人とイルカの星
☆ プロローグ ☆
人類が自らの行いにより滅亡に至った時、神は人の魂をイルカへと移しかえた。
広大な海の中は、果てしなく自由で、おだやかで、人々はその心の奥底に持っていた優しい気持ちを取り戻し、永く幸せに暮らした。
しかしそのままでいては、本来の目的である外宇宙への進出が果たせないので、神は地上が浄化するのを待って、再び魂の存在を地上へ上げる事と決めた。
その体は前回同様、土から創られ、その姿も前回同様、神に似たものとされた。
「今度こそは期待に応えてくれるだろうか、それともまた愚かな争いを繰り返して、死滅の道を歩むだろうか・・」
神は期待と不安の入り交じり合った気持ちで、何千、何万の魂を人へと移しかえ、それと共に、同じ数のイルカの屍(かばね)が海底深くへと沈んでいった。
こうして、地上に再び人類が誕生した。
☆ 第一章・海辺の研究所 ☆
「タッチ&ゴー」
スクールバスのタラップから玄関へと全力で駆け込んだマックスは、背中のリュックを素早くはずすと、それをキッチンへとつづく廊下の上にカーリングのストーンのようにすべらせた。
中身はいつもと同じ量の教科書、いつもと同じタイミング、同じ勢いで投げたので、それがテーブルの下に収まるのを確認する必要はなかった。
実際、マックスはリュックが手から離れるのと同時にきびすを返し、玄関を背に走り出していた。
後ろから母親の声がかかった。
「お待ちマックス! またあのいかれ博士のところにいくんじゃないでしょうね?!」
マックスは足の動きを止めずに、首だけで振り向いて答えた。
「違うよ、マルロのところ! 約束してるんだよ!」
もちろんそれは真っ赤な嘘で、表の通りまで出るとマックスは左へと折れた。それはマルロの家とは反対の、博士の『研究所』のある海岸の方角だ。
道の端ではシロツメクサが小さな顔を並べており、海岸に近づくにつれ、それがハマナスの赤紫色へと変わっていった。
一瞬だけ早く、鼻腔に磯の香が届くと、角を曲がった先には大海原が視界いっぱいに広がった。
雲は天空の彼方に千々にあるばかりで、太陽はそのフォトンの粒子を存分に降り注がせている。
地表に染み込んだ滋味は、草木を伸ばし、それを食む生き物を生かし、水の循環を通じて届けられる命の素子は海に棲む生命の糧ともなる。
この分でいくとマックスの肌も、夏休みを待たずに真っ赤に染まるだろう。
海岸沿いの道は車の往来もまばらで、マックスは暑さも、車道のアップダウンもものともせず、ぐんぐん歩調を早めていった。
少年の身の内には、無尽蔵に活力の湧き出す小さなモーターが内蔵されている。
海面からの反射で、どんなに目を細めても、まぶたの隙間から光の矢が突き刺さる。
炎天下の下、ハナバチはガールスカウトのチャリティークッキーよろしく、ひとつひとつの花弁の門戸を叩いている。
軽快なストライドと共に、ポケットのコインがチャリンチャリンと音をたてる。今日は博士の所で喉を潤せるので、このコインは使わないで済むだろう。
沖を走る一隻の漁船の上には海鳥が飛び交い、漁師がたわむれに投げ上げる雑魚を器用にキャッチする。
灌木のしげみで見つけたクイナの巣は先週の大風の日の後に跡形もなくなっていた。もうどこかで新しく卵を産みなおしているだろうか。
クラスの誰かが言っていた「たんぽぽの綿毛が耳に入ったら、一生音が聞こえなくなる」って。それは嘘だから気にしなくても大丈夫。
世界はあちこちに宝箱を秘めており、子供たちはその手慣れた探索者だった。どんな箱も開けられる万能の鍵は、生まれながらにその手の中に。
体いっぱいに吹き付ける海風は、海のむこうの大陸からの息吹まで運んでくるように思えた。
自転車が修理から戻ったら、また仲間たちと岬の天文台まで遠乗りに出かけよう。来年、中学校に上がったら、隣の街まで電車で行く計画はみんな忘れてないだろうか。
少年は、いつかは州を超え、国境を超え、この星の反対側の大陸に身を置くこともできるのだった。阻むものは何もない。ただ初めてのフライトチケットの予約に、少し手間取るだけだ。
陽の光と海風が、少年の耳元に同じひとつの言葉を届ける。
〝キ・ミ・ニ・サ・チ・ア・レ〟
自然界に在る全てのエレメントが、子供たちの味方をしている。
この世に生れ落ちて、そのあとの十数年の子供のみぎりの日々。
魂の残照の、その響きに覆われる日々。
大人の仮面が張り付く前の子供時代。
本当の自分自身の日々。
大人になっても、瞳を見交わすだけで、その奥底にあるものまで瞬時にわかりあえた、あの感覚をもう一度取り戻すことはできるだろうか。
大人になっても、夜、ベッドに横たわり、明日に何が起こるのかを楽しみに思いながら目を閉じる。あの柔らかな期待の予感を、もう一度味わうことはできるだろうか。
もちろんできるに決まってる。
