02 赤マント
夜更けし帝都の街並みを、駆け行く怪しの赤マント。月光眩しと見あぐる顔は、恐ろし邪悪の白仮面。可憐な少女を小脇に抱え、鮮やかコルトのガンさばき。唸る銃声。伏すは官憲。たちまち上がるは土煙。
「諸君。外れたのではない。外したのだよ。今度会うまで、その命預けておこう」
響く怪異の笑い声。忽然と、消えたる魔人の影帽子。
「どこだ」
「どこにいる」
「警部、あそこです」
指さす先にアドバルーン。下がるロープに影二つ。
「撃つな。ご令嬢の命が大事だ」
無念と見上げる視線の果てに、闇にはためく赤マント。
「おのれ、魔人め」
「警部。よくぞこの赤マントを、ここまで追い詰めた。褒めてやろう。総監に伝えておけ。令嬢を返して欲しくば、"ジャガーの涙"を用意しておけ、とな。うははははははははははは」
またもや取り逃した赤マント。
さらわれし令嬢の運命やいかに。
魔人赤マントの狙う"ジャガーの涙"とは。
謎が謎を呼ぶ。
次回、風雲急を告げる新展開。乞うご期待。
今日はここまで、さーよーおーなーらあー。
ジャム煎餅か水飴を片手に、息を飲んで見入っていた子供らは、詰めた息をふーと吐き出し、思い出したように拍手する。そいつらをかき分けかき分け、興奮してワシは前にでる。
「おっちゃん。赤マントどこ行った」
「今度今度。また今度」
「コルトってなんじゃ?」
「鉄砲の名前じゃ」
自転車の荷台に紙芝居を片付けながら、うるさそうにおっちゃんが言う。
「アドバルーンて風船か?」
「そうじゃ、絵に出てたろうが」
「後ろにおるけえ、よう見えんのじゃ。ジャガーちゃ、なんか?」
「動物じゃ」さすがにおっちゃん片付けの手をとめる。「お前、煎餅も買わんと、文句ばっかり抜かすな。あっち行け。営業妨害じゃ」
「もう、終わりじゃろうが。営業しちょらんで」
「口のへらんクソ餓鬼。くらわすぞ!」
ワシはわぁっと声を出して逃げ出す。ゲンコが飛んでくるのを知っているからだ。当時はほんとにぶん殴られた。
紙芝居の最中、前に座れるのは、ジャム煎餅や水飴を買った者だけだ。小遣いのないワシは、その後ろに追いやられ、紙芝居もよくは見えない。ので、終わると同時に、おっちゃんの前に殺到し、おっちゃんを問い詰めたのだ。
もとより金も出さないただ見の客に、優しくするいわれはない。紙芝居の途中も、ワシはおっちゃんの目を盗んでは前に出て、そのたびシっシっと追い払われた。
紙芝居屋がいってしまってからも、子供らの興奮は治まらない。
「今度っていつじゃろうか」
「土曜かの。日曜かの」
「俺、黄金バットんときは、虫取りしよって続き見れんかった」
「俺も、拍子木、聞こえんかった」
子供らが口々に騒ぐ。
紙芝居屋は、客集めのため、始める前に、拍子木を叩いて町中を流す。見たい子供はついていく。だから、気がつかなければお終いである。今度、いつ見られるかはわからない。紙芝居屋はいつも気まぐれにやってきた。
「いらんこと言わんで、次いつ来るか聞きゃあよかったの」
ワシは頭で反省し、小学校の校庭に急いだ。5.6年生がそこで野球をしていたからだ。
「研二、遅せーぞ!」
「ごめんなー。紙芝居見よった」
「ええ加減に卒業せえよ」
紙芝居の演目は黄金バットか墓場鬼太郎の二つで、ほんとに時々赤マントがはいる。シリーズもののはずなのに、なぜかどれも一話分しかなく、それが延々繰り返される。子供は野球やメンコや山歩き、遊ぶことがいっぱいあったので、大概歯抜けで紙芝居を見るが、そのうち一通りは見てしまう。だから、5.6年の上級生になると、自然と紙芝居から卒業するのだ。
しかし例外がいた。ワシは違った。何度見ても面白かった。おんなじ場面で手に汗握った。おんなじ場面で心が躍った。
