【短編小説】和馬の母親のこと・その2 連作13
「江田さん。ちゃんとお酒抜けちょる?」
「抜けちょる抜けちょる。ええか」
はあーと津矢子に吐きかける。
「いや、やめて。ニンニク食うた? 違う意味で臭いわ」
顔を背けて、手で払う。
「な。抜けちょろう」
と、おどけ顔。
津矢子はキーと今日の集配票を渡す。
「枕崎かい」
ちらと見て呟いてから、事務所の机で受け取りのサインをする。下を向いて書きながら、言う。
「辞めるんだって?」
「あ、うん」
「勝の野郎、まだウロウロしてんのかい」
「いんや。もうたぶん、この町にはおらんけえ」
「なら、ここにおりゃええじゃない」
今年五十になるごま塩頭は、顔をあげて心配してくれている。
「社長が大甘じゃ。運転手不足だからちゅうて、あんなの雇うから」
何も言えなかった。
「ここおりゃ、ええじゃないの。ワシが言うちゃろうか」
「いや、もう迷惑はかけられんけえ」とお腹をさすった。
あの日、タチの悪い男らが事務所に来た。
「社長さん、おる」
背の高い黒眼鏡がそう言った。
「今、おりませんけど」
津矢子が言うと、隣の坊主頭が、ニヤニヤして言った。
「あんたが、矢田さん?」
「そうですけど」
「じゃ、あんたも関係者やね」
「なんですか、関係者って」
坊主頭はサイドバックからタバコを出す。
「あっちで話、聞こうか」
事業部長の河田さんが出てくる。「タバコはここで吸わんといてください。灰皿なら、あっちあるんで」
事務所の隅にある応接コーナーに連れて行き、換気扇をつける。
「矢田さん。あんたも関係者じゃから、おいで」
坊主頭が手招きする。事務長と他の従業員が、強張った顔で津矢子たちを見ていた。
一年だった。たった一年で、勝明は津矢子の何もかもをむしり取った。
何度も映画に誘われ、無理を言ってシフトに入ってもらったこともあって、仕方なく一度ならと思って津矢子は誘いに乗った。三ヶ月働いて、勝明の勤務態度は真面目だったし、テキパキよく動き愛想もよかったから。
会ってみると、勝明は明るい人柄で、冗談を言っては津矢子を笑わせた。前の職場を、悪い筋の借金で辞めたことなど、俄かに信じられなかった。ああ、この人はきっと心を入れ替えたんだと津矢子は思い、それからも誘われるままデートを重ねた。35を過ぎて、新しい縁などないと思っていた。近くに住んでいた津矢子の母は最近になって足を悪くし、県外に住む弟夫婦の元に身を寄せていた。この町には、自分と娘しかいない。津矢子がそう思い始めていた矢先のことだった。
「ツゥちゃん。んな、辛気な顔すんなって」勝明は言うのだ。「油島の事故で、旦那さん、死んじゃったんだって?」
一番触れて欲しくないことをサラリと言う。
「んな、死んじゃったもん仕方ないじゃん。俺、思うんだけど」
「なに?」
「旦那さんは、ツゥちゃんに笑ってほしいって思ってる。幸せになってほしいって思ってる」
津矢子の目をまっすぐ見て言ってくる。そして、手を握る。三度目の誘いのときだった。
そうかも知れない、と津矢子は思った。自分だけで生きて行く怖さが半分と、自分を愛してくれる人が欲しかったのが半分と。だから勝明の言葉が救いに思えた。
そして、勝明と津矢子は深い関係になっていった。
※
「お金、貸して欲しいんだけど。すぐ返す」
最初に聞いた時、驚いた。もうオートとか賭け事はやめたと聞いていたから。
「前の借金がまだ残ってんだ」
「じゃ、嘘言うて雇うてもろうたってこと?」
就職の面接の時、借金はもうないと言っていた。全部返したって。
「ほら、今月、ツゥちゃんと色々遊びに行ったりしたじゃない。で、返済金まで使っちゃってさ」
「いくらなん?」
「五万」
「そんなに」
「頼むよ。ちょっと、ツゥちゃんと付き合えて、舞い上がっちゃってさ。だって、お前ん家は花乃ちゃんいるし」
デートしてラブホ行って、そのお金は全部勝明が払っていた。そう言われると、出さざるを得なかった。それがーー。
「ね。もう五万、いい?」
二度め言われた時、流石に断った。そしたら、次の日から一週間会社を休んだ。体調不良と、連絡はくれたが、シフトの組み替えが大変だった。おおわらわの一週間が過ぎて、週明けに現れたので愚痴を言った。そうしたら、暗い顔をして、こう言うのだ。