この物質の世界を味わいつくすための、肉体の宮(みや)を持つ者なら誰にでも。
自分がそこに宿る魂のエッセンスであると感じ取れる者なら誰にでも。
だから、この世界に生きとし生ける者なら誰にでも、それができるに決まってる。
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もう何度目かの来訪で勝手の分かっているキッチンの冷蔵庫から、氷のアイストレーを取り出し、同じく勝手を知る食器棚から2つ取り出したグラスのその片方に氷をしこたまぶち込んだ。
「博士は本当に氷は要らないの?」
マックスと作業を手分けし、野草の葉を刻んでカゴ網に入れている博士は、おもむろに首を横に振った。
こんな暑い日に、飲み物に氷を入れないなんて信じられない思いだ。
「年寄りの冷や水って言葉があってさ」
ポットに煮出された本日のフレーバーはレモングラス。
それがレモンとは全く別の野草であるのに、レモンの香りを醸すのを、この『研究所』に来て初めて知った。
子供は大人の年齢を測りかねるものだし、あまり興味も持たないものだが、博士は立ち振る舞いも機敏で、年寄りというにはまだ早いように気がした。
〝校長先生よりは年上なんじゃないかな・・?〟
「すべての物質・エネルギーは集中から拡散へと、秩序からカオスへと向かってゆき、熱は時間の経過と共に散っていく。年月と共に熱を失うのは人間も一緒なんだよ」
カオスから秩序を保つ力が、この宇宙・この世界を支え、生き物の息吹はその狭間に置かれているのだ。
キッチンの棚にはビン詰めされた野草の葉が揃いの容器に収められ、シールでラベリングされて整然と並べられていた。それらのほぼ全ては、博士自身が自宅の庭や、その周辺を巡って摘んできたものだった。
玄関のテラスの軒下には、何かの野草が陰干しのために吊るされていた。明日か明後日には、ビンに入る大きさに刻まれて、新たに隊列に加わることになるだろう。
郊外の外れにある博士のこの住まいは普通の家屋だったけれど、書斎の机の上に無造作に置かれたネームプレートに〈Dr〉の学位称号を見つけたマックスが「博士の住んでいる所なら研究所のはずだ」と、勝手にそう呼んでいるのだった。
この家に何か他と違う特徴があるとするなら、丸々一部屋、本棚で埋まった書庫があるのと、リビングルームの一画に設けられたマホガニー材の陳列ケースの中に並ぶ、クジラやイルカの歯の標本の数々だった。
そこには最も小型のネズミイルカから、中型のアカボウクジラ・ツチクジラ・ゴンドウクジラ、大型のマッコウクジラまで、とりどり種類の歯が並んでおり、ケースに収まらないヒゲクジラ類の大きなヒゲは、壁面にフックで固定されていた。
その壁の全面を覆わんばかりに長く伸びたザトウクジラのヒゲも興味深かったが、何といってもその上に鎮座在(ま)すイッカクの角こそが、コレクションの中でひときわの異彩を放っていた。
イッカクは北極海・北緯70度以北にのみ棲息する中型のクジラの一種で、白地に黒の斑点を持ち、オスの頭からは長い一本の角が突き出している。
一見すると角のように見えるが、実は切歯の1本が長く伸び、表皮を突き破って飛び出したもので、長い間、どのような用途でこれほどの長さに進化したのかが、動物学者たちの議論の俎上に横たわっていた。
これまでの有力な説は2つ。
ひとつは海面を覆う流氷を粉砕して、呼吸の為に必要な通り道を確保するというもの。
もうひとつはメスをめぐるオス同士の争いに使うのではないか、というもの。
しかし、氷を割る姿が観察されたこともなく、オスの体に争いによるキズもないことから、どちらの説も正解にはリーチしていなかった。
近年、牙の表面の無数に空いた小さな孔の中に感覚器官がある事が発見され、それ以降、水圧や水質を感知するセンサーであるという説が有力になっている。それにした所で、なぜここまでの長さが必要なのか、なぜ他の部位でなく牙であるのか、という疑問は残る。
ご多分にもれず、というべきだろうか、この角(牙)には神秘の霊力や薬効が宿ると信じた迷信家のために、彼らは乱獲され、一時は絶滅の一歩手前に追い詰められた。
国際法で保護されるようになって以降、イヌイット(エスキモー)の民だけがイッカクの狩猟を許されており、その狩猟数の上限も設けられている。もっとも、イヌイットは上限を設けずとも、彼らが家族を養える数を越えて狩りをすることはなかった。
さすがに現代において、イッカクの角(牙)に霊力が宿ると信じる者はいないはずであるし、密猟の憂き目にあっている他の動物と比べれば、イッカクへの被害はほぼないと言っていいはずだ。それでも大枚を投じる好事家が絶滅しない限りは、密猟の可能性はゼロにはならないだろう。
博士は、密輸ブローカーのお得意様である珍品コレクターだろうか?
