ドリームダイバー・00 プロローグ

着水した直後から。ゴムボートは波に大きく揺らいだ。
馬 拉雲は、甲板の隊員にフックを外した旨をハンドサインで示し、ワイヤーは上へと巻き上げられていった。
馬拉雲の視界には、宙へ昇るワイヤーの脇、舷に記された『中國海警局』の大きな文字が映った。
この角度からその文字を見るのは、初めてだ。
対面に座る水兵長は、宙に吊られた時から青い顔をし、そして今、ボートが波に大きく揺らぐ最中も、それがずっと続いている。
その怯えっぷりが、馬拉雲には痛快だった。
この小さなゴムボートとは違う、340tの海警局の巡視船の安定性がいかに頼もしいかが実感された。
波によって、ボートの縁は舷に何度もぶつかり、馬拉雲は足で舷を押して距離を稼ぐと、自分に割り当てられたエンジン操作と舵取りに意識を向けた。

水兵長が何かを告げようとしているが、外付けエンジンの轟音でまるで聞こえなかった。
この水兵長はパワーハラスメントの権化で、馬拉雲もこれまで何度もビンタを食らっている。
理由は「襟が曲がっている」、「私語をしていた」等、難癖以外の何物でもなく。
彼の実家は、その郷鎮で党に何らかのコネがあるらしく、組織内でもそれを上手く利用して水兵長に任ぜられたらしかった。
そうでなくては、こんな使えない人物が水兵長にはなれないだろう。この中國ではよくある、そしてうんざりする人事だ。
曹長からボートでの降下と対象物回収の任務を2人が命ぜられた時の、こいつの不服と怯えの入り混じった表情を思い出すと、今でも笑えてくる。

ボートは何度も波をかぶり、馬拉雲も水兵長も、それなりの量の海水で濡れ、体が冷えた。
馬拉雲は自船に戻り、体を温め、あと数時間後に非番となって、自室の二段ベッドでスマホゲームに興じるのを夢想しながら、舵をコントロールした。

艦内に警戒音が鳴り響いたのは30分程前の事だった。
いつもならば、中國海警局のこの船が日本の領海へと侵入している所だ。
それこそが正に任務だった。
つまり、何度も立ち入っているという既成事実を数多く作る事、そして日本という傲慢な国家に脅威を感じさせる事。
領海侵犯の度に、ご苦労な海上保安庁の巡視船が警告を発しに現れ、数十分の睨み合いの後で、こちら側が立ち去る。
それがいつもの事だった。
それがどういう訳か、今回に限ってはその日本の海上保安庁の巡視船が、中國領海内に侵入してきた。
船橋の艦長および指揮官たちは当初は、日本船が潮流に流されての偶発的なものと考えていた。
過去にもそういった事例が何度かあったからだ。
しかしレーダーに映る軌道が、そのふとどきな日本船が、はっきりとした意志を持って本船に接近して来ていると告げていた。
いつものような、にらみ合いになった後に、日本船が立ち去る。
つまりは相手方もこちらの手法をまねして、今後、その行為を行うつもりなのだろうと、そんな指揮官たちの予想は覆えされた。

日本の巡視船から飛び立ったドローンは、両船のほぼ中間地点に何かを投下した。
そしてそれこそが日本船の目的だったのだろう。ドローンを収容すると、すぐに船体を翻した。
日本海上保安庁の巡視船の船体には、大きなLEDモニターが取り付けられている。
毎度毎度の中國船の侵犯の為に、それが必要だったので、数年前から実装されたのだった。

モニターに中国語で表示されるメッセージは、毎回、同じだ。
【貴船は日本の領海を侵している。すみやかに立ち去れたし】
馬拉雲はそれ以外の文言は見た事がなかった。
しかし今回、甲板から見たそのLEDモニターには、別の短いメッセージが示されていた。
【プレゼントだ】

隊員と指揮官らが甲板から双眼鏡で覗いた限り、その投下物に危険性はなさそうだった。
それでも用心の為に、本船自体を寄せるのではなく、ゴムボートでの回収を行うべく、馬拉雲と水兵長とが任を負い、今こうして波間にボートを走らせているのだった。
“もし爆発物だったら、下の者にはふんぞり返り、上にはへつらう、この嫌悪すべき上官と共にあの世行き。つまりは捨て駒になるって訳だ・・”
馬拉雲はそんな事を考えながら、投下物の脇へとボートを寄せた。
水兵長は、権威を示そうと冷静さを装ち、いかにも自分が指示を与えているんだ、という態度をとってはいたが、彼が怯えているのは見え見えだった。
それでも投下物がはっきりと何であるか判った時から、2人には自分たちの身が爆風で吹き飛ばないであろう事は察せられた。
波間に浮かんでいるのは、何かを収納するコンテナだった。
その大きさは百安居(中國のホームセンター)で売っている衣装ケース程、つまり人一人で抱えられる大きさの物だ。
浸水から中身を守る為なのだろう、撥水性のラップで何重にも巻かれており、それによってコンテナ自体がどんな形なのかはよく判らなかった。
巻かれたラップには、おそらく波間でも目立つよう発色のいいオレンジ色の蛍光塗料がスプレーされていた。
それほどの大きさではないものの、それでも波の揺れに阻まれ、またライフジャケットによる腕の可動域が狭まっているのもあって、その対象物をボートに引き上げるのには2人の手が必要だった。
「こりゃ一体、何だ?」
ボートを停止させた事により、エンジン音が落ち着き、ようやく互いの言葉が聞きとれるようになった。
恐怖が一段落したのか、水兵長はいつも通りの威丈高な態度で馬拉雲に命令し、手際が悪いとなじった。
“本当に腹正しい男だ。やはり今、海に突き落とすべきだろうか・・”
馬拉雲はそんな想いを抑えつつ、それでも水兵長との共同作業でそのコンテナをボートへと収めた。
予め甲板で受けた命令の通りに、コンテナには手を加えず、そのまま本船まで戻るべく、再びエンジンを吹かし舵をきった。

“帰船したら、おそらくこいつは「自分だけの仕事で、黄の奴はまともに働こうとしなかった」と、そんな吹聴をするんだろうな・・”
馬拉雲は嘆息と共にそう考えた。
上官がその言葉をまともに取り合わない事を祈るばかりだが、上官にもこの男と同類の者が数多い。
この中國では、出自も運なら、どんな者と付き合わねばならないかも運だ。
“努力でどうこう出来る国じゃない・・、あと自キャラを2つレベルアップさせる。それでいつものネット仲間との、今日中にボス戦に挑む、という約束が果たせるだろう”
自室でだけ許される穏やかな時間を、その慰みだけを求めて、そして艦内のWi-Fi回線の安定を祈りながら、舵を操り、ボートを巡視船の脇へと寄せた。

馬拉雲は、この時は夢にも思わなかった。
コンテナの中身、その品々が中國人民解放軍を分解・散逸させるものになろうとは。
ひいては中國人民14億人を自由へ導く仕掛けを持ったものだとは。

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