03 酔っ払い
千円札を握りしめて、夜の道を走った。駅に近づくにつれ、人通りが多うなる。通りを折れて路地に入ったところで走るのをやめた。目の前に赤提灯、縄のれんを潜って引き戸を開けた。大人たちの笑い声と煙草のにおい。カウンターの端に父ちゃんが突っ伏しておった。
「おう。タツ坊か。ヤッさん。お迎えがきたよ」
飲み屋の親父さんが声をかける。でも、父ちゃんは眠ったままじゃった。
「おっさん。お迎えだってよ」
隣の男の人が、父ちゃんを揺する。
「こっちも商売じゃけ、飲ますけんどね、毎度、寝込まれちゃあ、席がまわんねえよ。ヤッさん、勘弁してよ」
親父さんも、父ちゃんを揺する。
「これ」と千円札を差し出した。
親父さんは受け取ってお釣りをくれる。ようやく目を覚ました父ちゃんは俺を見て、おう、と言うた。
「まったく、困ったもんじゃのう」
頭を下げる。
「いや、タツ坊が謝らなくてもええよ」
もうひとつ頭を下げて、父ちゃんの手を引く。千鳥足で立ち上がり、ごっつぉーさん、と叫んでおる。。カウンターから離れる時、小鉢をひっくり返し、箸を落とした。
「あ、すんません」
また、頭を下げる。
「ええよ。やっちょくから、ヤッさん頼んだど」
戸を閉める時、後ろで親父さんと客が話してるのが聞こえる。
「あの子、幾つ?」
「タツか。さあの、小六じゃなかったかな」
「あのおっさん、母ちゃんいんの?」
「前は、よう迎えに来てたけどの」
腰の辺りを支えながら歩く。でも、体重を全部預けられると支えきれん。転びそうになりながら、今日はなんとか家まで辿り着けた。
「ただいま」
「おかえり」
奥で母ちゃんの声がする。赤ん坊のハツコは今日は泣いてない。
上り框で何とか靴を脱がして、父ちゃんを部屋に引っ張り上げると、もうひっくり返ってイビキをかいておる。
「お金、足りた?」
「うん」と返事して、茶箪笥の引き出しを開けて、財布に釣りをしまう。
「お釣り、入れといたから。ハツコ、寝た?」
「今寝た」
四つん這いになって、添い寝している母ちゃん越しにハツコを見る。
小さな口をもぐもぐさせてハツコは寝ておった。
「おっぱいの夢見てんだ」
「ごめんはな。今日も行かせてしもうて」
「ええよ。母ちゃんおらんとハツコが泣くもん」
ずっと見ててもハツコは見飽きんかった。
朝、水音で目が覚めた。たたきの台所をみると、蛇口を全開にして、頭から水を被っておる父ちゃんが見えた。隣のガス台で母ちゃんが味噌汁を作っている。
ハツコを見た。音にもめげず、よく寝ておる。
「飲みすぎた。朝飯いらねぇ」
「だめよ。食べんと体が持たんけえ」
「わかったよ」
五分刈りの頭と顔をタオルでゴシゴシ拭きながら、水をガブガブ飲んで、部屋に上がってくる。わしは布団を畳んで押し入れに入れる。父ちゃんがちゃぶ台を出して座り込む。が、すぐに「新聞、新聞」と玄関に取りに行き、また座って新聞のスポーツ欄を熱心に読む。
「堀内すげえな。高校出てまだ二年じゃろ」
ちゃぶ台に、飯と味噌汁と卵焼きが並ぶ。母ちゃんは父ちゃんの弁当を詰めるために、また台所に立つ。
「タツ。今日学校休め」
「何で」
「間に合わねえんじゃ」
「俺、シンナー嗅ぐと頭痛うなる」
「そんなん慣れたら大丈夫じゃ」
「ダメよ」母ちゃんが声を出す。「タツ、学校行きな。自分が二日酔いなもんじゃから、タツにやらすコンタンじゃ」
ハツコが泣き出す。急いで飯をかっこんで、ハツコをあやしに行く。
「学校行くんよ!」
弁当を詰めながら、も一度母ちゃんが言う。父ちゃんは、声をださずに顔の前で手刀をきって、片目をつぶる。