博士の名前はジョージ・リリス。
クジラやイルカといった海棲哺乳類の研究家だ。
博士がまだ現役の研究者だった頃、フィールド調査でイヌイットの村に赴き、しばらく彼らと生活を共にした。お別れの時に友情の証として受け取ったのが、このイッカクの角だった。
持ち帰る際、木箱に丁寧に梱包して、税関への申請もしっかり行ったが、モノがモノであるだけに案の定、チェックが入った。
その当時は博士の逗留したその集落に電話回線は一本しかなく、家主はアザラシを狩る為に家を空けており、連絡を取るのに時間を要したので、フライトは2便遅れることとなった。
職務に忠実、かつ抜け目の無い通関職員は、その電話番号が確かにイヌイットの村のものであること、確かにプレゼントされたものであるということ、それらの裏付けを取ることを怠らず、博士も忍耐強くそれに付き合った。
今では、どこのイヌイットの集落でも、よほどの頑固な年輩者でないかぎり、みな携帯電話を持っており、電話状況も良好だそうだ。
ネコが新しく訪れた家屋のすみずみまで探るように、マックスもこの『研究所』を最初に訪れたその日に、入ってもかまわない部屋は隅々までまわり尽くしていた。
書庫の最下段の棚にはいくつかのホコリを被った段ボールが置かれ、中には観測に用いるらしい機器が、無造作に放り込まれていた。
そのひとつ上の棚にシリーズの図鑑を見つけ、それらの背表紙に貼り付けられたキャラクターモノのシールを見て、「ぼく以外にも子供が来ているの?」とたずねた。
「それは私の息子のものだよ。シールを貼ったのも息子の仕業だ」
その子は、今はもう大きくなってベルギーにいるのだ、と博士はそう告げた。
「ベルギーってヨーロッパ?」
「そう、フランスの隣の国だね。もうむこうで結婚して子供もいるよ」
マックスが卓上の〈Dr〉のプレートを見つけ、「博士なの?」とたずねた時、「そうだよ。もう一線じゃないんだが」と博士は答えた。
『イッセン』の意味は何となくしか判らなかったけれど、少しさびしそうに聞こえたので、その意味についてたずねる事はしなかった。
ただマックスには「今は一人になってしまった」と言っているように感じられた。
実際、博士の生業は執筆・寄稿だったので、電話回線を通じて、仕事はほぼ自宅に居たままで事が足り、外で人に会うことも少なだった。
この日も博士には仕上げるべき原稿があったので、マックスはホコリっぽい図鑑1冊と、子供でも読めそうな本、あともう1冊を書庫から選び出し、リビングのソファに陣取った。
結局、図鑑は学校にある新しいものとは見劣りがしたし、もう1冊もタイトルの『超新星』という言葉に興味をおぼえてチョイスしたのだったけれど、子供の理解に足るものではなかったので、早々にページを閉じた。
その後、自由に使ってもよいとリビングに置かれているノートPCを起動し、いつものようにブックマークされたゲームサイトにログインし、カードゲームとレーシングゲームとに興じた。
それを奇跡的に20分で切り上げると、次に『子供の為の職業紹介』のサイトにアクセスした。
「いいですかみなさん! 他のクラスでは『海賊王やXメンのメンバーになりたい』などとふざけた事を書いた生徒がいますが、みなさんはもう5年生なんですから、そんな事を書いてはいけません! このサイトのリストにある職業の中から、まじめに将来なりたい職業、興味のある職業を3つ選んで記入するんですよ!」
担任のコウザリー先生は、そう声を張り上げた。
誰かが、冗談とも本気ともつかぬトーンでたずねた。
「ポケモントレーナーもダメですか?」
コウザリー先生は強く、鋭く云い放った。
「もちろんダメです!!」
教室内に、何人かの落胆のため息が響いた。
「それは、学校の宿題なのかな?」
作業が一段落したらしく、博士が背後から声をかけてきた。
マックスはモニターから目を離さぬまま答えた。
「うん、将来なりたい職業を選んで発表しなきゃいけないんだ。先生に提出するのはいいケド、みんなの前で発表なんてしなくてもいいのにね」
発表する職業によっては、からかい好きの男子生徒にとっての恰好の獲物になる可能性が高い。
今のところ、クラスメートのなりたい職業第一位は宇宙飛行士だった。
これには理由があって、先月、本物の宇宙飛行士が学校に講演を行ったばかりだったからだ。
5年生だけでなく、講堂に集められた全学年の生徒たちは、壮大な宇宙の話に魅了され、感化され、ここしばらくは学内にちょっとした宇宙ブームが巻き起こっていた。
当然ながら、5年生の大半が就きたい職業の筆頭に宇宙飛行士と記し、それはコウザリー先生たちにとって面白くない事態だった。
