マーティン・マックスフライの憂鬱・第2章 見知らぬ教室
週の始まりの月曜日、登校してまずロッカーのダイヤルでつまづいた。
廊下の自分のロッカーの解除ナンバーは、敬愛するミュージシャン・カートコバーンの誕生日にしてある。
それがまず違った。
丁度、バンド仲間のアレックスが通りがかったので、つい、いつもの調子で声をかけた。
「今日の練習・・、いや、それはいいんだ。丁度いい所へ来てくれた。ロッカーが開かないんだ・・、もしかして僕の番号知ってないか?」
アレックスの怪訝な表情を見て気が付いた。
そうか、こっちの僕はギターを持ってない。という事はアレックスは同じバンドのメンバーではないんだ・・
そしてその推察通り、アレックスは言った。
「そんな事、オレに聞かれてもな・・、えっと・・、数学の教室で一緒だったっけ?」と。
「あ、いや、誰かがいたずらでロッカーのカギを勝手に換えたみたいでさ。困ってるんだ」
「ふーん。用務員室に行って相談してみたらどうだい?」
”こっちの世界ではバンド仲間でもなければ、知り合いですらないのか・・?”
以前の世界でのアレックスとの関係を思い出し、落胆しつつ用務員室へ向かった。
さっきのアレックスへの説明と同じに、誰かのいたずらだと嘘をついた。
用務員は僕の顔を知っていたらしく、疑う事なく金ノコ片手にロッカーへ同行してくれた。
当然、自室と同様、ロッカーの中身も変化していた。教科書類を全部リュックに押し込んでロッカーを後にしたけれど、問題はこの先も続くのだと判っていた。
いつもの自分の教室へと向かいドアを開いて、教壇の先生と着席している生徒全員からの視線をくらった。
自分の机と思っていたそこには、他の誰かが座っていた。
つまりこの教室は、外れって事だ・・
どうする?、誰かに聞くのか?「僕の教室はどこだったっけ?」と?
記憶喪失にでもなったと、そう言い訳すればいいのか。
仕方がないので、順番に教室のドアを開いた。
怪訝な視線を受けたなら、「あ、間違えた」と言ってドアを閉めればいいんだ。
何度目かに開いたドアで、教師からの「遅刻だぞ。マックスフライ」という冷ややかな声をくらった。
どうやら、ここがこの世界での、この時間の僕の教室らしい。
周囲の生徒が拡げた教科書を見て、どの教科であるのかを判断し、リュックからその教科書を取り出した。
歴史か・・、でも教師は以前の世界の歴史の教師とは違う顔だった。
そして、この教室は進学重点クラスだった。
”そうか、この世界での僕は、勉強が得意なんだ・・”
さりげなく教室を見渡すと、半分は知った顔で、半分はそうではなかった。
知った顔にしても、見かけた事があるという程度で、いつも一緒に遊んでいた面子でもなければ、体育のバスケ対抗戦で相手チームとしてプレイした面子とも違った。
そして授業の内容は、チンプンカンプンだった。
一度だけ、先生から指名され、その質問には「解りません」としか答えられなかった。
先生の発した「珍しいな」という一言で、こっちの世界の僕は『出来るヤツ』だったのだと察せられた。
昔、深夜にTVで放映されていた映画を観た。
それは全ての人間が宇宙人に体を乗っ取られ、主人公一人だけが、その違和感の中で慄くというストーリーだった。
今の僕が、正にそれだ。
時折、こっちの世界での知った顔、つまり以前からの友人が話しかけてきた
いつもの軽口で応じたつもりだったけれど、どうしても話の内容やノリに若干の食い違いが生じ、その度に「今日のお前、ちょっとおかしいな?」と、不審そうな視線を向けられる。
それ以上にプレッシャーだったのは、知らないクラスメートから話しかけられる事だった。
こっちは知らなくとも、向こうはマーティン・マックスを知っており、友人のつもりで、いつもの話題を振って来るのだ。
無難な返答をし、どうにも追い詰められそうになった時は「ちょっと気分が悪くて・・」と、話題の中断を促し、授業終了のベルが鳴る度に、真っ先に教室を出て、トイレの個室へと逃げ込んだ。
「こいつはオレたちの知っているマーティン・マックスフライなんかじゃないぞ!」
誰かが僕の襟首をつかんでそう叫び出したりしないかと、ビクビクしながら学校での時間を過ごした。
考えてみると、僕がこの世界でもジェニーと付き合えている、というのは奇跡なのかもしれない。
ランチタイムにカフェテリアで、そのジェニーの姿を見つけ駆け寄った。
大洋に漂う小舟が、陸地を発見した時の気分だった。