何度見たって飽きなかった。
紙芝居の方にも例外があった。赤マントだ。めったにかからないので、お終いまで筋を言える者はいなかった。ということは、全編見たものは誰もいないということだ。
それが今日、久々にかかった。
「与いっちゃん。事件事件」
一番近くにいた6年生に話しかける。
「なんじゃ」
「今日、赤マントやりよった」
「なんじゃ、それ」
「じゃから、赤マント赤マント。おぼえちょらんの」
紙芝居を卒業した者は、当然赤マントにも関心がない。
「ええから研二、ライト行け!」
どうしてあのオモロさがわからんかな。首を捻りながら、ワシはライトに走った。
日本の一大財閥の総裁、四菱佐介の白亜の豪邸の前に、明池警部と大林刑事は立っていた。
見上ぐる伽藍。玄関の両脇には、大理石の獅子像が、襲い掛からんばかりに二人を迎える。カツカツと重厚な扉を真鍮の呼び輪で叩くと、重々しく扉が開いた。
「お待ちしておりました」
品格を備えた老人が恭しく頭を下げる。
「警視庁特別捜査官の明池です」
「同じく大林です」
老人は二人を屋敷の奥へと案内する。
「どうぞ。旦那様がお待ちです」
通された50畳はある広間の奥に、椅子に腰かけて四菱佐介が待っていた。
臆することなく明池が進み出る。
「"ジャガーの涙"を、お預かりしたく参上しました」
「手紙を」四菱が言う。
老人が差し出した手紙は、まごうことなき魔人赤マントからの挑戦状であった。
ーー四菱総裁。安心したまえ。ご子息の許嫁、井之頭伯爵のご令嬢節子様はご無事だ。
ついては提案だが、あなたがお持ちの"ジャーガーの涙"を頂戴したい。頂戴した暁には、すぐに令嬢をお返ししよう。
場所はザビスコ教会。
時刻は○日午前0時。
明池警部に再会を楽しみにしていると伝えてくれたまえ。
ーー魔人赤マント
続いて、老人は手にした宝石箱を開ける。と、そこには、シャンデリアの灯りに輝く世界最大のダイヤモンド。
「"ジャガーの涙"、確かにお預かりいたします。必ずや魔人赤マントをこの手で」
受け取った明池警部は、四菱総裁に、赤マントの逮捕を誓うのであった。
どうなる。どうなるんだ。今回はおっちゃん詰め寄ることもなく、物語の余韻に浸った。
三々五々、子供達は立ち上がる。
「黄金バットの方が面白くね」
「なかなか話が前いかん」
「対決見たいんじゃけど」
「なんかつまらんのー」
明らかに前回よりも熱が薄れている。
「50円でせんべいは高いでよ」
「山田屋でこうたら30円じゃ」
「後ろでただ見しとるやつもおるしな」
学年が下のくせして生意気な。シメたろうかと思ったが、こいつの兄貴は中学生だったと思い出し、聞こえないふりをする。
そうなのだ、赤マントは人気がない。話も単純ちゃあ単純だ。女の子を誘拐してダイヤモンドを手に入れる。が、結局は失敗して、再びの対決を約束して去ってゆく。その後、誘拐された女の子は無事発見される。
子供でも先が読める物語が、やたら長い。いや、長くはないが、活劇シーンが短くて、出てくる人間がべちゃべちゃ喋るシーンがやたら長い。だから、全体間延びする。展開が遅く感じる。要するに、大多数の子供からしたら退屈になる。面白くない。証拠に、集まる人数も減ってくる。
みんながはけた後、おっちゃんに近づいた。
「なんだ、この前のクソ餓鬼か。なんか用か。赤マントの先を訊いても答えんぞ」
「子供へったなあ」
「赤マントがつまらんのじゃわい。俺のせいとは違う」
「ワシは面白いけどな」
「金も出さんやつが面白がっても、詮無いわ」
「なあ、おっちゃん。次も赤マントの続きやるよの」
