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「SHOGUN」から北野映画を思う

アメリカで真田広之プロデュースの時代劇が、エミー賞独占だそうで慶賀の至りである。
「ラストサムライ」の後、真田はアメリカに渡り、地道に俳優の実績を重ね、時を待っていたのだろう。それが花開いた。
残念ながらディズニー資本の配信なので、私は見ていない。なんとか見れないものかと悔しく思う。でも金は惜しいので、ディズニー+には入会しない。
ここで言いたいのは、見てない癖に言うが、予告編とか番宣で見ただけで言うのだが、多分「SHOGUN」はいい。何がって、時代劇の様式美の話だ。
私は最近、北野武の「首」をNetflixで見たのだが、半分でやめてしまった。私の見たいものと違いすぎたからである。そこに様式美はなかった。生身の人間の、卑小な個人があるだけだった。時代劇でこれはキツかった。

それを面白いと思っていた時期もあった。
「その男、凶暴につき」は、日本映画のエポックとなった作品だと思う。誰もが言うが、北野はここで暴力の描写概念を変えた。リアルな痛さを画面で表現した。それは斬新だった。「仁義なき戦い」でさえ、その暴力シーンはある種、様式的であった。当たり前である。映画はリアル画像ではないのであるから。
「仁義なき戦い」は、暴力組織の冷徹なリアルは描いたが、暴力そのもののリアルまでは描けなかった。当たり前である。映画は娯楽なのだから。辛酸極まるリアルな暴力をそのまま描けば、それは客の離反を招く可能性がある。映画は興行なのである。客が嫌がるものを出してはいけない。客が求めるのは、せいぜい「極道の妻たち」であり、「鬼龍院花子の生涯」までなのだ。いくら実録をうたっても、「ヤクザ映画」は時代劇から派生したものであるから、そこに様式美が残り続けるのは仕方なかった。それを根こそぎ北野武はひっくり返した。

北野武の映画はそれからもずっと痛かった。なのに、ある映画で、あれ?が起こる。
北野武版「座頭市」である。この映画の殺陣は全くリアルではない。北野座頭市は石灯籠まで切るのだ。殺陣はこれまでの時代劇そのものの様式美であった。もっと言うなら、東映ヤクザ映画並みの殺陣であった。リアルさは、まるでない。現代劇なら痛さを見せつける北野映画が、ここではまるで様式美だった。痛くないのである。
しかしそれなら、様式美の殺陣の勝負なら、勝新の敵ではない。私は時代劇で最も美しく刀を扱えるのは勝新だと思っている。神業である。様式美の殺陣なら、武は勝新の足元にも及ばない。なのに武は時代劇の殺陣ではリアルを捨てた。
北野「座頭市」の殺陣のリアルでは、「木枯し紋次郎」のリアルにさえ、まるで敵わない。逃げて逃げて突き刺す、殺陣もへったくれもない市川崑の演出の方が余程リアルである。私が大好きだった北野映画から疎遠になったのは「座頭市」からだった。何故北野武は「座頭市」でリアルを採用しなかったのか。それが謎だった。

話は変わるが、「シン仮面ライダー」という映画があって、その制作ドキュメンタリーがNHKで放送された。
監督の庵野秀明は、ライダーにリアルの殺陣を求めて、現場が混乱する様が映し出されていた。庵野秀明は勘違いしてる、と思った。ライダーの殺陣は剣友会の様式美の殺陣でいいのである。だれもリアルなど求めてない。庵野秀明は全く勘違いしていた。興行成績がさほど伸びなかったのは、まさにこの殺陣が原因だと、今も思っている。

黒澤明は「七人の侍」でリアルな殺陣を求めた。それで世界から絶賛された。私はそれを非難するものではないが、少なくとも日本人があの雨まみれ泥まみれのリアル殺陣を絶賛したのは、一方にプログラムピクチャーの定番時代劇があったからだと思う。正統なくして異端はないのである。
賞賛されるものの常として、それが異端であればあるほど、正統が陳腐に見える。だがこれは本当は違うのである。正統がなくなれば、異端もまた必要とされなくなる。今回の「SHOGUN」のヒットは正統の復権だと思う。

北野武はツービートとして、本音漫才で天下をとった。人が思っているのに隠している本音を、毒舌という形で世間に暴露した。
赤信号だってみんなで渡れば怖くない。
年老いた親の面倒なんか誰もみたくない。
痛がって熱がる様は滑稽だ。
田舎もんが都会人のふりをするのは、こんなみっともないことはない。
みんな本音だ。リアルこそが受ける。リアルをみんな待っている。それを体現したのが、ツービートの漫才であり、北野映画だった。
しかし、リアルであることは、芸ではない。武が名優を使わない理由もそこにある。

現代劇である刑事物ヤクザ物で痛いリアル暴力を描いても、絵は持つ。映画の舞台がリアルであるから、馴染むのだ。だが、お伽話の、詰まるところ誰も見たことのない時代劇でリアルを語れば、それはある種のイデオロギーになる。フィクション、ファンタジーの世界に敢えてリアルを持ち込む理由を問われるからである。
竹光で腹を掻き切る痛い時代劇映画を撮れば、それは映画の世界だけでなく、社会へのある主張となる。端的に言えば、純文学になる。

多分だから、北野武は「座頭市」をリアルに撮らなかった。パルムドール賞を取ろうが取るまいが、私は北野映画は芸術映画ではないと思う。黒澤明が誰が何と言ってもエンターテイメントを撮る監督だったのと同じように、北野武もエンタメ監督だと思う。言っとくが、これは腐しているのではない。

ああ、脇道にそれ過ぎた。「SHOGUN」である。
少ないカットながら、それを見た印象は、ああここには時代劇の様式美が生きている、だった。矛盾するようなことを言うが、筋はエンタメでも、黒澤の撮る絵は様式美であった。ワンカットワンカットが絵画のように構図がきまっていた。黒澤は画家である。はちゃめちゃに見える、一見リアルとも見える「七人の侍」の殺陣シーンは、構図としては美しいのだ。どの瞬間でもスチール写真になりうる。北野武は頭がいいんで、自分の映画の構図取りも当然意識した。それが時代劇であった時、普段のシーンはいいが、殺陣のシーンは動きが早く、構図が決まらない。構図もリアルで、殺陣もリアルなら、多分見るに耐えない時代劇映画になる。北野はそれをわかっていた。舞台がファンタジーなら殺陣もファンタジーであるべきだ、と。
時代劇を見させるには、そこに様式美が必要だった。様式に則った動きなら、自然と構図は決まる。絵が決まる。だから殺陣で北野武はリアルを捨てたのだと思う。

書きながら、「SHOGUN」を絶対に、本当に見たいか、自分に問うていた。驚いたことに、別に見なくてもいいや、と自分は思っているのがわかった。なぜなら、そこにある感動を予想できるからだ。アメリカ人は、今初めて様式美としての時代劇と出会った。だが私たちは、既にそれを知っている。「鬼平犯科帳」を長く見ていたし、大河ドラマだってある。それがどんなものか知っている。

テレビでは、「SHOGUN」は時代劇の細かな所作までこだわった、セットは当時の日本を再現した、と盛んに言う。たぶんそうなのだろう。それが米人には新鮮に映った、と。その本格さがウケたのだ、と。でも、それは日本人なら当たり前のところだ。日本人に新鮮味はない。ウリにはならない。様式美様式美とそればかり声高に言うだけなら、日本人の食指は動かないだろう。

今回は自動筆記のように、ひたすらだらだら書いた。結論もへったくれもない。お付き合いいただいた方には感謝である。







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