狂っていたAK中学校

これは「ちょっと内容的に…ツイッターに書くのも…人に言うのも気が引ける…」
と思ったのでnoteに書く、思い出話です。

マジで倫理的に終わりに終わった話ばかりなので、苦手な方は読むのを控えてください。


昼間、妻と話してて「中学校の修学旅行、どこに行った?」と聞かれて、アレ…どこに行ったっけ…?小学校は長崎に、高校は長野県でスキーだったのだけど、
中学校の修学旅行でどこに行ったか…
たぶん、南九州だったと思うけど…

…と記憶を探っていくうちに
自分が通っていたAK中学校が「どんなに狂っていたか」を数点、思い出したので綴る。


☆スケベ話教師、社会科のK先生

この教師は当時20代で、3年間社会科を教わった。

1982〜1985年、今に比べると別世界のように「性に関する情報」が無かった時代。
拾い物でもエロ本は超・貴重、AVは既に存在していたがビデオデッキそのものが高価だったため、富裕層と一部の好事家の家にしかビデオデッキが無かった。
「動くセックス」どころか、「動く裸」でさえ見ることが困難だった。

中学生は性の情報に飢えていた。

そういう時代の中、社会科のK先生は授業中にペラペラと、自分が行った性行為の描写を口述で喋っていた。

授業中にである。
「今日はこの、墾田永年私財法について。(教科書を読みつつ)ここアンダーライン!ここテストに出るから。…ああ…昨日、彼女とセックスしたんだが、まずクリ〇リスをだな…(性行為についてツイッターの裏垢のように丁寧な描写で述べる)…まあそういう感じで、墾田永年私財法の話に戻るが…」
みたいな感じのことを、授業中に喋っていた。

ここまで読んで「生理的にムリ!信じられない!キモすぎる!」と思う人は多いだろう。だからnoteに書いている。

その間、生徒はどういう反応をしてたかというと、

静かに、真面目にその性行為の話を聞いていた。
男女共に、である。

性に関する情報が少なすぎたためである。
全くの未知の世界だった。

K先生は「スケベ話をしてますよ」という、エロ自慢的な、ニヤニヤした表情ではなく、
めっちゃ真面目な顔で、淡々と喋っていた。

時々ツイッターでも話題になるが、日本の学校では性教育はしない。

学習指導要領に「授精の仕組みについては教えるが、授精に至る過程については教えないものとする」とハッキリ書いてあるのだ。

今は「AVの悪影響」などと話題になるが(確かに悪影響はあると思う)
「AV以前」は「動くセックス」については土曜ワイド劇場などでたまにあった、数10秒〜長くて2分程度のベッドシーンでしか見ることができなかった。

その数10秒のベッドシーンはだいたい、
キス→胸をペロペロっと舐める→挿入
という流れしか確認できなかったので「セックスとはそういうもの」だと少なくとも俺は思っていた。

でもK先生が授業中に話している性行為の描写は土曜ワイド劇場のベッドシーンとは違う、なにやら複雑な手順があるのだな?…と性情報に飢えた中学生に想像をさせた。話を聞いて性的に興奮することはなかった。
「普通の話」のようなトーンで淡々と話していたからか。

男子も女子も真面目にその話を聞いていた。
保護者から苦情などなかったのだろう、1年から3年までの授業で性行為の話を時々、頻度は忘れたが、普通にしていた。

アレは性教育だったのか?それともふざけて話してたのか?
K先生の真意は分からない。

ただ、中学卒業後、AK中学校から別の中学校異動したK先生と双子の兄が電話で話した時に(K先生は兄の3年時の担任だった関係かな)

K先生は兄に「元気か?オレはAK中学校から〇〇中学校に来たけど、全然おもしろくない!ちょっと授業中に別の話(おそらく性行為の話)をしただけで怒られる!AK中学校が最高に楽しかった!」
と言ってたらしい。

怒られるのは、当たり前である。
昭和とか関係なく、そのAK中学校が狂っていたのだ。

K先生はおそらく、性教育などという真面目な気持ちはなく、単にふざけていたのだろうと俺は思っている。


☆体育館に貼られた修学旅行のチ〇ポ写真

この記憶を今日、思い出したのだ。

修学旅行って専属のカメラ屋?が付いてきて、写真を撮るでしょ。
その写真を後日、廊下とか体育館とかに掲示して、その写真に書かれた番号で生徒が写真を選び、購入するシステムのやつ。