「まあ、約束はできんな。餓鬼が集まらんと、商売あがったりじゃ」
「50円が高いんと違うか」
「いやなら見るな」
「30円くらいにしたらええ」
「馬鹿。赤字じゃ」
おっちゃんは片付けを終えると、自転車で行ってしまった。
「30円でええじゃろ」
ワシは一人ごちした。
「警部。私がどうして"ジャガーの涙"か欲しいのか、教えてあげよう。"ジャガーの涙"は、人間の欲望そのものだからだよ。"ジャガーの涙"の前に、人々は血を流し、涙を流し、信頼を踏みにじり、裏切りを行った。家族の愛は失われ、友情は憎悪と化し、正義は地に落ちた」
「赤マント。お前に正義を語る資格はない」明池が叫ぶ。
「面白い。実に面白い。では、警部に訊こう。おまえの正義とは何だ」
「法と秩序を守ることだ」
「素晴らしい。実に官憲らしい答えだ。全くもって素晴らしい。では、それならやはり、"ジャガーの涙"は私が頂かねばなるまい」
「どうしてだ」大林刑事が叫ぶ。
「"ジャガーの涙"は法と秩序を乱すものだからだよ。この世界最大のダイヤモンドのせいで、どれだけの法が破られ、どれだけの秩序が乱されたか、君らとてまさか知らないわけではあるまい。どうだね」
月光に鈍く煌めくステンドグラスを背に、赤マントの影が揺れる。差し上げられた右手には、怪しい光を放つ"ジャガーの涙"。
十重二十重に取り囲んだ警官達は、警部の「確保」の合図を、今や遅しと待ち構える。
絶体絶命の赤マント。果たして、水一滴も漏らさぬ包囲網から脱出できるのか。未だ行方知れずの令嬢節子の安否は。
次回、風雲急を告げる新展開。乞うご期待。
今日はここまで、さーよーおーなーらあー。
拍手はない。今回は盛り上がった方なのに、拍手がまるでない。すかすかに集まった子供らは次々と不満を口にする。
「また今日も"のうがき"か」
「つまらんのー。おっちゃん、次は黄金バットせえよ」
「そうじゃそうじゃ。赤マントはつまらん。何言うとるかわからん」
「おっちゃん、なんねチツジョって」
「言うてみい。チツジョちゃあ、なんか」
非難殺到である。堪らずおっちゃんも反撃にでる。
「うるさい。チツジョいうたらチツジョじゃ。わからんかったら、学校の先生に教えてもらえ。クソ餓鬼が」
「なにお。50円も出して、こんなペラッペラっのせんべい食わしといてから、紙芝居もつまらん。おっちゃん、それでよう商売やるのお」
「口のへらん餓鬼じゃ。くらわすぞ」
わあ、と子供らが散っていく。たぶん暫くは紙芝居屋は来ないだろう。来てもやるのはたぶん黄金バットだ。赤マントの続きを見られるチャンスは永遠になくなるかも知れない。
心配でワシも近づいて声をかけたが、うるさいわ、と一喝されて自転車は去って行った。
紙芝居屋は来ない。だから、赤マントの続きも見られない。悶々と数ヶ月を過ごしたのち、急転直下、光が見えた。紙芝居屋の家がわかったのだ。何でも、三丁目の商店街の外れ、床屋の角からドブ川沿いにちょっと入った長屋の一つに紙芝居屋が住んでいるという。教室で何かの拍子に紙芝居屋の話になって、友達の井田が突然言い出した。
「あの台風たんびに水かぶるとこか」
「また、えらいとこ住んどるなあ」
友達が喋る言葉は上の空で、ワシは一人で興奮した。
やっと赤マントの続きが見れる。百円だしたら文句はなかろう。何なら二百円だしたって。
ワシは学校が引けてすぐ、お年玉でもらってずっと手をつけなかった百円札をポケットに捩じ込み、紙芝居屋を目指した。
案の定、酷い建物で表札もなかったが、見覚えのある自転車が杭にくくりつけてある引き戸を見つけ、おっちゃん、おるかあ、と戸を開けた。
「なんじゃあ」
