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【短編小説】海辺の町(inspire「海辺の恋」)
その夏、着想を求めて旅をしていた。電車が海岸線にかかると、手にした地図で港を探した。海辺の景色を画題にしたかった。気になったところで下りて、港に向かう。幾枚かスケッチして、町を歩く。そんなことを繰り返すうち、瀬戸内のこの町に辿り着いていた。
港には、多くの漁船が係留されていた。そこらじゅう潮と魚のにおいで充満している。桟橋を海に向かって歩く。正午の太陽が肌に痛かった。遠く水平線をゆっくりと船がゆくのが見えた。
振り返ると港町が見渡せる。右手に、まだ古い町並みが残っているようだった。道沿いに歩くと、寺に向かう参道があった。行き着けば、時宗の寺とわかった。鎌倉時代だったか一遍上人の開いた宗派で、今はあまり聞かない。踊り念仏が有名だけれど、見たことはない。寺自体も、もう廃れてしまっているようだった。
寺から下るとき、別の道すじがあって、辿ると、道の両脇に、忘れられたような木造の二階屋が続いている。昔の色街だとピンと来た。空き家も多く傷んでいる家も多いけれど、作りは同じで、一階部分は大きく窓が切ってある。中に格子がはまっている家もある。二階には、露台と言うのだろうか、窓に手すり付きの張り出し部分があった。座って外を眺めるのにはよい作りだ。遊女がここに座って、寺に参る旅人やら浜に上がった漁師やらを誘っていたんだろう。
「お兄さん、絵を描くの?」
頭上から声がした。驚いて振り向く。見上げると、二階の露台に若い女性が座っていた。浴衣を着ている。浴衣には、紫の朝顔の絵が上品にあしらってあった。
僕は持っていたスケッチブックを持ち上げて軽く振って応えた。
「お祭りでもあるんですか」
「どうして」
「だって、浴衣だから」
女性は笑った。よく見ると、顔はまだ高校生くらいのあどけなさだった、
「普段着。寝巻きなの」
「へえ、綺麗ですね。よく似合ってる。絵を描いてあげましょうか」
「絵描きさんなの?」
「そうですよ」
話していると、少女の後ろから女性が顔を出す。母親だろうか。少女が母親を見上げて訴える。
「絵描きさんなの。私を描いてくれるって。いい?」
母親は娘には答えず、直接僕に返事した。
「有難うございます。でも、知らない方を、家にあげるわけにはいきませんから」
と、まあ当然の返答だ。でも、僕はこの町並みに少女の姿を入れてみたかった。
「お兄さんは、有名な絵描きさん?」
母親の言葉には無頓着で、少女は勝手なことを訊いてくる。母親も別にそれを止めようともしない。
「有名じゃないけど、なんとか絵だけで食べてはいけてる」
挿絵、イラストの広告仕事込みでね、と心の中で付け加えた。
「へえ〜、芸術家さんなんだ」
少女は感心してくれる。母親も話を切り上げさせるでもなく、好きにさせている。ちょっと面白くなって、お喋りを続けることにした。
リュックを下ろして、付けていた簡易椅子を出す。日陰に移って、スケッチブックを広げた。話しながら少女を描くことにする。
「何してるの」
「君と町並みをスケッチしてる」
少女が母親を見上げて、ふふふと笑う。
「お母さん、いいですか」
「まあ、写真じゃないし、この娘がいやでなけりゃあ」
少女は僕にもよく見えるように頷いた。
「どうぞ。よく描いてね」
「描けたら見せてあげるよ」
また少女が母親を見上げる。母親が代わりに答えた。
「家にはあげられませんよ」
「わかってます。できたら下の郵便受けにでも入れておきましょう」
少女は両手を組んで、
「素敵」
と言った。
鉛筆を走らせる。木造家屋の焼杉と、少女の抜けるような肌の色と、美しい絵柄の浴衣と。いい絵になる予感がした。
「絵描きさん」
呼ばれて上を見上げる。お母さんは、いつの間にかいなくなっていた。
「ここからね、道の先に海が見えます」
私の位置からは見えない。
「波の、白い三角が後から後から港に来るの。毎日、それを見ています」
「毎日、ですか」
「私、病気なんです」
少女の顔を見る。何の病気だとは問えなかった。
「今は、いい薬がいろいろあるんでしょう?」
「ご存知ですか。薬って、相性があるんです」
「はい」
「私はお薬に嫌われちゃったみたいです」
少女は、海を見たままで、そう言った。私は答えに窮して、また鉛筆を走らせた。少女は、独り言みたいに話し続ける。
「なんで満ち潮と引き潮があるのか、知ってますか」
「月の関係でしょう」
「違います。山彦のせいなんです」
「やまひこ?」
「古事記です」
「ああ、海彦山彦の」
「そう」