今のようにスマホとかないから「好きな人の写真」をドサクサに紛れて入手する数少ないチャンスでもある。

…ここまでが常識的な話だと思うが…

ここから先が狂っている。

おそらく、修学旅行の夜、変に上がったテンションで男子同士が悪ふざけをしたのだろう。
寝間着代わりに着てた体操服のジャージを脱がせて、パンツまで脱がせて、陰茎が露出している写真があった。

(読んで「悪質なイジメでは?」と不安になる方もいるだろう。でもその、悪ふざけをしてる男子達の班は今で言う陰キャグループで、その男子同士の関係性を知ってる俺からしても、イジメではなく「修学旅行の夜独自の、変なテンションでやってしまったこと」だと感じた)

陰茎は何故か、ボッキしていた。
ネッシーの写真かと思った。

ネッシーの持ち主の顔は写ってなくて、ネッシーのみが写っていた。

そのネッシー写真が「139」などとフツーにマジックで番号が書かれて、フツーに体育館の壁に掲示されていた。

はじめは女子が「キャー!」とか言ってて、なになに?と見に行くと
ネッシーの写真だった。

ネッシーの持ち主は何となく分かった。
持ち主は愛嬌がある男子で、男女から人気があり、「オマエのじゃないの?」という問いに「エヘヘ…」と反応していた。

また、ネッシー写真とは別に。
愛嬌のあるネッシー君の、陰部がギリ写ってない風呂でのセミヌード写真も「158」と番号が書かれて掲示されていた。
めっちゃ爽やかな笑顔でピースサインをしている。
全裸だが、陰部はギリ写ってないので、セーフ!
…という判断だったのか。

しかし、その前に、その前にだ。
アナログ写真の時代、ふざけて陰部の写真を撮って、そのフィルムをカメラ屋に現像するために出しても、陰部が写っている写真は省かれていた。
おそらく、わいせつ物ナントカみたいな法律でそういう写真の現像は禁止されていたのだ。

いや、じゃあ、修学旅行に着いてきたプロのカメラ屋は何故、ボッキしたネッシー写真を現像したのか?…という疑問。

いやその前に、何故その写真を撮ったのか?
誰が撮ったのか?カメラ屋か?

そして、
大人ならボッキ陰部と分かるだろうネッシー写真に番号を書いて堂々と体育館に掲示した教員たちの判断。

判断…?いや、単に教員たちもふざけていたのでは?…と思う。

愛嬌のある人気者、ネッシー君のネッシー写真を何人が購入したのか、俺は知らない。


☆汚言症のS君

3年の2学期の始めに、S君という転校生がやってきた。
「3年の2学期に転校してくる」という時点で、今考えればワケアリである。

でも田舎の中学校は転校生が珍しい。みんな興味津々だ。

担任からS君について説明があった。
「え〜、今日からこの学校の仲間になるS君は『思ったことをぜんぶ口に出して言ってしまう』という病気です!まあ、みんなも戸惑うとは思うが、仲良くしてやってくれ!」

昭和の中学生は「汚言症」なんて知らない。
ただ、俺たち男子は「思ったことを全部って…エロいことも全部、口に出して言ってしまうってこと?」
と思った。

思ってた通りのことが起こった。
S君は静かな授業中も突然言葉を発する。
「マンッ」とか「クリッ」とか「オメッ」とかである。

いやまあ、俺たちも口に出さないだけで(ほぼ常に)エロいことを考えてるからな…
大変だな…
俺はS君に同情した。

転校してきて2週間くらいは…
S君の「マンッ」みたいな言動にはビックリしたし、男子も女子もS君を馬鹿にして笑っていた。

しかしなんと…
1ヶ月経った頃にはS君の突然の言動に誰も驚かなくなった。
S君を馬鹿にすることもなくなった。
S君に慣れたというか、S君をAK中学校の生徒は受け入れたのである。