希望職業を記す欄は3つあった。
マックスの提出用紙は、今のところ1と2は未記入で、3番目に父親と同じ『海洋調査員』と書き込んである。
それは指示されたサイトのリストの中にはない職業だったけれど、コウザリー先生も文句は言わないだろう。
そして、お父さんと同じ仕事を選ぶのを良しとしない母親も、3番目なら何とか許してくれるんじゃないだろうか。
本当は、その3番目が本命だと気付かれさえしなければ・・
マックスがまだ幼い頃、親戚の家に集まった時に、子供たちの将来が話題になった事がある。
大人の「将来、何になりたい?」という質問に、明確に返答できる子供は少ない。
警察官や医者、歌手といったステレオタイプの答えを告げれば、大人たちは勝手に沸き立つが、子供は将来、自分が働くなんて想像し難いものだし、できればそれをしたくないと思っているものだ。
返事を待つ大人たちを前にもじもじしているマックスに、お父さんが助け舟を出してくれた。
「今は無理に答えなくていいよ。この先、ゆっくり考えればいいんだ。ろくでなし以外なら何になっても構わないさ」
〈ろくでなし〉が職業でない事と、それが良くないものだということが幼いマックスにも察せられた。
「じゃあ、もしろくでなしになっちゃったら・・?」
マックスは不安げな声遣いでたずねた。
お父さんは少しだけ思案した後にこう答えた。
「そうだな、ろくでなしになってしまったら、それはそれで構わないよ。もしかしたらろくでなしの人生も、僕らの知らない面白味があるのかもしれないし」
「ちょっと、あなた!」
母親のたしなめをものともせず、お父さんは笑って続けた。
「人生はそれぞれだよ。そこで何を感じるかは、その人にしか判らないさ」
何人かの親戚が小さくゆっくりと拍手し、同意を示した。
不服顔の母親は「お父さんの言葉を信じちゃダメよ」と、マックスに耳打ちした。
空欄の1番目と2番目は、母親とコウザリー先生の喜びそうな何らかの職業を、サイトのリストの中から選んで書き込めばいいだろう。
5年生ともなると、『逃れられない何か』が次第に増えてくるのだった。
「宇宙飛行士になれなくても、ぼくが大人になった頃には宇宙エレベーターで宇宙に行けるかもしれないね」
研究所の書庫の図鑑にも、学校の図書館にあった科学雑誌にも、宇宙エレベーターについての記事が載せられていた。
未来では、ロケットでなく宇宙エレベーターを使って誰でも簡単に宇宙に行けるのだ、と。
しかし、理科の担当教師はそれを否定した。
「君たちは車に乗って長い橋を渡った時に、何度も小さくガタンとバウンドするのを経験するだろう?」
実験の時にまとう白衣に、洗濯しても落ちないいくつものシミがあったので、みんなはひそかに彼を〈Mrスポット(斑点)〉と呼んでいた。
川幅を一気にまたげる長さの鉄骨は作れない。
どうしても、いくつかを繋ぎ合わせる必要があり、継ぎ目の強度はどうしても弱くなってしまう。
地上から数万km上空では、構造物の揺れ幅も大きくなる。
その揺れの与える負荷によって、継ぎ目部位にはダメージが蓄積し、いずれは崩壊してしまうのだ、とMrスポットは生徒を前に解説した。
博士が希望を繋いでくれた。
「例えば岸の片方に炉を設け、固まった鉄骨を少しづつ押し出していく。丁度、髪の毛が伸びるようにね。そうやって順次、押し出し続ける事で、継ぎ目のない橋を作る事ができるかもしれないね」
あるいは炉は必要なく、2つの溶剤を混ぜ合わせると固まって強度の高い建材が作り出せ、それを少しづつ塗り足していく事でも、継ぎ目のない橋が作れるかもしれないと、別の可能性も語ってくれた。
マックスも、そしてMrスポットも、宇宙エレベーターを塔や高層ビルのような建物としてイメージしているようだが、実際に計画されているのは、天へと垂直に昇っていくケーブルカーのようなスタイルのものだ。
素材はカーボンナノチューブという、強固、かつ軽量、かつ柔軟な素材が予定されている。
「しかしMrスポットの指摘は、一理あると思う」
そのカーボンナノチューブにしても、全く継ぎ目のないものを用いる必要があり、その長さは地球から静止軌道までの3万6千kmと、更にその先へもほぼ同量、つまり7万kmを越える継ぎ目のないカーボンナノチューブが必要となる。
その重量のナノチューブを地球から打ち上げるのは不可能なので、まず静止軌道に工場となる宇宙ステーションを設け、そこに地球から原料を運び、その宇宙ステーション内でナノチューブを製造しなくてはならない。
7万kmのナノチューブを製造した後は、次にステーションから地球へと、そしてその反対方向である宇宙空間へと、その両方にバランス良く、かつタイミング良くナノチューブを伸長させていく必要がある。
