【小説】 冬に還る人 ――祭りの夜に母と再会する
1 或る青年のつぶやき
お母さん、あの夜の、海辺の町での音楽会のことを覚えていますか?
僕は、今夜また、あの町を訪ねようと、今、列車に乗ったところです。
お母さん……待っています。
2 山門前のお祖父ちゃんの食堂で
朝から雪が降っていました。
学校はテスト休みに入ったので、私はお祖父ちゃんのお店を手伝いました。
お店というのは、海を見下ろす山門前の、古い食堂です。
今夜は、その山のお寺で、お祭りがあります。昔は参拝客で賑わったといいますが、今ではちっともです。特に今日は雪のせいで、それこそお昼になっても、お客様は一人もありません。雪の結晶をつけた、氷のように冷たい窓から外を眺めてみても、誰一人として歩いていません。昔は近くのリゾートホテルで、よく音楽リサイタルが開かれていたのですが……。
そのホテルも数年前に廃業して、今では海を見下ろす丘の上の廃墟となっています。
つけっぱなしにしているお店のテレビから、昨日起きた、外国の海に墜落した旅客機のニュースが、朝から何度も流れています。
夕刻になって、ようやく一人のお客様がありました。
その人が、お店のすり硝子のはまった引き戸を開くと、冷たい風と粉雪が店内に吹き込み、ゴォーという海鳴りが聞こえてきました。
3 お祭りのいわれ
「いらっしゃいませ」
テーブルまで、温かい丼を運びました。
お客様は、高校生の私よりも三、四歳ほど年上でしょうか、初めて見る青年です。
彼は湯気を浴びながら、お祖父ちゃんがこしらえたワカメの入ったうどんを静かに啜っていました。
冬至ですので、金柑の甘露煮の小鉢もお出しすると、お客様は、ふと顔を上げて、
「そこの山門を上がったところにあるお寺に、今夜、蝋燭をお供えすると、逝った人が戻って来てくれるというのは本当かな?」
と、尋ねてきました。
「そう言い伝えられてはいますけれど……。土地の人間しか知らないような小さなお祭りですから、だいぶ廃れてしまいました。お客さんは余所の土地の人のようですけれど、ずいぶん詳しいんですね」
「いや、物好きなだけで……」
青年は恥ずかしそうに笑うと、すぐ真顔に戻って、さらに訊ねてきます。
「どうしてこんなに寂しい、厳しい季節に、わざわざお祭りをするのだろう?」
「……さぁ」
私も答えようがなく、困ってしまいました。すると厨房からお祖父ちゃんが出てきました。
「このあたりはね、今日のように、昔から今頃になると雪が盛んに降ってね。そうすると誰もが寒さから無口になり、町の中は静かになってしまう。逆に冷たい海は、凍ることもなく白い泡をたてて波がうねり、海鳴りが轟く。海がいつもより躍動しているように見える。冷たい死の海から、命無き者が、あの波に乗って戻ってくると思えたらしい。誰が始めたのかは知らないが、死者が迷わないように、上の寺に目印の灯火を置いたんだ。漁師町だから、昔から海では沢山の人が亡くなっている。彼らに会いたい人は、この土地には多くいる」
青年は金柑を口に入れながら、お祖父ちゃんの話に耳を傾けていましたが、
「実は、昔、一度だけ、この土地を訪れたことがあるんです。やっぱり冬至の日でした」
そう言って、お代を払い、お店を出て行きました。
4 或る青年の独白
お母さん、僕はあなたに訊ねました。
「あの灯りは何だろう?」
でも、あなたは首を傾げるばかりで、熱心にチェロを弾き続けていたのです。
あの時の僕は、とても緊張していましたよ。なにせ、「音楽に専念したいから」と、お母さんが家を出て行ってから、実に三年ぶりの再会でしたから……。
その三年の間に、僕は高校生になっていました。
「来週には外国に行くのよ。これから何年もかけて、様々な国を演奏旅行で回るのよ」
お母さん、あなたは僕に、そう嬉しそうに言いましたね。
僕は哀しく、そして寂しくてたまらなくなり、急いで部屋を出ました。
「何処へ行くの? リサイタルの時間までには戻ってきて。席を用意しているのだから」
「……うん」
ドアを閉めながら、チラと室内を見ると、お母さんは椅子に座ったまま目を閉じて、もう僕を忘れて脚の間のチェロを弾きだしていました。
外はとても寒いので、僕はホテルの中をしばらくうろついてから、部屋に戻りました。
すると、そこには、あの男の人がいたのです。ロビーにあったリサイタルのポスターにも顔写真が記載されていた、お母さんと一緒に世界を回るピアニストです。
お母さんは、彼の腕の中にいましたね。
だから僕は開きかけたドアをそっと閉めると、今度こそ雪の降り出した夜道を歩きました。海鳴りを聴きながら、どうかお母さんのことを忘れられるように祈り続けました。
薄暗くなって来たとき、灯りが向こうから近づいてきました。
「ねぇねぇ、ママ。この灯りを見たら、パパはきっと私たちに会いに、海から戻って来てくれるわよね」
ミトンをはめた手で赤い蝋燭を握りしめた女の子と、その母親であろう、まだ若い女性でした。
二人は海の方へと、闇の中を消えて行きました。
僕は振り返り、ミトンの小さい手の中でチラチラ揺れる炎が、薄闇の中、鳥居をくぐり山門の階段を上がって行くのをずっと見つめていました。
あの夜から四年が経ち、ホテルは今、丘の上で、塩辛い風に吹きさらされた廃墟になっていました。
真珠のように輝く白い外壁いっぱいに施されたモザイクタイル画の、タツノオトシゴや人魚たちは、かつての華やかな姿を辛うじて残しているものの、建物の中はガランドウです。
入り口の硝子戸は割れてなくなり、ロビーだった空間には、もう誰も座らないソファやテーブルが並び、その奥には無人のフロントのカウンターが、埃を被って残っています。
ガラスのなくなった、雪の吹き込む窓辺に立ってみると、ずっと向こうまで広がる黒い海があり、その手前に、お寺の伽藍が黒く浮かび上がり、チラチラと揺れている小さな炎が見えます。ワカメうどんを食べた店を出てから僕が備えた蝋燭です。
あの灯りを見て、僕の心は晴れやかです。
お母さんは、もう誰の手も届かない海にいるのだから……。
だからどうぞ今夜、僕のそばに来てください。遠くの海に落ちた旅客機に乗っていたお母さん。この海を見ながら、僕は今夜、ずっとここで待っていますから。
5 祭りの夜に聴こえる音色
雪は降り続いています。
夜も遅くなりました。
もう誰も来ません。
お祖父ちゃんは火を落として、厨房の片付けを始めています。
店のテレビでは、外国の海に墜落した旅客機事故の続報を流しています。乗客の中には、日本人も数人いたようです。
暖簾をしまおうと外に出ると、身を切るような冷たい風に乗って、どこからかチェロの音色が聴こえてきました……。
いいえ。雪の降る夜です。空耳に決まっています。
私は凍える指先に息を吹きかけると、暖簾をはずして、急いで中に入りました。
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