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大好きなサッカー - 田口幹人

こんにちは。お世話になっております。

埼玉県立川越高校出身、東京農工大学機械システム工学科2年生田口幹人(たぐち みきと)です。
僕は、文章を書くのはあまり得意ではないのでご考慮よろしくお願いします。
まず、僕のサッカーの経歴について自己紹介をします。

幼少期

この写真は僕が3歳くらいのときです。
僕の父親はとてもサッカーが好きで僕が生まれるとわかった時からサッカーボールを買うくらいでした。僕がサッカーを始めたのは父親の影響もあって3歳の時でした。今ではあまり記憶にはありませんがいつも父親に連れていかれてあまり乗り気ではなくフットサルコートに行っていた気がします。しかし、いざサッカーを始めると楽しくて帰りたくなかったようでした。

小学生

この写真はたぶん僕が小学校3.4年生くらいのときだと思います。写真から分かる通り僕は小学生のときから身長が小さく背の順も前から2番目ほどでした。
そんな僕がサッカーを始めたのは小学校1年生の時で、所沢市の美原サッカークラブに所属しました。初めはサッカーに行く前は泣きすぎて吐きそうになる程嫌だった記憶があります。でも、始めてしばらくするとやっぱりサッカーは楽しくて続けることが出来ました。
小学生のとき、僕の父親がコーチで小学校1年生から6年生までずっと指導してもらいました。父は意外と厳しくて練習中によく泣いていた記憶があります。
僕は小学生のときリフティングを頑張っていました。僕は、小学校1年生の時リフティング10回できるまで帰っちゃダメと父親に言われて泣きながらやった記憶があります。小学生を卒業するまでにリフティング3000回以上はできました。
僕は自分で言うのもなんですが小学生のときがサッカーの全盛期だったような気がします。小学校6年生のときに所沢市で数人選ばれて埼玉県西部地区の優秀な選手が集まるトレーニングセンターの選考会に選ばれたことがあります。
選考会は落ちましたが…。


僕は小学校2年生の時に右足にヒビが入ったことがあります。右足が包帯でぐるぐる巻きにされてしまったため、よく左足でボールを蹴っていました。その影響かわかりませんが、小学生のときから両足を使えることが自分の長所となりました。
僕は小学生のときから自分の意見を言うのが苦手な消極的な子でした。ポジションはトップ下で自分でドリブルをしたりシュートを打ったりするのではなく、味方にスルーパスを出すのが得意でした。小学生は技術の面で中学生、高校生、大学生へと大きく繋がっていきます。そのため、小学生の僕にサッカーの技術を教え込んでくれた父親にはとても感謝しています。

中学生

僕は中学生ではプレジール入間というクラブチームに所属しました。クラブチームということもあり、周りはみんな上手いし、コーチは厳しいし結構大変な時期でした。初めは、試合出れる時はありましたが、出れない時期の方が多く、また、怪我も多かったため苦しい時期が続きました。また、クラブチームということもあり、コーチや選手たちがいい人ばかりではありませんでした。でも、みんなサッカーは好きで上手いことには変わりありませんでした。僕はここで、高校生、大学生となった今にも繋がる体力の面やプレーの強度が身についたように感じます。怪我や受験勉強などもあって僕は中学校3年生のときにクラブチームをやめて地元の中学校のサッカー部に入部しました。2ヶ月くらいしかいなかったけど最後の試合には出場することが出来たのでとても充実した時間を過ごすことが出来ました。僕は小学校6年生のときに引っ越して中学生のときから周り誰1人知らない中学校に入学しました。しかも中学校ではクラブチームに所属していて部活に所属していなかったため学校では友達があまり出来ませんでした。でも、クラブチームやサッカー部ではたくさん友達ができたのでサッカーをしていれば分かり合える友達ができるなと感じました。これは僕が今もサッカーをしている理由の一つでもあります。