「わかった」
ハツコを抱っこしながら、そう言うた。
「父ちゃん、ハチ、ニーでええか?」
柿の木の下で父ちゃんは熟睡しておる。返事を諦めて、ニスとシンナー8対2くらいにする。よく混ぜて木塀に塗っていく。父ちゃんが塗り残したのは、内側の半分くらいじゃった。
だいぶして、父ちゃんが起きてきた。
「頭、痛えか」
「痛い」
「向こう行って休んでろ。学校、いくんじゃねえぞ」
俺に代わって、父ちゃんが塗り始める。早いし、きれいだ。
「父ちゃん。俺の変なとこは直しといてくれ」
「ああ。早く向こう行って深呼吸してろ。学校、行くなよ」
作業場の家を出ると、川があった。降りて、顔をジャブジャブ洗う。川辺に座って深呼吸する。頭の奥がズキズキする。
川辺には丈の高い草が生えてて、黒いトンボがとまっちょる。手で払うと川を超えて向こう岸に行った。そこに、同じクラスのカナコがおった。川辺まで降りてこず、道のアスファルトの端に座って、こっちを見ておる。
「学校、行かねえの」
「タツは行かねえの」
「わしは父ちゃんの手伝い」
カナコは黙っておる。赤いスカートをはいておった。
「パンツ見えるぞ」
「エッチ!」
じゃが、カナコは座ったまんまじゃった。
「お前、何で学校行かねえの」
「学校は、おもろーないなあー」
「給食、食べんのか」
「パンは嫌いじゃ」
「ふうん」
しばらく座ってて、頭の痛いのが取れてきたんで、作業場に戻った。父ちゃんは柿の木の下で寝ておった。仕事はほとんど進んでおらんかった。
また頭が痛うなるまでに塗り終えた。戻って、父ちゃんが塗ったところを見た。やっぱり、さすが上手である。
眺めておると、父ちゃんがやってきた。終わりの方は、寝ながら俺が塗るのを見ておった。
「後でサイダーおごっちゃる」
「腹減った」
「母ちゃんの弁当食うか」
「食う」
「あっち行って食え。俺は仕事終わりの挨拶がある」
「父ちゃんは食べんのか」
「二日酔い」
柿の木の下に弁当の包みがあった。それを持ってさっきの川に行く。
カナコはおらんかったので、一人で弁当を食うた。
帰りに店があって、父ちゃんがオロナミンCを飲んだ。サイダーのことは忘れておった。
「一緒に帰ったら、母ちゃん気がつくから、お前先に帰れ」
「飲みに行っても、今日は迎えにいかんぞ」
「ええから、早う帰れ」
「こんなに早う学校は終わらんぞ」
「頭痛うなったから帰ってきたって言え」
「パチンコして飲み屋か」
「うるさいわ」
頭をはたかれた。
「これ、乗って帰れ」
後ろが荷台になっている自転車をたたく。荷台にはニスとシンナーの缶とランドセルがある。自転車に跨って漕いだ。足が届かないので、二、三回漕いでから、ついて帰ることにする。父ちゃんはもうおらんようになっていた。
家に帰ると、母ちゃんとハツコはいなかった。買い物かもしれん。弁当箱をどうしたものか迷うたが、水に漬けとくことにする。学校の帰りに父ちゃんに会ったことにすればええ。自転車もあるし。
時計を見るとまだ2時じゃった。買い物には早過ぎるような気もした。
暇なんで、ランドセルから国語の教科書を出して、漢字の勉強をする。
しばらくすると、カナコが、プリントに包んだ給食のパンを持ってきた。
「学校、行ったんか」
「退屈だから行った」
「面白かったか」
「おもろーなかったー」
ニッと笑ってカナコは帰って行った。
ああ、ハツコの健康診断に行くとか言っておったっけ。時計を見た。まだ、3時になってなかった。
みんな早う帰ってくればええのに、そう思うて待っていた。時間が経つのが、やけに遅かった。
了