以前の世界で付き合っていたジェニーとは違う、だけどこの世界においては、一番長く時間を共有し、そしてテントの中で抱き合った一番深い関係の人間なのだから。
「あなた、本当に昨日からおかしいわよね・・」
「色々あってさ。ほら、僕ら思春期だし。ところで、放課後付き合って欲しい場所があるんだ」
「なあに?」
「どこかの教室で、バンドが練習をしているだろ?」
しているはずだ。少なくとも以前の世界では、僕らともう1グループがそれを行っていた。
「それを、ちょっと見学してみたくってさ」
「マーティン!、あなた本気なのね?!」
ジェニーは素っ頓狂な声を上げた。
「地球の磁場が狂ってるんだわ。それかオゾンホールのせいね。みんなおかしくなるのよ!」
「ジェニー、僕はおかしくなんかなっていないよ。ほんの見学だけさ。この前MTVですごいギターテクを見てさ。ちょっと興味を持ったんだよ」
「でも、あなた。キャンプの時『将来はギターで勝負したい』って・・」
「うん、まあ、可能性としてね。そんなに本気じゃないさ」
「そう・・、あんまり夢見過ぎちゃダメよ。あなただって『父さんみたいな作家なんて特別な存在』って言ってたじゃない?、ミュージシャンだって、かなり特別だわ」
「うん、だから見学するだけだって」
「いいわ、マーティン。あなたが本気で音楽がやりたいのなら、私は応援するわよ」
こっちのジェニーは少し保守的だと感じていたけれど、やっぱり僕の彼女だ。
最終的には、僕の夢を応援してくれる。僕の味方でいてくれるんだ。
本当に、以前の世界でも、この世界でも、ジェニーと付き合えているこの僕は、世界一の、否、全時空一のラッキーガイだ。
バンドの練習に使われていた教室は、前の世界と同じ区画にあった。
”ジェニーに案内してもらう必要はなかったな・・”
余計な疑念を持たれてしまった事を、少しばかり悔やんだが、どの道ジェニーがこの学校での一番の頼みの綱である事には変わりがないのだ。
それに何といっても、彼女と少しでも多くの時間を過ごしたかった。例えそれが僕の知っているジェニーとは幾分、違っていたとしても。
そして練習しているバンドも、1つのバンドが一部屋を占有するだけだった。
こちらの世界には、僕が所属するバンドは存在しないのだから、当然か。
そして、このもう一組も、前の世界の僕の知る顔ぶれとは少し違っていた。
さっきまでの各教室での授業と同じに、4人編成のバンドの、半分の2人が知った顔、2人が知らない顔だった。
”一体、どうなってやがるんだ・・”
ライバルバンドの知らないメンバー2人も、各教科の教室で見覚えのない半数の顔ぶれも、単に僕が憶えていないだけで、以前の世界にも同じ顔ぶれとして存在していたのだろうか。
バンドの邪魔をしないよう教室には入らずに、ドアの外から演奏を聴き、彼らのステップと躍る指を眺めた。
バンドメンバーが、時折ちらっと僕とジェニーへ一瞥をよこした。
もし、今、「僕にも少し演奏させてくれないか?」と提案したなら、受け入れてくれるだろうか。
このギタリストよりは、僕の方がテクは上だ。
「うちのバンドに入ってくれ!」と、スカウトされたりしないだろうか。
いや、そんな図々しい事はせずに、僕のバンドの本来の面子に「バンドを組まないか?」と持ち掛けるべきなんだろうか。以前の世界では、僕がバンドのリーダーだった。結成の為に4人の内、3人に声を掛けたのも僕だ。
アレックスとは朝にロッカーで出会った。他のメンバーも探し出して、再び、否、彼らにとっては初めてか・・、とにかくその4人を集めるべきなんだろうか。或いは全く新たなメンバーを募るべきなのだろうか。
彼らの演奏を聴きながら、そんな想いを巡らし、同時に自分のバンドを起ち上げた時の事を思い出していた。
楽器を揃えるその資金調達の為に、夏休みに5人で洗車のアルバイトをした。
全員の稼ぎをひとまとめにして、買う時も5人揃って楽器店に足を運んだのだった。
ロイの担当するドラムが一番高価なので、金額の配分で揉めたんだ。
キーボードのアレックスが「オレは自前のキーボードがあるのに、何でバイトしなきゃならなかったんだ!」と抗議したので、将来、新しいキーボードを買うための資金としていくらか渡したんだっけ・・
懐かしいな・・、でもそのバンドはこの世界にはなく、5人で練習した時間も、オーディションで落選しお互い慰め合ったあの時間も、ここには存在しないんだ。
それどころか、メンバーとは知り合いですらなくなっている・・
いや、知り合いですらないどころか、今の所、学内でロイの姿を全く見かけない。まさかこの世界には存在しないって事なのか・・?