高校生


この写真は僕が引退した試合でもある、高校サッカー選手権大会埼玉県予選第一回戦対市立浦和高校との試合です。僕が高校を入学してから高校3年生の11月ほどまで試合をしてきて最後にやったというのもありますが最も印象に残っている試合です。この試合で僕はボランチとして出場しました。結果は2-6でありましたが、試合をしていての感想は、「こんな速くて、上手い人たちがいるのか」「めちゃくちゃ頭いいサッカーをしていてほんとに手も足も出ないな」といった感じでした。こんな強い相手と試合をするのは最初で最後のように感じました。
僕は埼玉県立川越高校に入学しました。川越高校といえば埼玉県では割と学力が高い学校で、男子校、映画『ウォーターボーイズ』のモデルとなったシンクロ、文化祭が大規模ということで有名です。文化祭には全盛期には3万人、現在でも2万人ほど来客が来るほど有名で埼玉県民なら川越高校を知らない人はいないんじゃないかなって思います。僕は川越高校に入学してから勉強面でもサッカーの面でも挫折しました。中学校までは勉強でもサッカーでも自分は結構できる方だと思っていました。しかし、高校生になりサッカー部に入ると自分より賢い人、サッカーが上手くて強くて衝撃を受けました。勉強は学年でもビリに近く、サッカーでも初めは試合に出ることが出来ませんでした。自分を他人と比べることが好きではない僕も周りがすごすぎて自分と比べてしまい、自信をなくすことが多々ありました。しかし、僕は努力出来ることに自信がありました。少しずつではありますが、勉強、サッカーともに折れずに努力し続けました。すると1年生の最後の方は左サイドバックとして試合に出ることができるようになり、2年生のときには1個上の学年の試合に左サイドバック、ボランチで試合に出れることもありました。勉強は3年間通して学年で真ん中くらいの成績しか取れませんでしたが…。僕は高校生のときに右足首の捻挫を何度もして苦しい思いをしました。現在に至るまでに合計15回くらいは怪我していると思います。特に、高校2年生の冬に3年生が引退して自分の代になったとき怪我などが重なり、試合に出れなかった時期が自分にとって辛かったです。この時期に新型コロナウイルスが流行り、3ヶ月ほど学校も部活動もできない期間がありました。新チームで上手くいってなかった僕はこの時期をチャンスと捉えました。僕はこの3ヶ月で自主練習に励みました。そして、6月くらいから学校や部活が再開しました。僕は練習の成果もあってか試合に出ることができるようになり、活躍できるようになりました。高校3年生の引退前の4ヶ月ほどは部員が団結して高校サッカー選手権に向けてトレーニングを重ねました。みんな3年間の全てをかけてこの大会に臨むため、部員の士気はとても高く自分も夢中でサッカーをしていました。僕は、今までのサッカー人生で最も楽しくて本気になった期間でもありました。結果は県大会1回戦敗退という悔しい結果でしたが、僕は川越高校でサッカー部に入ったことで素晴らしい仲間たちに出会い、自分にも自信をつけることが出来ました。

大学生

まず、僕が大学でサッカーを始めて思ったことは今まで当たり前のように練習試合や公式戦に出場することができましたが、現在対戦相手とメールなどでコンタクトを取って試合を組んだり、リーグ戦に出場するために様々な条件があることを知りました。それらを全て学生の選手やマネージャーが行わなければなりません。小中高とそのような仕事を選手たちのために行ってくれた大人たちにはとても感謝しています。また、同様に現在試合の運営や試合の手配、OBとのコンタクトなど様々なことを行なっている3年生には本当に感謝しています。いつもありがとうございます。来年は自分たちがこのような事を行い、後輩たちに受け継いでいく必要があると感じました。また、大学に入りマネージャーの偉大さを感じました。僕は大学に入るまでマネージャーがいたことがありませんでした。なので大学に入ってドリンク作りや洗濯、練習の準備など様々な仕事をしていただきとても助かっています。マネージャーの存在が選手たちのモチベーションアップになっています。本当にいつもありがとうございます。
僕は大学1年生の時から試合に出させてもらっています。小中高とボランチやトップ下をやってきた僕にとってはフォワードというポジションが初めてで慣れないところはあったけど少しはよくなってきたかな?と思います。僕に足りていないのは得点力や孤立しても自分で打開する突破力だと思います。もっと貪欲に勝利に向かっていかなければいけないと感じています。普段はあまり声を出さない僕は行動やプレーでお手本となれる存在にならなければならないと思っています。農工大サッカー部は近年、年を重ねるごとに確実にレベルアップしていると思います。でも、10月か11月に3年生が引退してしまうと人数がとても少なくなってしまい、試合をするのもやっとで紅白戦をすることもできません。このような状況は今の2年生で解決しなければなりません。また、3年生が引退してしまった後、チームの戦力にもみんな不安な点があると思います。その時は1.2年生一団となって農工大サッカー部をより強く、これからも受け継いでいけるように頑張ります。

最後に

まだまだ農工大サッカー部は成長段階です。これから東京都大学サッカーリーグのチャレンジリーグで勝ち上がり、2部昇格をすることを目標に日々努力していきます!これからもっと強くて負けない農工大サッカー部になるように頑張りますので是非応援よろしくお願いします!


次回はサッカー部一のイケメンエース!石井悠貴です!お楽しみに!

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