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世界史:「串刺し公」ヴラド

今回は趣味の世界史のお話です。

もう何年も前のこと、巷で『ドラキュラZero』という微妙な邦訳タイトルの映画が公開されていました。英語タイトルはDracula –Untold–と、こちらはいい感じ。この映画では、史実を若干(本当にちょっとだけ)舞台として用い、実在したワラキアの領主ヴラドIII世、通称ヴラド・ドラキュラ公と吸血鬼伝説をミックスしたストーリーを展開しています。

では、実在のヴラドIII世はどんな人だったのでしょうか。映画の話をツマミにしつつ、この人物について語ってみます。映画に興味があって、まだ見ていないという方にとっては若干ネタバレになってしまいますが、たぶんストーリーを楽しむ材料にできると思うのでご勘弁を。

ヴラドIII世は、現在はルーマニアの一地方であるカルパチア山脈にある、15世紀のワラキアの領主でした。最初に書いたように、実在の人物です。映画では骨太の美男俳優ルーク・エヴァンスが演じていましたが、髭をたくわえた肖像画から見るに、もう少しいかつい風貌だったようです。

ヴラドIII世の肖像画 (https://en.wikipedia.org/wiki/Vlad_the_Impaler)

実は、彼の名前は「ヴラド」のみです。よく見られるヴラド・ツェペシュ(ルーマニア語: Vlad Țepeș)という呼び名は「串刺しにする者」ヴラドという意味です。またヴラド・ドラクレア(ドラキュラ)と呼ばれることも多いです。ドラキュラという通称は、父のヴラドII世が龍(ドラクル)騎士団に属していたことにより、龍の子という意味を持つドラクレアDrăculeaと呼ばれたことによります。

この名を用いたブラム・ストーカーの有名な作品が『吸血鬼ドラキュラ』なのはご存知の方も多いことでしょう。カトリックの影響によって龍=蛇と連想されたことで竜公ではなく悪魔公と解釈されてしまいましたが、本来は騎士団の名であり魔的な意味は持っていないのです。しかし、このことや性格の残酷さが不当に強調された経緯から(後述)、後世において吸血鬼伝説と融合していくことになりました。

映画ではヴラドIII世は軍も持たない小国である自領をオスマン・トルコのメフメトII世の猛攻から守るため、吸血鬼の超常的な力を手に入れる代わりに人間であることを捨てる悲劇的な英雄として描かれています。しかし、当たり前ですが、吸血鬼の部分は差しおいてもこれは史実とはかなり異なっています。

この時代のルーマニア、そして東欧の国々はまだ統一国家の体裁を取っておらず、小国家群の連合と呼ぶべき状態でした。それぞれの領主が互いに勢力争いを繰り返し、先に統一国家となったオーストリア、ハンガリーの脅威、そして東からはオスマン・トルコの侵攻に晒されている時期です。創作ではオスマン・トルコは単なる巨大な侵略者として描かれることも多いのですが、実はこれは単純化しすぎで、小国家群の領主らは時にはオスマン・トルコと連合して他の小国家を攻撃することもありました。

このような時代にあって、ヴラドIII世は他の領主、有力貴族を圧倒し、中央集権化を進めることで国家をまとめ、直轄の軍を組織して数度にわたるオスマン・トルコの攻撃を退けた。まさに戦略と外交の天才、そして臣民のみならず周囲の国家からも称賛された敬愛される領主だったのです。

では、なぜそのような名君が、残虐さと異常性をことさら強調されて描かれることになったのでしょうか? これには隣の強国ハンガリーの思惑が関係しています。カトリック国であるハンガリーは周囲の国家からオスマン・トルコに十字軍を送るべしという圧力を受けていました。しかし十字軍の敗退が続いたこの時期、ハンガリーとしてはそれはどうしても避けたかったわけです。

ところが、小国であるワラキアのヴラドIII世はオスマン・トルコを焦土作戦とゲリラ戦を駆使し、またオスマン帝国の内部紛争を利用して何度も退けていました。ちなみにヴラドIII世の「串刺し公」という異名は、オスマン兵の死体を串刺しにして林のように地面に突き立て、それを見たメフメトII世が完全に戦意喪失してワラキアから撤退したことによります。現代的視点からみると残虐な印象ですが、串刺し刑自体は当時の処刑として一般的であり、この時点では異常者のイメージはまだありませんでした。

十字軍を送りたくないハンガリーにとって、このような英雄の存在は実に目障りでした。そこでハンガリー王マーチャーシュI世は冤罪によりヴラドIII世を捕え、幽閉してしまったのです。ハンガリー側に道理がないことはもちろん誰の目にも明白で、このためマーチャーシュI世は発明間もない印刷技術を用いてヴラドIII世の人格を貶めるパンフレットを印刷配布しました。このネガキャンによって、名君は異常性格者の殺人鬼として貶められたというわけです。

ただし幽閉とはいえ、英雄であるヴラドIII世の行動の自由は保障され、マーチャーシュI世とともに式典などに参加することもありました。最終的にはカトリックに改宗することを条件に釈放されています。三たびワラキアの統治者として返り咲いたヴラドIII世ですが、改宗がきっかけで人心は離れてゆき、最期はオスマン・トルコとの戦いで戦死したとされています。

稀代の戦士にして軍師、外交的天才、冷徹な統治者にして名君であったヴラドIII世は、映画での熱く哀しく、そして力を欲する弱き英雄などではありませんでした。それでも、この映画は貶められた名誉を挽回するきっかけにはなったかなと思っています。個人的には、世界史のあやで悪者にされた人物を調べなおすのが好きで、今回もそんな文章でした。

(2022年9月1日)

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