『月姫』想夜
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この記事は自身のHPのために2002年3月2日に作成されたモノです。
当時の空気感、自身の感性で書かれているため、今とは合わない部分もあります。また、自身で書いた物ながら読み直して違うと感じる部分もあります。
しかし、当時書いた物として、そのオリジナリティを重視して、ほぼそのまま掲載します。
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『月姫』(TYPE-MOON)を何度か小ネタにしてあげてきた。
実際、まだ完全にクリアしていないのだが、物語に関して多く語る気はないので今までの考えを今回まとめておくことにする。
私が『月姫』において疑問に思ったのは作品で使われる独自の単語とかその設定などには、それほど疑問、いや引っかかることなく作品に入り込めた。ただ、個人的には少女コミックに近い文法だったためか、なかなかプレイしていてある種の息苦しさがあった。
また、ゲームに置いて、私が一番疑問に思うのは『同人ゲームとして、なぜヒットした』のかと、『この作品の系譜』の二点である。
先にも書いた通り、今回は物語を紐解く気はさらさらないので、それはほかを当たって貰うことにして欲しい。
このサイトはほかでやらない所にピックアップするのがスタイルである。
さて、先の二点を見ることで、『月姫』の難解な言葉遊び的な単語やその物語の流れを見いだしていく。それを分析することで最近の流行というのが何かと考えていきたい。
流行を紐解く材料としてはこの作品、『月姫』はかなり適した材料だと思っている。
そもそも、『月姫』のキャラクターの絵自体にはそれほどの俗にいう「萌え」は感じられない。
ただ、前にも語ったが、文章によって「萌え」を演出する手は意外に重要である。『月姫』は言うまでもなくテキストの量に関しては同人ゲームでは独走状態である。その量に無駄がないとは完全には言い切れないが、その量は絶対的な武器である。
また、序章に置いて「遠野志貴」という人間の人格の形成されるシーンから始まる所はうまいの一言である。これによってプレイヤーには「遠野志貴」という人間がどのような流れでどのような人間になったか一目で分かる。
このシーンを見ておくことで今後のストーリーにおいてプレイヤーが「遠野志貴」に完全になりきれる。
普通のゲームであれば、ある種、朝起きて学校途中で自己紹介をする所である。それも深くまでその者の人格には踏み込まない。むしろ、ゲームにおいて登場人物の人格構成は終盤にあることが普通である。
それが『月姫』では逆であるのはゲームから離れたところに作品の原型がある証拠である。
つまり、この演出はゲーム的ではなく、小説や漫画的である。
先ほど、プレイヤーが「遠野志貴」に完全になりきれると書いたが、実際はなるのではなく、感情移入すると行った方が正しい。ただ、ゲームであるからロール、なりきると表現をしただけである。
また一般の恋愛ゲームであれば、ロールして楽しむのが普通である。
そもそも、立ち絵のCGからはエロゲーなどのCGに比べればぬり絵程度のレベルといえる。これが欠点と言いたいのではない。むしろ、マンガに源色を塗っただけのことが記号化される。実際、キャラクターの設定自体が記号化されているだけに書きやすい形であると思う。それが制作者自らがキャラを壊し、デフォルメした猫アルや知得留先生であったりもする。
それは当たり障りがないだけに、「はまる」際に障害となることはない。
また、それがほかではどのような結果を生むかというと、亜流を生みやすくしている。つまりは描きやすい絵であるために二次創作が蔓延しやすい。もちろん、文章における「萌え」がそれを助長させての結果だ。
二次創作、いわば同人物である。
記号化された絵、記号化された設定は同人世界で『月姫』という元ネタとしてのジャンルを作り出す結果となった。同人世界において『月姫』はしておかないといけないネタとなった。それがさらなる蔓延を生むわけである。