地表へと引っ張られる地球の重力と、宇宙空間へ飛び出そうとする遠心力、その狭間の中を両方向へナノチューブを延伸するのは、どのような離れ技を駆使すれば可能だろうか。
月へと到達したアポロ計画でさえ、どれだけ綿密な手順を設けても、多数の事故を起こしている。
あまりに危険な一発勝負は、一体、誰が承認するのだろう。
「他に考えられる障害として、宇宙空間のナノチューブは宇宙線や太陽からの強い電磁照射にさらされ続ける。ナノチューブ全体を遮蔽コーティングすると今度は重量オーバーだ」
電磁波だけでなく、加速エネルギーを持った小さな物質の粒子がわずかなキズを付けただけでも、ナノチューブ破断の原因となってしまう。
「単純に考えても太平洋を渡るのにケーブルカーを敷設するより、飛行機を飛ばした方が簡単だ」
ケーブルカーは断線しても復旧可能であるが、宇宙エレベーターは破断すると、空から大量のナノチューブケーブルが地表へと落下し、破断した先のケーブルは、遠心力により宇宙空間の彼方へと飛び去って行く。
これを復旧させるには全てを一から作り直さなくてはならない。
耐久性の問題を全てクリアしたとしても、完成した宇宙エレベーターはテロの恰好の標的となってしまう。
大気中の数万km、その全空域をカバーしての警備は可能だろうか。
「あと100年もしたなら、民主主義2.0が実現し、テロも完全に消滅し、宇宙空間にある物質から素材を作り出すようなテクノロジーが実現しているのかもしれない。宇宙エレベーターが実現するのは、その後の話に・・」
不満顔のマックスの視線に気づいてたじろいだ博士は講釈を中断し、手に持ったグラスに口を着けた。
「ちぇっ、大人って子供の夢をつぶすんだな・・」
Mrスポットのみならず、まさか博士までもが。
裏切られた思いでマックスはソファの背もたれに身を沈めた。
やはり、子供にとって大人は相容れない生き物なのだろうか。
扇風機のうなる音だけが室内に響き、マックスのグラスの中の氷が溶けてはがれ、カランと音を立てた。
博士は地球の自転スピードは時速1700kmであり、それが大きな遠心力を生んでいるのだと教えてくれた。
宇宙エレベーターを建設するにしても、運用するにしても、静止した空間ではなく、この高速で運動する空間の中で行わなければならず、それが種々の障害となるのだと、博士は述べた。
地球がそんな速さで回っているなんて嘘みたいだ。
でも、そのスピードで地球が自転しているからこそ、太陽は1時間に15度づつ傾いてゆき、昼から夜へ、夜から昼へという一日のサイクルが生まれている。
その地球は、太陽の周りを時速10万kmという超スピードで公転しているし、さらにその太陽系自体も銀河の渦の中を更に速いスピードで公転している。
そしてまた、その銀河全体ですら、超高速でうみへび座の見える方向へと進んでいるのだと博士は教えてくれた。
〝じゃあ、ぼくたちって、今、一体どこにいるんだろうか?〟
そう思いながら、キッチンに立ってレモングラスのお代わりをついだ。氷はさっきの半分の量だ。
エネルギーが振動する空間で、物質はその振動に導かれて自らの居場所を決める。
丁度、かすかにも揺らがない湖面で、流木が一ヵ所に集まるように。
人もエネルギーの海の中、その振動に導かれて、自らの波長に沿った場所へと流れ着くのだった。
この田舎町の、この土地、この『研究所』に博士が落ち着いたのも、この人物の持つ波長がそこへ導かせたものであり、いうなればこの土地は彼の内面の顕れとも言えた。
結局のところ、人が 〝自分が今居るべき場所はここではない〟と、どんなに思っていたとしても、やはりそこが今いるべき場所なのだ。
野原を散策し、野草を摘み、海風を身に受ける。
心を洗う要素の揃ったこの土地は、彼に必要なものだった。
人と人も、同じように波長の合う者同士が、自然に巡り合う。
男の子と老科学者を出合わせた振動の流れは、一体どのようなものだったのだろうか。
キッチンから戻ると、先ほどまでマックスが使っていたノートPCの画面を博士が見つめていた。宇宙エレベーターの話で思い出したトピックがあったので、あるサイトを見返していたのだそうだ。
リビングに戻って来た宇宙エレベーターに執心する少年に、博士が問いかけた。
「他の子みたいに宇宙飛行士になって宇宙へ行ってみたいのかい? ラズベリーの匂いが嗅いでみたいの?」
宇宙飛行士が船外での遊泳を終えて、ステーションに戻った時、宇宙服に付着した微粒子からは、なぜだか甘いラズベリーの匂いがするのだそうだ。