と、シャツにステテコ姿で横になり、ひとりで酒を舐めていたおっちゃんが、頭だけねじってこっちを向く。
「だれじゃ、お前。ああ、いつもの鼻タレか」
「おっちゃん、紙芝居の続きやってくれ」
「あほか」
と頭を戻す。
「金ならあるぞ」
頭をひねってこっち向く。
「50円ある」
「あほか」
頭を戻す。
「百円まで出してええ」
頭はそのまま。
「ええい。二百円だすわ。もう続きが気になって気になって仕方ないんじゃ」
頭がこちらを向く。
「お前何年じゃ」
「6年じゃ」
「小学校も卒業しようちゅうもんが、紙芝居紙芝居言うて、あほか」
「どうじゃ、紙芝居、見せるんか見せんのか」
「俺はやらんぞ。見たかったら、勝手に見い。百円じゃ」
「見るだけで、百円か」
「二つ見るなら二百円じゃ」
「クソじじい!」
わしは百円、畳に放って、部屋に上がり、隅に立て掛けてあった紙芝居の束ににじりよった。
「おっちゃん。見るど」
手にかけてめくる。
「順番、変えるな」
いつもの黄金バット、墓場鬼太郎。
が、赤マントがない。
「おっちゃん。赤マントは」
「ああ、あれは人気がねえから返した」
百円札をステテコにしまいながらおっちゃんが言う。
「赤マント見に来たんじゃ。返したってなんか。どこへやった。どこへ隠した。どこへやった」
「この餓鬼。くらわすぞ」
ひるまずワシはおっちゃんにむしゃぶりついた。ワシはおっちゃんにぶん殴られて、外へ叩き出された。
「クソじじい! 赤マント見せろ。百円返せ! 泥棒!」
わめいていると、隣の戸が開いた。
「うるせえんじゃあ!」
出てきたのは、うちの母ちゃんくらいのおばちゃんだった。母ちゃんくらいのおばちゃんなのに、白粉を塗って紅を引いていた。
有無を言わせず、ワシの首根っこを掴んで、家に引き摺り込む。それから上り框の向かいにある台所の水道を全開にして、頭から突っ込まれた。
「男ん子がビービー泣くな。みっともない」
ビックリして涙が引っ込むと、おばちゃんは水から引き剥がし、タオルで頭を拭きながら事情を聞いてくれた。
「それはお前が悪い」
「なんで」
「金を先に渡すやつがあるか」
すごい言いようだったが、なぜかおばちゃんの勢いに押された。それで。違うことを言った。
「赤マントの続きが見れんのが無念じゃ」
「無念か。難しい言葉をしっちょるの」
「紙芝居で覚えた」
おばちゃんは、あははと笑い、頭を撫でた。
「坊主。見られんでよかったと思い」
「なんで」
「全部見たら、それで終いじゃ」
「当たり前じゃ。終いまで見たいんじゃ」
「終いまで見れんなら、その先は坊主が考えたらええ」
「むちゃくちゃ言うな」
「ああ、無茶苦茶じゃ。でも、その方が面白かろう。なんでもありじゃ。なんでも坊主の思った通りじゃ。面白かろう」
おばちゃんは、ワシの頭をすっかり拭くと、尻を一発叩いた。
「紙芝居屋の親父のことは忘れい。百円も諦めい。絶対返ってこん。じゃが坊主、赤マントがそんなに好きなら、先を自分で考えい。泣いてもつまらんばっかりじゃ」
おばちゃんは、尻をも一発叩いて、もう帰り、と言った。
「もうここには来んなよ」
帰り道、悔しくて悔しくてまた涙が出そうになった。が、何故かおばちゃんの言葉が蘇って、泣くのを我慢した。それからおばちゃんの言う通り、赤マントの先を考えた。
赤マントは官憲の包囲網から煙のように消え去り、教会の懺悔室から井之頭節子は救出される。だが、消えたのは赤マントだけではなかった。明池警部もまた、ザビスコ教会から忽然と消えたのだ。
「大林刑事。警部はどこに行ったのでしょう」部下が訊く。
「警部はきっと赤マントの根城に行ったのさ。赤マントと警部の闘いは、これからが本番だ。諸君、警部からの連絡を待て!」
了