痴漢冤罪の問題で的外れな意見が出る理由
snsで痴漢冤罪の問題が取り上げられ議論が紛糾していた。最近この手の論争が多いように見えるが、snsにいる人達の先鋭化が本当に進んでしまってるのかもしれない。適切な距離を取るよう心がける事の必要性を実感する。
この論争の中で多くの人から出てきた意見があった。それは、
「痴漢冤罪をなくしたいのであれば痴漢そのものをなくすべきだ!痴漢がなくなれば冤罪だって起きない!」
というものである。
最初聞いたとき筆者の感想は「???」というであった。冤罪をなくす為の方法としてあまりにも的外れと感じたからだ。実際この主張には多くの人から批判やツッコミが殺到していた。
一方でこうした意見を主張し絶賛していた人達は悪意があるという訳でもなく「そうするのが当然だ」という認識でいるようでもあった。痴漢を始めとした性加害の問題ではこの様な的外れな意見が絶えないのだが、どうしてこうなってしまうのか考えてみようと思う。
・見えているものが違う?
痴漢自体をなくせばいいという人達の考えは恐らくこんな感じだろう。
対して批判する人たちの考えはおおよそ以下の通りである。
という訳で、そもそもの着眼点が双方全然違う訳である。前者はどちらかと言うと痴漢の問題をマナーやモラルの面で捉えていて、後者は社会の制度や風潮の面で話をしているのだ。
これは同じく論争になっている性的同意でも同じことが言える。「後で同意がなかったと訴えられたらどうするのか」という話に対して「信用関係を作ればいいだけ」「心配ならしなければいいじゃないか」という反論をよく見かけるのだが、法律や社会制度の問題を訴えている事に対して「信用関係を作らずコミュニケーションもとらずに行為に及ぶのがよくない、まず自分が行動を改めろ」とやはりマナーやモラルの話として捉えている人が多いので色々と話がおかしくなるのである。
・問題点
上記の理屈を見ると「痴漢自体をなくせばいい」というは一見最もらしく聞こえるかもしれない。
しかしこれの大きな問題は、「女性側が悪意(金目的や嫌がらせ等)を持って被害を訴える」という状況を想定していない事、そして根拠なく人を痴漢として訴えることが、人を犯罪者扱いするという重大な人権侵害であることを認識していないことにある。
要は痴漢の申告があった時に
「女性がやましい動機で被害を訴える筈がない」「女性から男性への暴力などありえない」
と無意識に考えてしまい、冤罪が疑われる場面でも
「痴漢はされていたが人違いをしてしまった」
「訴えられた側が誤解を招くような行為をしていた」
とある種正当化するようなロジックを作ってしまう。女性側が純粋に悪事を働く事を想像していないのだ。
・論争が絶えない原因
で、なぜこんなズレが起きるといえば、やはり性加害の被害者=女性という前提でものを捉えている人が多いからではなかろうか。今日の世の中ではジェンダーバイアスをなくそうという運動が盛んであるが、正に性加害に関してジェンダーバイアスが根強く残っている訳である。
また、被害者意識の強い女性には男性が女性を上回って被害者になることが世界が崩壊するレベルの一大事であり、あってはならない事として捉えている人が少なくない。彼女らは自分達の世界観を守る為に何がなんでも男性の被害を否定しようとするので、結論ありきでズレた主張をしがちになる。
もう一つ大きな原因となるのは性というデリケートな部分の問題である為に、議論の過程でどうしても皆感情的になってしまうことにある。
痴漢自体をなくせといった性暴力の取り締まりを訴える人からすれば「性暴力という悍ましい犯罪が野放しになっているのだから厳しく取り締まれ!被害者を守れ!と考えが強くあり、あくまで善意で動いている。故に「性暴力を取り締まろうとしているのに何故か反発している人達がいる!おかしい!ありえない!キモい!」と怒りや不快感が出がちになる。
逆に取り締まりのやり方を批判する人からすれば「こんな滅茶苦茶な取り締まりを続けていたら社会や秩序が崩壊する!」という懸念があり、それを止めたいという気持ちがある。なので「社会秩序の崩壊を止めたいのに滅茶苦茶なこと言って一方的な取り締まりを正当化しようとする!アホ!クズ!」と怒りがヒートアップしやすくなる。
着眼点が盛大にずれている状態でお互いが相手を極悪人扱いしているために収拾がつかなくなっている訳である。特に今回は「痴漢冤罪の被害に比べたら痴漢されるだけなんて大したことない」という反論が出た事もあって、余計におかしな話になっている訳である。
こうした状況を見ると、性被害の話についてはsnsの罵り合いではなくちゃんとリアルで話しあう機会をもっと作った方がいいように見える。その方が今よりは建設的な話が出来て、不満を溜め込まなくていいと思うからだ。