以前に、博士がそう教えてくれた。
「そうじゃないんだけど・・」
口に出そうか迷った末に、やはりたずねることにした。
「死んだ人の魂は上に昇るの? それは宇宙に行くってことなのかな?」
「なるほど、そういう話か・・」
博士は口をつぐみ、しばし思案にくれた後に語り始めた。
「コップに入れた水溶液が、上澄みと、底の沈殿物に分かれるように、軽い物質は重い物質にはじかれて上に昇る、つまり重力とは反対方向にね」
おそらく昔の人は魂を『より軽いもの』と考えて、天へ昇るイメージを持ったと思われるが、もし魂というものが存在し、それが質量を持たぬものであるなら、重力の影響を受ける事なく、空間のどこにでも存在できる。
「それこそ、大気中でも海の中でも、あるいは地球の地下の岩盤の中や、太陽のような恒星の内部にでも、どこにでも自由に存在できるんじゃないだろうか」
そう言った後で、「だから、もし亡くなった人の魂に会いたかったら、宇宙に行かなくてもいいんだよ。」と、博士は付け加えた。
地球重力からの脱出速度は秒速11.2km。
「それだけの速度がないと、地球の重力を振り切って宇宙へと到達することはできない」
「それって、そんなに速くないんじゃないかな?」
「いやいや、君は勘違いをしているぞ、時速じゃなくて秒速なんだよ」
普段、耳にする速度はどれも〈時速〉なので、マックスがそれと混同してしまうのは無理からぬことだった。
「秒速11.2kmというのはつまり『い~ち』と数える、その1秒の間に11.2km先まで吹っ飛んでいる、ってことだ」と、博士は人差し指を窓の外に向けた。
マルロのお父さんに連れられてエンゼルスの試合を見に行ったのは、つい先月のことだ。
シーズン開幕直後で、両チームの応援団は熱を帯びていた。子供優待デーだったので、内野席のほぼ最前列でピッチャーの投球をかぶりつきで見ることができた。
バックスクリーンの電光掲示板には、何度も時速150kmを越える球速が表示された。
秒速11.2kmを、時速に換算すると4万320km/時となる。
つまり、一時間に4万320kmの距離を進むスピードだ。
博士から借り受けた電卓で、マックス自身でその数を150kmで割ってみると、電卓が弾き出した数字は267だった。
つまり地球の重力を振り切って、宇宙へ脱出するには、あのピッチャーの豪速球の約267倍のスピードが必要ということだ。マックスにはとても想像できない速さだ。
母親からは「ホットドッグのお金はおじさんにちゃんと渡しなさい」と言われていたけれど、何だか恥ずかしくて言い出せなかった。
マルロのお父さんは、そんなマックスの様子を察して「いいのさ、奢られておきな」と笑顔で告げてくれた。
使わなかったお金でマルロと一緒にトレーディングカードを買って、マルロが「このルーキー応援してんだ」というので一枚だけ交換した。
マルロのお父さんはビールの1パイントカップを3杯もお替りして上機嫌だった。車で迎えに来たマルロのお母さんは、ブツブツと文句を言っていたけれど。
〝男の人はゴクゴク喉を鳴らしてビールを飲む。博士もそうなのかな・・?〟
マックスは漠然とそう思った。
「私はさっき、無意識に指を窓の外の水平方向へ向けてしまったが、ロケットは水平ではなく垂直方向へ飛ばさなくてはならない。しかも野球の硬球は数十グラムだが、ロケットは数千トンもの鋼鉄の塊だ」
博士のその言葉で、マックスはエンゼルのホームグランドから研究所の部屋へ引き戻された。
「重力に抗って、物体を打ち上げるのは、とってもエネルギーの要ることなんだ、3階建ての校舎の屋上までは大体15m位だ、校庭を15m走るのは簡単でも、校舎の屋上まで駆け上がるのは大変だろう?」
博士は重力に抗うことの大変さをマックスにイメージして欲しくて、そう説明した。
博士にひとつ誤算があるとすれば、小学生が3階建ての屋上まで階段を駆け上がるのは造作もない、ということだろうか。
天界まで届く建造物は、人類の悲願であったのだろう。そのバベルの塔は、何階まで駆け上がれるだろうか。
現代の人間であっても、天へと延びるエレベーターを望むのは無理からぬ事なのかもしれない。
昔の人々は天空に何を求めただろうか。
神との邂逅だろうか、それとも死者との再会だろうか。
「やっぱりさ、アポロ13号は13だから事故を起こしちゃったのかな?」
ふいにマックスがたずねた。
学校の宇宙学習では、宇宙開発の負の歴史も習った。
スペースシャトルの空中爆発の映像がモニターに映し出された時、女子生徒の何人かは悲鳴を上げ、涙ぐみ、みんなで乗組員の死を悼んだ。