また、難解のストーリーを読みとるサイト等によって、別方面での人気向上に繋がるわけでもある。
月姫に隠れる「萌え」は幼年時代から緻密に作り上げられた主人公「遠野志貴」があるからこそ作り出された像である。
そして、その「萌え」があらゆるサイトで受け入れやすい形へと変化して宣伝された。その結果が爆発的に蔓延する結果となった。しかし、ネットでの通販もしており、値段も安いだけに広がりやすい。
絵だけでの「萌え」では『月姫』は存在し得なかった。実際、重厚なストーリーの方が先にあったからこそ、その具象化した絵ができたのだが。
私は何事に置いても、その作品の系譜を考える。その作品がどのような流れで生まれたかと導くことでその作品を読みとる際に楽になるからだ。しかし、最近の作品はそれを読みとるのは難しい。
必ずしも、マンガにはマンガの系譜で成り立っているとは限らなくなったからだ。それは小説においても、音楽においても、映画においても、テレビにおいても、ゲームにおいても。統合されたメディアそのものがすべてのメディアの系譜になったために読みとるのが難しくなった。
ただ、ごちゃ混ぜになったせいでその原型が隠れてしまっているだけで、それが何処にあるか分かれば意外に楽である。
原型は小説よりのマンガと言った所だろうか。一部に映画も混じっているが、ゲームとしての原型は余り感じられない。
全面としてビジュアルノベルのヒット作『痕』の要素が含まれているが、ほかの原型によってその要素は消されている。
主人公の性格から最近の流れをくんでいるのは間違いない。また、設定の緻密にしている点からもそれがうたがわれる。
ストーリーの設定からも『痕』が色濃く出ている。しかし、その後の「遠野志貴」と相手(ロア、四季、シエル等)の抗論合戦でそれを気にさせなくしてくれるが。ビジュアルのベルという点からもゲームとしては『痕』の系譜はふまえている。
(余談であるが、『月姫』の制作ツールは「Nscripter」である。『月姫』では文字表示のデフォルトの縦16文字、横23文字である)
しかし、物語から考えると少女コミックの流れが強い気がする。アルクェイドやシエルのルートにおいては主人公よりもヒロインに主導権がある。年上の存在というのもあるが、ここでの主人公はヒロインにとってはかわいい存在、年下の存在である。しかし、土壇場では女を守る一人の男となる。女性受けしそうな構図といえる。
いうなれば、ヒロインには主人公が白馬の王子様的な存在である。また、オカルトの要素もその一つであると思う。また、敵も美形の男である点も忘れてはいけない。
実際、弱い存在である「遠野志貴」であるが、その隠された力から土壇場では完全にクールな二枚目へと変化する。むしろ、ダークな面ともいえる面でもある。変身願望とは違うが、女性側においての逆変身願望と言えるかもしれない。
それに「遠野志貴」には魅力的なセリフが多い。
ナイフというのは「遠野志貴」の最大の武器である。しかし、アルクェイドを殺した凶器でもある。だが、その後はそんなことは関係なく「遠野志貴」は身を守るために使う。殺人自体に嫌悪しても凶器であるナイフには何も抱かない。それはナイフに秘められた力とかそういった設定であると言えばそうだが、ナイフはある種において凶器とは言いにくい。
それはこの作品に限ったことではない。ナイフというのは武器であり、人を殺せる道具であるが、実際の目的は料理である。
何事においてもナイフは神聖化された武器で、それを持った「遠野志貴」は殺人鬼となっても泥臭さを感じさせず、神聖化されるわけだ。むしろ、美化とでも言うべきか。
例えていうのなら、少し意味合いが違うが『うしおととら』の『獣の槍』といえる。その逆にあげられるのが、完全に力の象徴の『ベルセルク』の『ドラゴン殺し』かもしれない。
そのために殺人鬼という単語が作品の中で美化された存在となり、殺人の正当性が語られる。これが肉切り包丁だったり、鉈だったり、のこぎりだったりすると、ただの猟奇になってしまう。
