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カーモードと宗教


チックタック。この擬音から何を想像するだろうか。言うまでもなく、時計の秒針の音である。余程の偏屈者でない限り、そう想像する。しかし秒針は、常に同じ音で時間を刻んでいるはずだ。ではなぜ人は秒針の音をチックタックと受け取るのだろうか。
「チックはささやかな創世記であり、タックは微力な黙示録である」カーモードはそう説く。
「伝統」は過去と現在の繋がりを説くが、カーモードは過去と未来を考える。これはユダヤ・キリスト教的な考え方である。「私たちが関連し合った二つの音の二番目のものをタックと呼ぶ事実は、私たちが、終わりとしての時間構造に体制と形式を与えることを可能ならしめるために虚構を用いている証拠である」と。
この虚構作用が人間の生存を保証する現実的な力となる。キリスト教が世界宗教としてある、その力の源泉は始まりと終わりを説く教典を持てているからである。創世記と黙示録。キリスト教に限らず、全ての宗教はそれを説く。そして、人間は始まりと終わりの中間に位置している。始まりと終わりの「中間者」、始まりと終わりを繋ぐ「仲介者」。この認識がカーモードの根底にある。そうだ。

で、彼はその考え方そのままに批評理論を説く。作者と読者の中間に立とうとする。絶対主義と相対主義の間にいようとする。どちらにも与せず、中間者・仲介者であろうとする。当然作者第一主義のハーシュに罵倒され、なんでもありの脱構築派からは呆れられる。そんなことが可能か。私は、カーモードのことを考えながら、日本の古典文学のことを思っていた。

君待つと我が恋ひ居れば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く 額田王

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

名高い二首である。額田王の意訳は以下の通り。

恋しいあなたを思って待っていますと、家のすだれがさわさわと動きました。ああ、あのたのお出だと思って、嬉しくて振り返ると、それは秋の風のいたずらだったのです。

万葉集の歌ですが、平安の貴族が読めば、「秋」は「飽き」の掛け言葉ととって、「ああ、あなたは私にもう飽きてしまったのでしょうか」の意味もとる。額田王がそういう気持ちで詠んだかどうかわかりませんが、平安人は必ずそう読んだ。
作者の意図はどうであったか、もはや知るよしもないが、平安人の読みが間違いとはいえない。
小野小町の歌は、もっと戦略的に意味を二つ掛ける。

一つ目。桜の花は虚しくも散ってしまいました。この世に降り続く春の長雨のせいで。

二つ目。虚しくも私の容姿はすっかり衰えてしまいました。あなたを思い、時を重ねるうちに。

絶世の美女、小野小町は生涯独身だったといいます。深草少将とか言いよるものは多くても、意中の人は来なかったのですね。小町の歌はどちらの解釈が正解ということはない。二つの意味がダブルイメージになって、哀しみを募らせるのですね。

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