彼の体と精神は、時空の狭間に吸い込まれたのだろうか。
突き詰めると狂気に至りそうなその考えに、ブレーキをかけた。
「もう、気が済んだよ・・、行こう」
ジェニーにそう告げると、彼女は何も言わずに、身を翻した僕の後をついて来た。
聞こえ来る音楽を背に、決意していた。
”今週末、ギターとスケードボードを買いに行こう。本当の僕に戻るんだ。絶対にそうしなくっちゃ・・”
そして、”まだ出会えていないだけであって、ロイも他の友達も学校のどこか、いや、この世界のどこかには存在するはずなのだ”と、そう自答した。
「おっと、未来の金メダリストのお出ましだぜ」
太鼓腹、顔の赤らんだ髭モジャの、いかにも右派って感じの店員が声をかけてきた。
僕が、ウッドロー射撃場へ練習に行くことを知ると、父さんは「一緒に行きたいところだが、週末はちょっと用事があるな・・」と、同行できない事を残念がった。
「いつも一緒に行ってたっけ?」
そう尋ねたかったけれど、不審に思われるので、その言葉は飲み込んだ。
「じきに大会だな。調子はどうだ?」
知らない顔から、知らない内容の話をされるのは、この一週間で何とか慣れたつもりだったけれど、やはりそのストレスはゼロにはならない。
クレー射撃。
これまでの僕の知らない世界だ。きっと過去を書き換えてなかったなら、一生縁がなかったろう。
TVドラマで南米のマフィアのボスが、クレー射撃をしながら部下からの報告を受ける。
僕とクレー射撃との接点は、そのTVドラマの一場面を見た、というだけだった。
前の人生では、友人内で射撃場でガンを撃った経験のある奴は少なかった。おそらく1人だけだったと憶えている。
おそらく、こっちの世界でもそんなものだろう。僕自身もショットガンはおろかハンドガンを撃った経験もない。
今日、初めて、その射撃場という領域に足を踏み入れたのだ。
カウンターに掲示されていた料金表は、やはり高額だった。以前の自分なら、それを見ただけで回れ右していたはずだ。
弾はディスカウントストアでまとめ買いした方が安上がりらしかったけれど、カウンターで販売している割高なものを、そのまま購入した。
この一週間ばかりで、早くも金銭感覚が大振りになっている自分に気が付いた。
この週末に備えて、ショットガンの撃ち方が説明してある書物を、学校の図書館で探し求めた。
予想はしていたが、役立ちそうな記述には辿り着けなかったし、何より実地で撃ってみなくては、やはり感覚はつかめないだろう。
そう思って、自室で装填を空にした状態でショットガンを何度も構え、トリガーの感覚をつかむべく、可能な限り反復練習してみた。
よっぽど装薬して、人気のないどこかで発砲してみたかったけれど、さすがにそれは騒ぎになりそうなので止めておいた。
受付を済ませ、射撃用ベストとイヤーマフを身に着ける。
プーラーと呼ばれる係員に、さっき受付でもらったスコア表を手渡した。
僕のコールで、そのプーラーがクレーの発射ボタンを押すのだ。
射撃ポジションに立った時、背後にさっきの店員や、他の何人かの興味深そうな視線を感じて、やりづらかった。
注目されるのは無理もない。どうやらこの世界の僕は大会に出場するほどの、しかも度々入賞する程のクレー射撃の名人らしいのだから。
ゴクリと唾を飲み込んで、「PULL!」と小さく声を発した。
クレー皿が、右方向から中央奥へと飛んで行く。
それを狙って、引き金を引いた。
予想通り、まず反動がキツかった。
それに備えて、よっぽど体勢を維持する為に力んでいたはずなのだが、簡単によろめいて後ずさりするはめになった。
飛び去るクレー皿1投につき、2発まで発射しても良いルールだ。
そして1つのポジションでクレー皿は5枚発射され、その後、隣のポジションへと移動し、そこでもクレー皿が5投される。順次ポジションを移り5番目のポジションで5枚のクレー皿への射撃を最後に、1セットが終了する。
つまり5ポジション×5枚で、25枚のクレー皿が宙に放たれる。
そして名人は25発の射撃で全てのクレー皿を破片へと変え、下手な者は最大の50発を弾丸を消費することになる。もちろん50発発射しても、それで25枚全てに命中しないケースも多い。
そして1セットが終わった時、僕は25発しか弾を使っていなかった。
しかし、それは全てを命中させたからではない。よろめきのせいで、とても2発目を撃つ余裕がなかったからだ。
慣れたつもりのショットガンの重量も、それを支え続けるだけで精一杯だった。最初のポジションを終えた時点で、もう腕に力が入らなかった。クレー皿に狙いをつけるなんてとても不可能だ。
