![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/152592634/rectangle_large_type_2_a42ecd68083206ab0026ae3fd1c971a3.jpg?width=1200)
【創作】糸を切る 終
「やめて、切らないで。」
彼女は、自身の体に巻き付く糸を切る私に、弱く今にも消えてしまいそうな声でそう言った。
「どうして?」
「私が我慢すれば、全部終わるから。」
そうだった。幼い頃から、私が我慢すれば、場の空気がそれ以上悪くなることは無かった。でも、我慢するだけではダメで、我慢していることを悟られてはいけなかった。我慢していることを悟られれば、誰かが気を遣い、誰かが自分のために気を遣ったことを他の誰かに責められた。誰かに気を遣わせるくらいならはじめから言え、と。
なら、あの時私が自分の気持ちを言ったら、あの人は受け止めてくれたのか?いや、無視するか、面倒くさそうにしただけだろう。そんなの分かっていた。だから、我慢しているのではなく、あくまで私がしたいように生きた結果、場が丸く収まっている、というふうに振る舞っていた。
物分りのいい子供、物分りのいい女、物分りのいい後輩、都合のいい先輩、当たり障りのない人でいることを選び続けてきてしまった。
糸を切ることは、そんな私の選択を切ることになる。私は彼女を抱きしめた。私の着ている白い服に、彼女の血が滲んでいった。
「そうだよね。私が我慢すれば、全部丸く収まっていたよね。でもね、このままじゃ私自身が壊れる。そしたらこの糸が切れないまま、他の誰かに絡みついていく。だから私が我慢するんじゃなくて、私が切らなきゃいけないの。」
そう言って彼女の体に無数の傷をつける糸を切っていった。
全て切り終わると、傷だらけの皮膚がよく見えるようになってしまった。
「なんか、醜いね、私。」
「醜くなんかないよ。」
「あと、ちょっと不安かも。」
「どうして?」
「糸があったから、隠せていたものもあったんだと思う。」
我慢することで、自分の本音を隠していた。それは必ずしも苦しいことではなかった。我慢することに慣れれば、人にバレたくない心の奥の汚い感情も隠すことが出来たのだ。だから、糸のない今、彼女を、私を隠すすべがない。
「大丈夫。伝え方さえ間違えなければ、本当のことを言っていいんだよ。やりたいことも、行きたいところも、何も我慢しなくていい。自由になっていい。」
私がそう言うと、彼女は傷だらけの顔で笑ってみせた。彼女の顔を見て安堵した瞬間、見えていた景色が白く霞んでいった。
気がつくと、外の景色はすっかり夕暮れ時になっていて、スマホの画面を見ると、30分前に母からの着信があった。
母からの着信で起きなかったのはいつぶりだろうか。こんなにも心が穏やかな時間は、いつぶりだろうか。
『ごめんね、寝てた。急ぎならかけ直すよ。』
念の為、母にメッセージを送る。
『いいのよ。いつも朝早くに起こしてしまってごめんね。病院、行くことにしたから。安心して。』
母が通院する。すぐは治らないかもしれないが、母の症状も少しは軽くなるかもしれない。その安堵からか、体の力が全て抜けて、また仰向けになった。カーテンの隙間からオレンジ色の光が糸のように伸びている。その光に手を伸ばしてみる。もうこの糸は、私を苦しめる糸ではない。優しくて、温かい糸だ。辿った先にはきっと、幸せを怖がらない私がいるはずだ。