続く、アポロ13号の映像の前に、「アポロ13号は全員助かってるから大丈夫よ」とコウザリー先生は、そうアナウンスした。
映像を見終わった後、クラスメイトの誰かが「13号なんかにするからだ、12の次は1コ飛ばして14号にすりゃあ、良かったのさ」と、そう吹いた。
「そうだとも言えるし、違うとも言える」
キリスト教において13の数が嫌われるのは、言わずもがな13人目の裏切り者の弟子であるユダの存在ゆえだ。
「しかし、おそらくその出来事の以前には、別の数が〈忌み数〉とされていたであろうし、例えばユダが5番目の弟子であったなら、キリスト教信者にとって、5が〈忌み数〉となっていただろう」
仮に新たな文書(もんじょ)が発見され、ペテロの前にキリストから洗礼を受けた者がいたとしたなら、繰り下がってユダは14人目の弟子となる。
「今日から、14が不吉な数字となりました、とアナウンスしても、人々はそれを受け入れはしないだろう」
どんなにその発見された文書がどんなに正しいものであったとしても、人々は頭の中の既成概念を書き換えられるのを嫌うからだ。
それともユダが13番目になったのはたまたまのことではなく、悪魔の采配によって、元々よくない数字であった13番目にユダが当たるようにセッティングされたのだろうか。
「もちろん、そんなことはない。人の行いの全ては人の意識が作り出している。13はいい数字でもないし悪い数字でもない。でも人がそう思い込むなら、それはやはり何かを引き起こすのだろう」
〝今日は13日だから、何か悪いことが起こるかもしれない〟と、そわそわした気持ちで仕事をしていたなら、手元がおろそかになり、その『何か悪いこと』が現実になる。アポロ13号の事故も、技士がネジを1本外し忘れたという些細な原因だったそうだ。
「その技士さんが、そわそわしながら作業してたってことなの?」
「さあ、どうだろうか。『私は13なんて数字は気にしていない』と本人が思っていたとしても、実は心の奥底ではそれを気にしていたりする。人の心の中には無意識っていうのがあって、それが時々、本人も思いつかない何かをやらせるらしいよ」
宇宙の話が、いつに間にか、人間の意識の働きの話に代わっていた。
〝ぼくのお父さんも、ビールをゴクゴク飲んでたのかな・・?〟
博士の上下する喉仏を見つめながら、マックスはそう思った。
「デービッドはさ、13がラッキーナンバーなんだって。誕生日が13日だし、ドーナツ屋におつかいに行って1ダース買った時、おまけにもらった13コ目を、家に帰る前にこっそり食べちゃえるからなんだって!」
「じゃあ、アポロ13号の計画に携わったメンバー全員がデービッドみたいだったら、あの事故は起きなかったかもしれないね」
「うん、きっとそうだよ!」
研究所は海が望める高台にあって、どの窓からも眺めは最高だった。
郵便配達員と宅配業者しか訪れることのない町外れの土地は、車の往来もなく、自然界の音だけが耳に聞こえ来た。
時折、強く吹く海風がガラス戸を叩き、窓のふちには夏羽に生え変わって抜け落ちたであろう鳥の綿毛が一枚、震えながらへばり付いていた。
陽は西へ傾きかけ、氷の溶け切ったグラスはほぼ室温と変わらなくなっていた。
「もうそろそろお帰り、陽がある内に家に着けるようにね。いつかはエレベーターでもロケットでもない、もっと便利な方法で宇宙に行けるようになるかもしれない」
そう博士に促されて、マックスは席を立った。
マックスがまだここに居たがる表情を見せたので、博士は一瞬、もうしばらく談笑した後に、車で送ることも考えたが、それは自制した。
母親の話しぶりからして、博士がなぜだかこの土地では歓迎されていない事にはマックスも気づいていたが、それがどういった理由であるのかは皆目見当がつかなかった。
来た時と同様、リビングを通る時にまたイッカクの角に目で挨拶した。確かに、昔の人がこれに霊力が宿ると信じ込みたがったのも無理はないのかもしれない。
つやのある螺旋構造は、それほど輝きを放っているように見えた。
大人の男の人とこれほど長く一対一で話をするのは、学校の先生相手でも中々ないことだった。
もっとも今までのクラス担任は女の先生ばっかりだったし、男性であれ女性であれ学校の先生はマックスたちを子供としてしか扱わなかった。
子供の言い分を、煩わしく思う事なく聞いてくれる大人は、これまでマックスの周りにはいなかった。
マックスにとって、博士は『他の大人とは違う人』に感じられた。
そのことを、いつか博士にたずねたことがある。
「君がそう感じるとしたら、私は一瞬々々、今ここに自分が居ると意識しているから・・、かもしれないね」
そんな、マックスにはよく理解できない答えが返ってきた。
