今は昔・竹取物語
今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
問題です。
問一、翁が光る竹を見つけたのは、どの時間帯でしょーか?
問ニ、姫は、なんで竹の中にいたのでしょーか?
問三、問一と問ニの答えの共通点は、なんでしょーか?
解答です。
問一、夕方です。光ってるのに気づくからです。夜は仕事に行かないからです。
問ニ、竹はヘンテコな植物だからです。不思議は不思議に宿るのです。
問三、共通点は「どっちつかず」「境界」です。
解説。
昔の日本人は、不思議は境界に起こると考えていた。
怪異は村外れで、道の二股で、起こる。
なので、村の境界に、大草鞋を下げたり、道の二股に道祖神を祀ったりした。
うちの村にはこんなでっかい奴が住んどるぞ!帰れ帰れ!
旅の神様、旅の安全をお守りください。どうか。どうか。
では、1日の中で怪異が起こるのはいつ頃か。それは、人の見分けもつかぬ頃。「誰そ彼?」、「たそがれ」、夕暮れ。昼と夜の境界。
光る竹を見つけるのは老人。翁は生と死の境界にいる。
翁の仕事は竹取。職人は、尊敬と軽蔑の境界にいる。その技に驚嘆され、その技故に、楽をしてると軽んじられる。
竹は、木と草の境界にある。
竹は木ではなく草でもない。竹は木であり草である。
それ故に、竹は自在にしなり、不思議にも、様々のものに姿を変える。なにものでもあり、なにものでもない。
境界は「どちらでもない」。「どこにも属さない」。
土地で言えば、無縁、自由、避難、聖域、の場所。
人で言えば、身分外、令外、人でなし(文字通り人でないもの)、逃亡者のいる場所。
顔の見えない竹取の作者は、この不思議の物語に入る前に、絶妙な舞台設定を施した。
やがて現れる五人の貴公子は、真と嘘の狭間で揺れる。そこから様々の言葉が生まれる。
姫は月に帰る帰らぬの狭間で揺れる。そこから様々の感情が生まれる。
生まれた出たものは不死である。命は滅ぶ(不死の薬は焼かれる)が、言葉は残る。思いは残る。そして人はそれを営々と語り継いでゆくのである。
物語はそう語る。誠に、竹取は、物語の祖(おや)に相応しい内容なのである。