また、近年の作品において殺人鬼の美化、芸術性の向上の傾向。それの結果による模造犯。それらが殺人鬼は必ずしも絶対的な悪ではないとしている。ただ、犯罪では違法は絶対であるということは、はっきりと言っておくけれど。
ナイフという神聖的な武器であるからこそ、「遠野志貴」を始めとする者達の殺人行為が正当性を持たせている。また、吸血鬼もそうである。
また「直死の魔眼」によって一撃で殺すことは文字通りの必殺技である。これも殺人を美化させている。本来、人というのは一撃で殺すことは難しい。首を吊ったところで瞬時に死ねるわけではない。しかし、物事の作品は人を瞬時に殺させる。
それが死を仮想のモノ、ニセモノとする。
つまり、ニセモノの死は嫌悪を与えることはなく、浸透しやすい。それに加えて相手は人の姿をしていても人ならざるモノ、平気で殺しても問題はないという論理感もある。あくまでこれらはプレイヤー側の心情である。
ただ、序盤で主人公は人を殺しておきながら、エッチはラストのみ(2回戦までやるけれど)。しかも、敵側も人を殺しても、犯さない。 猟奇も文章的な表現だけで18禁にした意味がある意味では全くない。
しかも、絵からも制作者側(原画家)のエロに対して恥ずかしさを持っている雰囲気が見ている方まで恥ずかしくなるのが、少し欠点といえる。
ここまで人気が出た今ではエロが無くてもいいとも言えるが、序盤でのカルト的人気を得るためには仕方がない手とも言える。
少し、吸血鬼としての引用当たりにも触れたいのだが、マニアックな所までは私は知らないので、語らないでおく。ただ、一般的に有名な古典作品がベースとしてある気はする。しかし、その上に作家独特のセンスで色が塗られているから、全くオリジナルの吸血鬼像とは言える。
余りに独特すぎて、吸血鬼である必要性がなくなっている気がするのが少し残念である。
これは『月姫』一作品を見る限りはそれはさほど問題ないが、死徒二十七祖がすべて出てきた時点で世界が広がりすぎている。
(ちなみに余談だが、DRACULA(ドラキュラ)を逆に読むと、アルカード(ALUCARD)になる。これは結構、有名な話である)
だからといって、これらの要因を踏めば同人ゲームでの第二の『月姫』が作れるわけではない。それができれば、既に第二、第三の『エヴァンゲリオン』は既にできているはずだ。
しかし、それらはまだ出てきていない。
■追記------------------------------■
この内容は2002年3月2日に作成されたモノであるが、『エヴァンゲリオン』自体が新劇場版で出てくるとも思わなかった。
また『魔法少女まどか☆マギカ』を第二『エヴァンゲリオン』と呼んでもいいとは思う。しかし、時間が空きすぎたせいか、第二『エヴァンゲリオン』といった肩書きは時代遅れでもある。むしろ、今となっては第二『まどか☆マギカ』を求めているのかもしれない。
ただ、第二の存在が出てきたその頃には『まどか☆マギカ』自体、時代遅れであろう。
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つまり、爆発的な人気は得ることはその時の流れや運という見えない要素が、実は一番の要点と言える。
実際、勝ち組からは学ぶモノはないと言う人は多い。負け組にこそ学ぶモノが多い。
ただ、私は『月姫』を分析することで今の流れを読みとって、分析しただけである。
最後に『月姫』は同人作品であり、メインで作られたコンテンツではない。それがメインと同等に語られている。今後は個人の作品であっても、商業作品と同じ立場で語られるようになるだろう。
それまでは機材が高かったモノがいまではある程度安く手に入るようになった。特にゲームにおいてはフリーで高性能な制作ツールが多く作られている。それだけプロ、アマともに制作ツールとしての差はそれほどなくなっている。
今にとってプロ、アマどもの違いは人気度というか組織の規模ぐらいしかなくなってきている。
今後、ありとあらゆる同人世界でどのような展開をしていくかは楽しみである。
ご意見、ご感想をお待ちしています。