玄関先まで見送りに来てくれた博士が言った。
「ここに来る時は、できれば学校からメールしてもらえるとありがたいな、わたしがいない時もあるし、君の為に予めお茶の準備も出来るしね」
学校で使用できるPC端末には、生徒個人で使えるメールアドレスがあてがわれていた。
でも学校のPCは、いつでも使えるという訳ではなかったので、メールでの予告は可能な限りそうする、とだけ博士に約束した。
クラスの何人かは自分の携帯電話を持っており、少し前までは彼らリッチ組の定番の話題は新型機種への買い替えだったが、最近はそれが昨年発売されたiPhoneを手に入れられるかどうかに移り替わりつつある。
マックスも中学に上がったら携帯電話を持たせて欲しいと母親に頼んでいたけれど、その望みが叶うのは難しそうだった。
「夏休みになっちゃったら、来る前は家から電話したらいいかな?」
「ああ、そうしておくれ。君はこの夏、サマーキャンプとかには行く予定はあるのかい?」
「ううん、来年から中学だし、ずっと家で勉強しなくちゃならないかもしれないんだ。だから今年はサマーキャンプには行かないと思う・・」
そう言いながら、母親の「夏休みはお昼ごはんを作る手間が増えるから困るわ」という呟きを思い出していた。
「博士は夏休みはずっと家にいるの?」
「はは、夏休みか・・、君たちのような夏休みはないが、そうだな、どこかの日程でクジラの調査の為に家を空けるよ。その日取りが決まったらすぐに教えるよ」
「そうなんだ・・、お父さんはモーターボートを持ってたんだ」
「ああ、以前にも聞いたよ」
「それがあったら、ボクもいつでもクジラを見に行けたのにな・・」
以前にマックスから聞いたその大きさのボートでは外洋に出るのは不向きだろうと博士はそう思い、でもそれは口には出さなかった。
行きの道と違って、帰りの道が物悲しいのは、やはり夕焼けで赤く染まった世界がそう感じさせるからだろうか。
それとも、さっきまで話をしていた相手と別々の屋根の下で眠らなくてはならないせいだろうか。
〈研究所〉から帰り道は、往路の時のように心が弾むことはなかった。
書庫から借りた本は、玄関をくぐる前に一度自室の窓の下にそれを置いて、後から身を乗り出して回収するようにしていた。
この日は母親の仕事が遅番だったので、その小さな苦労は必要なかった。
用意された食事をレンジにかけ、いつものように一人で食べた。
もう慣れっこだったし、むしろ母親の小言がない分、気が楽だった。
眠る前、ベッドの上に横たわり、簡単な日記をつけた。
日記といっても1~2行を記すだけで、この日の記入事項は『研究所へ行った、宇宙エレベーターとアポロ13号の話』、それだけだった。
ベッド脇のローチェストに日記を軽く放り、手を伸ばしてスタンドの灯りを切った。
お父さんの形見の万年筆のペン先がつぶれて使えなくなったのは、もう数ヶ月前だ。
「そんな事で泣くのはバカみたいだ」となじられるのが判っていたので、その晩は枕に顔を押し付けてこっそりと泣いた。
壊れた万年筆は今でも宝物ボックスの中の、特等席にしまってある。
寝入りばなの夢現の中で、昔の出来事を思い出した。
いとこのアイリスの一歳の誕生日に、みんなでアリゾナ州まで会いに訪ねた時、お父さんはアイリスを抱き上げてこう言った。
「この世は大変なんだよ。わざわざ生まれてくることなんかなかったのに。ずっと向こうの世界にいればよかったのに」
かかげられたアイリスは、お父さんの顔を不思議そうに見ていたな。
「でもまあ、来てしまった以上、たくさん遊んで、たくさん楽しんでいきな」
アイリスのお父さんもお母さんも、他のみんなも、訝しい視線をお父さんに向けた。もちろんマックスも。
〝生まれてこない方が良かったなんて、お父さんは変なことを言うなぁ・・、もしかしてぼくが生まれた時もそう言ったのかな・・?〟
ベッドから身を起こすと、もう一度、灯りを点けて、日記の続きに『宇宙に行かなくても、死んだ人の魂と会えるかもしれない』と書き足した。
翌朝に日記を見返した時は、寝入りばなの、お父さんのアイリスを抱き上げた姿を思い出した事は意識にのぼらなかった。
ただ乱れた筆跡で書き足された自分の文字を見つけただけだった。
甘美な思い出も、苦く悲しい思い出も、記憶の海に沈んでいく。
なぜ、人は電子メモリのように全てを憶え、全てを思い出せないのだろう。
なぜ、ふいに昔の思い出がよみがえり、そしてまた消えていくのだろう。
記憶のトリックは、呪いだろうか、それとも恩寵だろうか。
ただ意識は眠りの帳を抜けて、また別の新しい朝を、また別の新しい一日を迎えるだけだ。