笑うと、八重歯が見えた。まとめた髪と端正な顔に、八重歯は可愛らしいアクセントになっていた。
「兄弟が、互いの狩りの道具を取り替えて、弟の山彦が兄の釣り針を無くしてしまう。山彦は、お詫びに千本の針を差し出した」
海を見ながら少女が話す。
「海彦は許さない。どうしても自分の針を戻せと言う。元の針でなければ駄目だ。千本あっても万本あっても、その針には代えられない。もう取り返しのつかないことだった」
そこで少女は話を止めた。そしてずっと海を見ている。病にやつれた横顔が、言いようもなく美しかった。僕は話の後を引き取って続けた。
「山彦が嘆いていると、海の神様が現れて、無くした釣り針と、潮が満ちる玉と潮が引く玉をくれる。針を返してもまだ攻めたててくる海彦を、山彦はその玉で成敗して従えた」
「絵描きさん、よくご存知ね」
話している間も手は止めなかった。出来上がった一枚を郵便ポストを入れる。もう数枚、描いておきたかった。少女と町並みの備忘録としてではない。ホンちゃんの絵の為のラフスケッチでもなくて、ただ今の思いとして、この雰囲気を留めておきたかった。でもたぶん、次の公募展には、この画題で描くだろう。そういう予感はあった。
一時間、ここで過ごした。海彦山彦の話をした後は、二人黙っていた。僕は黙って鉛筆を走らせたし、少女は黙って海を見ていた。少女は、僕がそこにいることを、まるで忘れてるかのようだった。描き終えた僕は、椅子をしまってリュックを背負う。
「行くんですか」
ぼんやりと視線をくれて少女が訊く。
「他の場所も見てみたいし、次の町へも行きたいから」
手を上げた。
「有難う。いい時間が過ごせたよ」
「私の方こそ、有難うございます」
「後で、絵を見てください」
「はい。さようなら」
「さようなら」
道を下って行った。次の電車まで、あと1時間あった。
公募展で、絵は佳作になった。モチーフは海辺の町で描いたあの絵だった。あれこれ試したが、結局は置いてきたスケッチの絵と同じ構図にした。
昔、娼家だった二階屋の露台に、浴衣の少女が座っている。少女は顔を上げて遠く視線を走らせている。そこには、海がある。海彦は、貸した針をそのまま返せと無理を言う。山彦は自分の刀を針にして、千本作って許しを乞う。しかし海彦は許さない。一度、してしまったことは取り返しのつかないことだ、と海彦は責めるのだ。
少女は海を見ながら、そう話した。
「この女の子、どこを見ているの」
受賞作の展覧会で、絵を見ていた老婦人に訊かれた。その日、たまたま僕は会場に来ていた。
なぜ僕を作者と知っているのか。そう思ってまじまじ見てみると、老婦人は大学時代の恩師だった。
老婦人は僕の名前を言って、あってたかしら、と下から僕の表情を覗き見る。
「先生、ご無沙汰しています」
あってますよ、の代わりにそう答えた。
「7、8年ぶりかしら。まだ、絵を描いてるの」
「はい」
「やめなさいって、才能ないんだから」
相変わらず口が悪い。
「でも、この絵はなかなかいい」
と、外していた視線をまた絵に戻す。
「多分、先生から初めて褒められました」
「誰なの」
「それが、知らないんです」
聞いているんだかいないんだか、先生は絵に没頭している。
「この女の子、何を見てるの」
また同じ質問を繰り返す。
「海、です。視線の向こうに海があるんです」
「海」
「……うみ」
「いい絵ね。私が審査員なら入選にしたわ」
「有難うございます」
「あなたの腕じゃない。モデルがいいのよ」
一言もなかった。
展示会が終わって、私はまたあの港町を訪ねようと思った。一年たっていた。あの日と同様の夏の暑い日に、あの町並みを歩いていた。
家の露台に彼女はおらず、代わりに風鈴が揺れていた。
呼び鈴を押して、何度か声をかけたが、応答はない。数歩下がって、また二階を見上げる。風鈴の吊るしてある窓は、半分、開いていた。
「あら」と声がする。買い物かごを下げた母親が立っていた。
やはりと言うか、そんな気もしていたが、少女は既に亡くなっていた。
僕は一階の仏間に通されて、線香をあげた。その後、母親は僕に麦茶を勧めた。
「ご病気だったんですよね。あの日、娘さんから聞きました」
「体調がずっと悪かったんです。だから、あの日のことはよく覚えています。私は娘の後ろにずっと座っておりました」
「そうでしたか」
「本当は寝かせたかったんですけど、できませんでした」
首を捻ってチラと仏間を見る。
「年明けすぐでしたから、もう半年になるでしょうか」
「ご愁傷様です」
「貴方の絵、とても喜んでました。毎日、熱心に眺めていました」
「そうですか」
「今日はどうして」