結果、投じられたクレー皿25枚に対し、割れた皿はたった4枚だった。
初めての射撃に興奮もしていたけれど、結果を恥じ入る気持ちが上回った。
射撃ブースからホールに戻るのは気が進まなかったけれど、そうしない訳にもいかない。
「おい!、一体どうしたってんだ?!」
予想通りの言葉が投げかけられた。
「スランプにしてもひどすぎるぜ?、まるで初めてやったみたいだ」
正にその通りなのだ。
「実は、転んで肘を打っちゃってさ。銃を支えるのも辛いんだ・・」
そう予め用意していた言い訳を口にした。
「何てこった。そいつは災難だったな」
「なるほど、それで1発しか撃てなかったんだな」
ギャラリーたちの、驚きの表情が納得に変わり、そこに安堵が混じっているのを見て取った。
「まあ、大会まではまだ間がある。いづれ痛みもとれて本調子に戻るさ」
「ああ、オレたちのマーティン坊やなら優勝確実だ!」
「でも、ちょっと心配だよな」
「あ、うん。次の大会での入賞はちょっと難しいかも。あんまり期待しないで欲しいな・・」
腕をこれ以上痛めないようこの1セットで切り上げると宣言して、これ以上ボロを出さないよう、素早く帰り支度をしたかった。
けれど、ショットガンというのは、ケースにしまうまでに銃身のケアが必要であったりと、結構な時間が必要な代物なのだ。
まだ熱い銃身に気を付けながら、焦った気持ちでショットガンの取り扱いに四苦八苦していると、カウンターの太鼓腹男が声をかけてきた。
「親父さんは今度の集会には参加するんだよな?」
「え?、集会・・」
「全米ライフル協会のさ。決まってるだろ?」
「あ、ああ、そうだよね。えっと、父さんは何て言ってたかな・・、帰ったら聞いてみるよ」
あやうく「父さんは全米ライフル協会の会員なの!」と驚嘆の声を張り上げる所だった。
ギャラリーの一人が言葉を継いだ。
「前回も前々回も休んでるから、次こそは参加して欲しいんだがな。オレの口利きで入会した手前もあるし」
情報を得たくて、尋ねてみた。
「えっと・・、いつ協会に誘ってくれたの?、父さんをさ」
太鼓腹と3人のギャラリーが顔を見合わせて、記憶を辿り始めたようだった。
「あれは、いつだったかな?」
「確か、7~8年位前じゃなかったか?」
「ジョージのヤツが初めてここに来た時に、すぐ勧誘したんだよな?」
「ああ、最初はへっぴり腰だったよな。それが今じゃここでトップクラスの射撃の腕前だ」
「しかも口利きしたオレを追い抜いて、支部長様なんだからな」
”支部長だって?!!、父さんが全米ライフル協会の?!”
郡の支部長って事なんだろうか?、それとも州の・・?、否、単に区の支部長なのかもしれない。そうであって欲しい・・
僕の知っている父さんは、支持政党は持たなかったけれど、どちらかというとリベラルだった。レーガンが当選した時はがっくりしていたと憶えている。
それがこの世界では、全米ライフル協会の支部長なんだ。という事はやはり共和党支持なんだろうか。
父さんが政治的指向を変えたのが、自分が過去をかえたせいだとは思いたくなかった。が、やはりそうなのだろう。
じゃあ、このショットガン一丁だけでなく、父さんの競技用ショットガンが家のどこかにあるって事なのか?、いや、それ以外にもハンドガンが父さんの引き出しの中に・・?
「オレたちが親父に吹き込んでやったんだぜ。アメリカ人の魂ってやつをな」
一人が得意げにそう語った。
確かに、この連中は「同性愛者なんざ、このショットガンでぶち抜いてやる!」って感じの人間たちだ。
「親子揃って顔を出してくれよ」
”え・・・”
真っ白だった頭の中が、更に白くなった。体全てが色を失って、消え去りそうに感じた。
”僕もそうなのか・・?”
怖くてとても尋ねられなかった。
高校生にもなると政治的な運動も盛んになってくる。
学内では2大政党、それぞれの支持を熱心に訴える者がおり、活動への勧誘もある。
そして、ここカリフォルニア州は当然ながら、民主党優位だ。
僕自身も友人の銃所持の厳格化の運動を手伝って以来、民主党支持に傾き始めていた。少なくともこの自分、前の世界から来たこの自分は・・
クレー射撃をやっていると聞いた時点で気づくべきだった。
こっちの世界の僕は、銃規制には反対なんだ・・
その後、どうやって運転して自宅に帰り着いたのか。全く憶えていなかった。
夜、夕食の後でウッドロー射撃場のオーナーから僕宛てに電話があった。
「大会までには復調できそうなんだろう?、もう君の名前の入ったチラシを刷ってるんだ。オリンピック候補生の通う射撃場なんだって」
そんな受話器の向こうから聞こえる野太い声を、虚ろに聞いていた。