S君はなんというか、田舎の中学校には珍しい、都会的な雰囲気があった。
おそらく、おそらくであるが、その汚言症のためイジメられたりして転校を繰り返した過去があったのではないか?…と今になって思う。

S君は汚言症であることを除けば、コミュニケーション能力も高かった。そして都会的な清潔感があった。

そしてなんと、転校してきた2ヶ月後には彼女もできていた。
その彼女は学年でも高嶺の花というか、とても綺麗な美少女とも言える女子だった。

S君は完全に「普通の男子」として受け入れられたのである。
おそらく転校を繰り返してきたであろうに、
AK中学校ではカワイイ彼女までできて、成績もよく、校区で2番目に偏差値の高い進学校にその彼女と一緒に合格したのだ。

AK中学校はなぜ、汚言症のS君を受け入れたのか。

狂っていたからである。
エロい話を真面目な顔で淡々と喋る社会科のK先生、ボッキした陰茎写真を平然と体育館に掲示する教師。

そういう、異常空間では汚言症のS君は「フツーの男子」になれたのだ。

S君が高校に進学してからのことは知らない。


☆授業中に飲酒をしてた数学の先生

マンガなどに出てきそうだが…

アル中の教師がいた。
ウイスキーを入れる、ちょっと曲がった容器みたいなのがあるでしょ。ステンレス製みたいな。
アレをそのアル中先生はズボンのポケットに入れて授業をやっていた。

せめてもの良心だったのか、そのウイスキーの瓶をポケットから出して「クイッ」と授業中に飲む時は生徒の目に触れないよう、黒板側を向いて飲んでいた。
「飲んでいるな…」と俺たち生徒も思っていた。
数学の授業は分かりやすかった。アルコール効果で分かりやすい授業ができていたのか。

6年後、20歳の俺が教育実習で母校であるAK中学校に行った際、
そのアル中教師は教頭になっていた。
教育実習生だった俺は、そのアル中の教頭から「キミはもっと〇〇を頑張った方がいいね」と指導を受けながら
「いやアンタ、授業しながらウイスキー飲んでたやん…」
と思った。
そのアル中の教頭から「教育実習、合格!」みたいなハンコを押してもらった。


☆木刀を持った補導の〇〇先生

そのAK中学校は、荒れていた。
マジのヤンキーがたくさんいたが、
そのヤンキーたちが、警察より、ヤクザより恐れていた先生がいた。

荒れた中学校には「補導主事」という立場の教師が配属される。
教師ではあるが、授業は持たない。
ヤンキーたちが起こす問題を解決するために活躍する教師である。

俺はその教師の名前を覚えていない。
顔もほぼ、覚えていない。
ほとんど、見たことがないのだ。

ただ、ヤンキーたちが「やべえ…今日は補導の〇〇が来てるらしいぜ…」
とマジでビビっていた。

ヤンキーたちの会話から、その補導の先生は
「常に木刀を携帯している」
ということが分かった。
竹刀ではない。木刀である。

おそらく、普段は学校以外のどこかにいて、「ヤンキーが問題を起こしました」という連絡を受けた時のみ、学校に来てたのだろう。
そして俺たち普通の生徒の想像が及ばぬ場所で、想像の及ばぬ「指導」をしてたのだろう。木刀で…

あまりにその「補導の先生」を見たことがなかったので、大人になるまで補導主事ってのは別組織から学校に派遣される「公安」みたいな外部の人間かと思っていた。


以上、今日、ふと思い出した母校、狂っていたAK中学校についての思い出話でしたが、

このAK中学校はめっちゃ荒れていました。
以前「猪木から教わったこと」みたいな題名のnoteにも書いたけど、
生存するために俺も暴力を使った。

教師が生徒から殴られている現場も、教師が後ろから生徒に掃除用のモップで殴られる瞬間も見た。

そういう、親が指定暴力団の組員や組長の生徒を相手に、
教師たちもどうにか毎日を乗り切るために、狂っていたのだろう、
と、補足しておきます。

理不尽な体罰や、理不尽な指導は受けた覚えがない。

そんな暴力団や〇和組織が濃く関係してる閉鎖空間で理不尽な体罰や指導をしたら教師や教師の家族が危ない。

そういう時代、地域も存在していた、また、存在しているのです。






終わり。

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