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【創作】糸を切る 終

「やめて、切らないで。」

彼女は、自身の体に巻き付く糸を切る私に、弱く今にも消えてしまいそうな声でそう言った。

「どうして?」

「私が我慢すれば、全部終わるから。」

そうだった。幼い頃から、私が我慢すれば、場の空気がそれ以上悪くなることは無かった。でも、我慢するだけではダメで、我慢していることを悟られてはいけなかった。我慢していることを悟られれば、誰かが気を遣い、誰かが自分のために気を遣ったことを他の誰かに責められた。誰かに気を遣わせるくらいならはじめから言え、と。
なら、あの時私が自分の気持ちを言ったら、あの人は受け止めてくれたのか?いや、無視するか、面倒くさそうにしただけだろう。そんなの分かっていた。だから、我慢しているのではなく、あくまで私がしたいように生きた結果、場が丸く収まっている、というふうに振る舞っていた。

物分りのいい子供、物分りのいい女、物分りのいい後輩、都合のいい先輩、当たり障りのない人でいることを選び続けてきてしまった。

糸を切ることは、そんな私の選択を切ることになる。私は彼女を抱きしめた。私の着ている白い服に、彼女の血が滲んでいった。

「そうだよね。私が我慢すれば、全部丸く収まっていたよね。でもね、このままじゃ私自身が壊れる。そしたらこの糸が切れないまま、他の誰かに絡みついていく。だから私が我慢するんじゃなくて、私が切らなきゃいけないの。」

そう言って彼女の体に無数の傷をつける糸を切っていった。

全て切り終わると、傷だらけの皮膚がよく見えるようになってしまった。

「なんか、醜いね、私。」

「醜くなんかないよ。」

「あと、ちょっと不安かも。」

「どうして?」

「糸があったから、隠せていたものもあったんだと思う。」

我慢することで、自分の本音を隠していた。それは必ずしも苦しいことではなかった。我慢することに慣れれば、人にバレたくない心の奥の汚い感情も隠すことが出来たのだ。だから、糸のない今、彼女を、私を隠すすべがない。

「大丈夫。伝え方さえ間違えなければ、本当のことを言っていいんだよ。やりたいことも、行きたいところも、何も我慢しなくていい。自由になっていい。」

私がそう言うと、彼女は傷だらけの顔で笑ってみせた。彼女の顔を見て安堵した瞬間、見えていた景色が白く霞んでいった。

気がつくと、外の景色はすっかり夕暮れ時になっていて、スマホの画面を見ると、30分前に母からの着信があった。

母からの着信で起きなかったのはいつぶりだろうか。こんなにも心が穏やかな時間は、いつぶりだろうか。

『ごめんね、寝てた。急ぎならかけ直すよ。』

念の為、母にメッセージを送る。

『いいのよ。いつも朝早くに起こしてしまってごめんね。病院、行くことにしたから。安心して。』

母が通院する。すぐは治らないかもしれないが、母の症状も少しは軽くなるかもしれない。その安堵からか、体の力が全て抜けて、また仰向けになった。カーテンの隙間からオレンジ色の光が糸のように伸びている。その光に手を伸ばしてみる。もうこの糸は、私を苦しめる糸ではない。優しくて、温かい糸だ。辿った先にはきっと、幸せを怖がらない私がいるはずだ。

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