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『機動警察パトレイバー2 the Movie』を摂取して

銀世界・東京にて

2020年3月29日、新型ウイルスの蔓延に伴う都市閉鎖が現実味を帯びてきた首都東京に、季節外れの雪が舞った。こんな状況にうってつけの作品はこれだと勧められ、その日私は『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)を鑑賞した。これがなかなか私にとっては衝撃的な作品であったので、Twitterで喚くに留まらずこちらにも書き殴っていこうと思いたったのだ。

本来ならば作品を見たことのない人のために、本作のあらすじやそもそもパトレイバーとは何ぞやといったことを先に書くべきなのだろう。だが、この映画は極めて複雑な構造の下に事件が経過していく。また「パトレイバー」というシリーズを語れるほど私に経験値がないため、古のオタクの方々から何かと鉄槌を喰らわぬとも限らない。そして何より、本作『機動警察パトレイバー2 the movie』は、およそ「パトレイバー」作品とは呼べない仕上がりになっている(この点だけは多くの諸氏が同意してくれるはずだ)。したがってそういう部分はここでは割愛し、ただただ私の抱いた考えのみを、字数の許す限り吐き出していこうと思う。

(追記)
劇パト2の4DX上映に合わせ、本記事も踏まえて新たに気づいたことを書き記した以下の記事もぜひご一読いただきたい。



以下ネタバレ注意。


平和の中身

私が本作で最も注目したシーンは、後藤隊長と荒川の東京湾上での会話だ。ここで荒川は、当時の現代史の過程を踏まえて日本の歪んだ平和を説いている。先の大戦を終えてなお世界情勢は沈静化するどころか、冷戦という新たな対立構造の下に様々な形で戦争が繰り返されてきた。その中で日本は戦争には身を投じず、経済成長を続けた。そんな日本を荒川は正義の戦争に対する「不正義の平和」と述べる。正義の戦争と不正義の平和、両者の差は曖昧だ。平和こそ正義と騙り、戦場から目をそらし続ければ、やがてその空疎な平和は実体としての戦争によって埋め合わされることになると。

本作の公開された1993年とは、今振り返ってみれば大変に奇妙な時代である。当時日本はすでに先の大戦から半世紀近くが過ぎようとしていた。冷戦は数年前に終結しソ連も崩壊。だが湾岸戦争をはじめ戦争はいまだ起こり続けている。バブルは弾け底の見えぬ不況の沼へ足を踏み入れ始めた。一方で阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、9.11はまだ起きておらず、人々はテロリズムに触れることはなく、都市における大混乱を経験したこともなかった。平和とは何なのかを考えるにはうってつけの時代だったのかもしれない。この街の平和はあまりにも身近であまりにも実感のないものだった。その空疎な平和というまぼろしを人々に理解させるために、本作の黒幕・柘植行人は首都東京での戦争状態を演出するという行動を起こしたのである。

まぼろしの戦争

本作は「パトレイバー」シリーズ最初の作品であるOVA版『アーリーデイズ』5・6話のセルフリメイクだと思われる。シナリオは大きく変わっているが、その共通項は自衛隊のクーデターという点だ。間違いなく二・二六事件のオマージュである。劇中でも2/26という日付が確認できた(私が雪の東京で鑑賞を勧められたのはこれが理由である)。ここが本作における戦争の特異な部分の一つである。戦争の最も代表的な例は国家間戦争だろう。外敵からの都市攻撃。だが柘植は戦争の形として内部からのクーデターを採用した。これにはどのような意味があるのか。

第一には対外戦争の演出の難しさがあるだろう。国家間の戦争状態を偽装するには、手を回さねばならない関係各所があまりにも多い。またただちに東京が戦場になる可能性も低い。これに対して自衛隊によるクーデターは国内の、それも人々の暮らしのすぐ隣に戦争の震源があり、強烈な危機感を与えることになる。

そして最も本作で重要視されたのは疑心暗鬼という状況を生み出すことにあるだろう。そもそも事件の発端は横浜ベイブリッジにおける爆発事件であったが、自衛隊機に似た正体不明の機影が映像に写りこんでいたらしいというだけで、犯人は誰なのか、本当に戦闘機は飛んでいたのか、そもそも本当にミサイルによる爆発だったのか、このような憶測飛び交う中で警官隊の一部が自衛隊を刺激したことに事件拡大の原因があった。

また自衛隊のクーデターといってもすべての部隊が決起したわけではない。一部の駐屯地の部隊が強硬な立場を取っただけであり、そもそも基地に立てこもっただけで武装蜂起すらしていない。それでも国防を担い武器を所持している彼らが指示に従っていないという状態だけでも、政府や人々にとっては脅威となる。政府が信頼できる自衛隊部隊によって籠城する部隊を包囲し、兵装を持たない警察は排除される。サラリーマンたちの歩くスクランブル交差点の脇に戦車が佇む。街に蔓延る自衛隊員の中で決起思想を持つものがどのくらいいるのか、全くもって分からない。そんな光景を目の当たりにした人々は、見えない敵との、極めて近い「戦争」を感じることになった。だがそれはすべて柘植によって偽装された戦争であった。

一方で黒幕である柘植との対峙であると考えたとき、これもまた戦争とは言えぬ状態であることが見えてくる。柘植は東京を戦争状態に見せかけること自体が目的であり、その先に何か達成目標があるわけではない。つまり柘植が決起した時点でその目的は達成されており、戦いの果てに何か目標のある戦争や目的達成の手段として攻撃を行うテロリズムとは明確に異なっているのである。そういった点でも、この街で繰り広げられているのはまさに「まぼろしの戦争」だったのだ。