「娘さんを描いた絵で賞をいただいたんです。そのご報告に」
「そうでしたか。おめでとうございます」
僕は絵を写した写真を差し出した。母親は手に取って。それを眺める。
「あの日、あの娘が海彦山彦の話をしたでしょう」
「はい」
「後ろで私も聞いていました」
「はい」
「あの娘は、山彦が針を無くしたところで話をやめてしまった。償いとして、千本の針を差し出しても、許してもらえなかったところで話をやめました」
「ええ」
それから暫く母親は黙り込んだ。やがて意を決したかのように言う。
「不躾なお願いで申し訳ありませんが、この絵、譲っていただけませんか」
そのつもりで来たのだった。展示会でも、買いたいという声はいくらかあったようだが、もう約束があるからと、僕は断っていた。先生の言うように、僕の技術だけでこの絵は描けなかった。半分以上、いやもっとかもしれない。あの絵に力を与えたのはモデルの少女だった。あの絵にふさわしい落ち着き先があるとしたら、それはこの家だと決めていた。
「よかった。実は、あの絵をもらって頂けないかと僕も思っていたんです」
お母さんは、ことの他喜んだ。
「失礼ですが、こういうことに疎いもので。お幾らお包みすれば」
「お金は頂きません」
母親は首を振る。
「それはいけません。それでは、こちらの気がすみません。まして貴方はお仕事で絵を描かれているのでしょう。でしたら」
プロはただで仕事をしてはいけない、と言うのだろう。しかし、金は受け取れなかった。
「お金はいただけません。絵はこちらに送ります。あの絵に金銭の価値はつけたくないのです」
やっと思いが伝わったのか、母親はそれを了承した。
「でも、黙っていただくわけにもいきません。あの娘の供養だと思って、もう少し話を聞いて頂けますか」
「勿論です」
母親は奥歯を噛み締めるように深く息をして、話し始めた。
「実は、あの子には姉がおりまして、結婚する運びでございました。婚約相手の男性に、あの娘もよく懐いて、これ以上ない良縁と思っておりました。しかし、二年前の夏の日に、間違いが起こったのです。あの娘と姉の婚約者の男が、間違いをおかしたのです。二人はそのことを隠しておりましたが、あの娘は既に妊娠しておりましたので、隠しきれずに。
17でございました。勿論、婚約は破棄。あの娘は堕胎手術を受けさせられて、この町に来ました。実を申しますと、私はあの娘の母親ではありません。家政婦として家に出入りしていたものです。なのにあの娘はこの町に来た時に、私に言ったんです。親子ということにしませんかって。その方が、変な詮索もされないでよいのではないですかって。そうだ、私は病気ということにしましょう。転地療養をここでしてるってことにして。迂闊に他人がきたなら、酷い病が感染ってしまうことにして。あの娘は笑って言いました。
お世話は一年の約束でした。なるべく人を近づけない条件でした。落ち着いたら三年くらい留学させて、あちらの学校を卒業させて。そうして全部なかったことにして。そういう算段でございました。
あの娘には、でも、それができなかった」
「病気ではなかったんですね」
「はい」
「では、どうして亡くなられたのですか」
「海へ入ったのです」
母親を演じてきた女性は、ここで涙に詰まり、言葉を失った。
釣り針を無くした山彦が泣いていると、海の神が現れた。山彦は海の神に連れられて、海中の宮殿についた。
外で待たされるうち、侍女が現れて水を汲む。その水を山彦が所望して、渡された器に細工する。驚いた侍女が海の姫に訴える。何事かと出てきた姫は一目見て山彦を好きになる。
二人は三年夫婦となる。三年たって山彦は海に潜った理由を思い出す。海神は、海彦の釣り針を探し出し、潮満玉と潮干玉とを添えて山彦を陸の世界へと送りだす。
あの娘は自分を山彦と重ねていたのかもしれない。姉は海彦で、かけがえのないものをなくされたのは海彦だ。山彦は奪う。海彦から何もかも。元の釣り針は返したって? 三年間、鯛の喉にかかったままで、汚れた、他人に使い古された、おそらく錆まみれの釣り針が。無事返されたって。帰ってきたって喜べって。三年経って、何事もなく暮らせって。
娘にそれはできなかったんだろう。だから彼女は、先を話さなかった。山彦がよい思いをしてはいけない。そう思っていたのかもしれない。
毎日彼女は海を見ていた。自分を見つめていた。僕の描いた絵も自分を見つめる助けとしたのかもしれない。そして、心を決めた。
帰りにもう一度、桟橋に行った。太陽はもう沈みかけていた。海に、僕は少女の見つめた白い三角の波を探した。しかし、もう、それは暗くて見えはしなかった。
了