1位になるほどのカネを稼いだが、

カネは長渕のコンプレックスを払拭できなかった。

そして長渕は身体を鍛え始めた。
肉体改造に成功した。

コンプレックスが払拭されたのだろう。
長渕が作る曲にイイ曲が1曲も無くなった。

コンプレックスが無くなった長渕は、
ヒマになった。

ヒマだしカネもあるしコンプレックスも無いし、
自分に興味も無くなったし、
歌いたいことも無いので、

デッカい字で書道をしたり、空手をやったり、政治的なことに口を挟んだりするようになった。

それが現在存在する、1997年までの長渕剛とは別モノの、長渕剛である。


長渕剛と政治についても書いておこう。

2002年、長渕剛は「静かなるアフガン」という曲を発表し、この曲はすぐにNHK等から放送禁止の扱いを受けた。

マッチョ後の曲で、俺は当時既に長渕に興味を失っていたので、
最近になってこの曲を聴いてみたが、

歌詞が……
端的に言うと、陰謀論的なことを歌っている。

放送禁止判断は妥当だと思う。
こんな曲を公共の電波で流してはいけない。

要するに、長渕剛は政治的なことは分からないのだ。

でも、
「日の丸をバックに国のことについて歌いたい」
という気持ちだけが、とても強い。

長渕に影響を与えたミュージシャンはボブディランとブルーススプリングスティーンであろうと思う。

その1人、ブルーススプリングスティーンは

「ボーン・イン・ザ・USA」という曲を歌った。(この曲は「アメリカに生まれたのに」というアメリカ批判の曲だが、多くの人、特に日本人は「アメリカ、カッコイイ!」という印象を当時、持った)

星条旗をバックにした写真は映える。
それは先日のトランプ銃撃未遂の時にも証明された。

長渕はブルーススプリングスティーンを見て思った。
「オレも、日の丸をバックに歌いてぇなぁ〜〜」

そして、ブルーススプリングスティーンのマネをした。

長渕を「長渕」ではなく「ツヨシ」「アニキ」と呼ぶレベルのファンは、信者である。

信者は長渕のマネをする。
日の丸の旗や布などを持ってライブ会場に集まる。
たぶんそこに、確固たる政治的な信条は、無い。
(なんか日の丸ってカッコイイよな〜〜)と思っているだけだと想像する。

長渕のライブはこんなのらしい。
行きたくねえなぁ………

長渕剛が国粋主義者とか、保守であるとか、極右であるとか、または反米的な歌詞を過去に書いてるとか、

あんまり、考えなくていいと思う。
だって長渕は陰謀論を歌詞にして歌った過去もあるし、
政治的なことはよく分ってないので…

ただ、「日の丸をバックに歌ってるオレ、カッコイイ!」と思ってるだけなので…

怖いのはライブ会場での長渕の求心力を「利用してやろう」と近づく、政治家がいたら怖い。
そしてそういう政治家は、政党は、既にいるのかもしれない。



現代は、
アーティスト、俳優、アイドル、小説家、スポーツ選手、等、
人前で何かを表現する有名人は
「人格者であること」
が前提になっているようだ。

人格者でないと、その人の作品を好きになれない。いや、好きになってはいけない。
非・人格者の作品を不意に好きになってしまったとしても、それを口外してはならない。

そういう風潮のようだ。
そういう時代だ。仕方がない。

俺は「表現者は人格者」どころか「一般的な社会生活が送れないくらい人格が終わっているので、カタギの仕事ができずに芸能やスポーツの世界で生きてるのだろう」
とボンヤリ誰もが思っていた時代に生まれ育ったので、

長渕の曲を聴くことができた、とも言える。


俺は本当に、表現者の人格と、その人が作った作品を別モノとして捉える。
今でもそう。そこの価値観のアップデートはムリ。

人格者を期待される芸能人やスポーツ選手、大変だな……とも思ってしまう。


現在の長渕剛には全く興味はなく、

長渕の「歌」のみに惹かれて聴いてた時期が俺にはあるし、今もたまに聴くので、

長渕(〜1997年)について書いてみました。


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