「戦争」の現実性

私がもう一つ注目したシーンは、物語終盤に幻の地下鉄銀座線新橋駅で後藤たちが荒川を逮捕する場面である。荒川はかつて柘植の同志であり実力行使に動いた彼を秘密裏に止めるため特車二課に近づいていた。そんな荒川に対して後藤はこんな言葉を口にする。

「荒川さん、あんたの話面白かったよ。欺瞞に満ちた平和と真実としての戦争。だがあんたの言う通りこの街の平和が偽物だとするなら、奴が作り出した戦争もまた偽物に過ぎない。この街はね、リアルな戦争には狭すぎる」

偽物の平和というまぼろしを人々に実感させるために柘植は戦争という非常状態をぶつけた。だが後藤に言わせれば柘植が作り出した戦争もやはりまぼろしであるのだ。そして東京という街は現実的な戦争を繰り広げるには向いてないという。これに対して荒川は、

「戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ」

と反論する。戦争はいつだって非現実的。この言葉は先ほどの東京湾のシーンでの「実体としての戦争」の言説に矛盾する。あるいは戦争という行為そのものは確固たる存在であったとしても、実際の戦闘の様子や人々の生活への影響といった戦争の中身は、およそ確実性・現実性を伴って経過するわけではない、ということだろうか。

戦争の現実性というこのテーマについては、当時押井守監督が強く影響を受け本作制作のきっかけにもなったという『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に対する一種の答えではないかという意見を先輩からいただいた。たしかにガンダムシリーズをはじめ戦争をテーマとして扱う作品は多いが、ほとんどは戦争行為そのものに対する反戦をメッセージとしていたり、戦争の強烈なインパクトを伝えるために日常では考えられない壮大な戦闘シーンを演出していたりする。それに対し本作では徹底してリアルな、そして決して都合のよくない展開が描かれている。主人公たちの警察組織が治安維持から排除されてしまうこと。警察保有のレイバーでは軍事用レイバーに敵わないこと。情報収集は常に後手後手に回ってしまうこと。戦闘シーンは極めて少なく、疑心暗鬼の渦巻く都市社会に焦点を置いていること。これらの表現は、砲弾飛び交う戦場のようなイメージこそまぼろしであり、実際の戦争の泥臭い現実性を強調しているようにも思える。そしてこの戦争もまた柘植によって偽装された戦争であり、さらに言えば所詮は押井監督の手による映画作品の中での戦争に過ぎないというメタ的要素をも含んでいるのが面白いところだ。

蜃気楼のような

先ほどの新橋駅のシーンで、後藤は最後に荒川に向けてこう放つ。

「なあ、俺がここにいるのは俺が警察官だからだが、あんたは何故柘植の隣にいないんだ」

これこそが荒川の言説に対する後藤の答えであり、物語を通してのメッセージであると私は思う。一時は柘植の同志でありながらやがて離別し、空疎な平和と実体としての戦争を説きながらも、自らの立場を最後まで確立できなかった荒川は、いわばこの街にうつろうまぼろしであったわけだ。荒川は東京湾のシーンの前に自分の服装についてこう述べていた。

「地味ならいいってもんでもなくてね。敵とは異なっていながら、しかも目につきにくい服装ってのは難しいもんさ。俺の仕事では、それが特に重要でね」

後藤のような派手な制服とは対照的に、他者とは違う自意識を持とうとしながらも大衆に紛れ見えなくなってしまう、彼の曖昧な立場をよく表現している。

偽装された平和というまぼろしと、柘植によって作り出された戦争というまぼろし。今この街の構図はまぼろしで覆われてしまった。柘植の言葉を借りれば蜃気楼である。だけどその中で生きる人間は決してまぼろしではない。まぼろしの中でもそれを現実として生きる人々がいる。その営みすらもまぼろしと断じてかき消してしまえるわけがない。なんとも綺麗でどこかすっきりとした結末だ。

確かなるもの

一方で現代を取り巻く問題が解決したわけではない。柘植は劇中で次の文句を引用している。

我地に平和を与えんために来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
然らずむしろ争いなり
今からのち
一家に5人あらば
3人は2人に2人は3人に分かれて争わん
父は子に、子は父に
母は娘に、娘は母に……

   ──ルカによる福音書 第十二章五十一節

これは、地に降り立った神の子が単なる平和をもたらしに来たのではなく、人間の変革とそれに伴う闘争をもたらしに来たのだという意にとれるだろう。となれば柘植の行動の途絶は、争いを伴ってでも、あるいは争いによって成就されるはずだった神の子のような理想が失われることを意味する。すなわち未来への課題は依然として健在であるということである。

本作公開から25年以上経った今、世界はどうだろうか。今我々の暮らしている社会は、「曖昧」の一言で表すことができる。有耶無耶にされた労働条件や労使関係の下に人間を使役する企業。研究機関とハローワークの境目を彷徨う大学。不明瞭な定義に置かれ続けながらの国防を任された自衛隊。解釈を改めるというあやふやな手続きによって目的を遂行しようとする政権。最近では「自粛要請」などという曖昧な言葉も飛び交っている。

その中で生きる我々はどうだろうか。荒川のようなまぼろしになってはいまいか。自分が今この場に立っている理由を即答することはできるか。きっととても難しいことだと思う。だがたとえ蜃気楼に包まれようとも、自分自身という存在だけは、その影だけは保っていたいものだ。そう感じる作品であった。

君は今、「確か」か――?

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