「金策しなきゃしょうがねえだろ。ツゥちゃん貸してくれねえし」
「お金、払えたの?」
「他から借りたよ」
「ちゃんとしたとこ?」
「ちゃんとしたとこが、俺に貸すかよ」
自嘲して仕事に戻ったが、月末やっぱりお金を貸せと言う。
「お給料、出たでしょ」
「あんなもん。今月は休んで減らされたし。それに他でも借りたから、返済にいるんだよ。ツゥちゃんが貸してくんなかったから、こんなになっちゃったんだぜ。ツゥちゃんのせいだぜ」
そんなことを言って、五万七万と借りていく。みるみる貯金は減っていった。
別れよう、何度も思ったが、切り出せなかった。
「なあ、思ったんだけどさ。こんな、チマチマ毎月返済するよりさ、いっぺんに返しちゃってさ、綺麗になって、それで一から始めるのがいいと思うんだ。こんな生活、花乃ちゃんにも良くないと思うんだ。わかってる。一番悪いのは俺だって。わかってる。だからさ、いっぺんチャンスくれよ。やり直す。大丈夫だって。幸せになれるって。四人で幸せになれるって」
「四人」
「四人だろ。お腹の子も入れてさ」
勝明の借金は思ったより多かった。夫の死でもらった賠償金の額より多かった。
「本当に? 本当にこんなに借りたの?」
「闇金だからさ、利子がどんどん増えんだよ。雪だるまみてぇにさ。だから、こんなになる前に返したかったんだよ。なのにツゥちゃんが渋って出してくんなかったんじゃない。こんなに膨らんだの、ツゥちゃんのせいでもあるんだぜ」
「こんな、貯金全部崩しても、払えないよ」
「だから、家を抵当に金借りりゃあいいんだよ」
「そんな。住むとこ無くなっちゃうじゃない」
「だからツゥちゃんは、世間知らずなんだよ。今だって家のローン、毎月払ってる人いんだろ。毎月、家賃みたいにちゃんと払ってりゃ、住めるし、そのうち払い切ったら、俺らの家だよ。大丈夫。今度はちゃんとしたとこで借りるから。何しろ抵当があるんだ、借りれるさ」
口車に乗って、サインをしたのだった。
そして、それぎり、勝明はこの町から消えてしまった。
※
「うちはもう、篠田勝明とは関係ないです。辞めてもらいました」
事業部長が硬い声で言う。黒眼鏡は、「そうですかあ、残念です」と言う。「じゃあ」と私の顔を見る。
「じゃあ、矢田津矢子さん。あなた、代わりに払ってくれますね」
「なんで私が」
「だって、連帯保証人でしょ。あなた」
坊主頭が机にスッと書類を置く。連帯保証人の欄に、私の名前と印がある。
「あんた、自分で書いといて、そりゃねぇわ」
坊主頭が、トントンと指で私の名前を叩く。黒眼鏡が続ける。
「でね、部長さん。津矢子さんに、会社でお金貸してあげられませんか」
「それはできません」
「ちょ、ちょっと待ってください。お金は、借金は払うたでしょ。足りない分はローンで」
私が言うと、黒眼鏡が向き直る。
「いいえ、ぜんぜん。篠田さんからはビタ一文いただいてませんけど」
目の前が暗くなる。通帳と印鑑は勝明が持ち出していた。それが一文も返済に当てられてない。一文も。
「いずれにしても、勝明くんの個人的な借金に会社が関わるつもりはありません」
事業部長はキッパリと言った。
「だから、矢田さんの借金でもあるんですって」
「どっちにしても会社は関係ありません。関わるつもりはありません。それから、ここにはもう来ないでください。警察、呼びますよ」
「おお怖。こちらは紳士的に話してるだけじゃないですか。わかりましたよ。じゃ、引き上げます。矢田さん、今度はご自宅で」
二人は会釈して帰っていった。
「だから、気をつけなって言ったのに」
事業部長は、それだけ言って仕事に戻っていった。
貯金だけでなく家も失う。そのとき、そう悟った。お腹の子が腹を蹴ったような気がした。私は腰が抜けて、立つことができなかった。涙も、出なかった。
※
花乃には、引越しすることになった。とそれだけ言った。
「あの人のとこ?」
時々家に来た勝明と花乃は顔見知りだった。うすうす私と結婚するのではないか、と思っていたらしい。
「違う」
「ね。学校は変わらんでええ?」
呼び寄せて抱きしめた。
「ええよ」
「あの人も、この町に住んどるん?」
「あの人のところへ行くんじゃないよ」
「そうなんだ。どこ、行くの?」
「どこ行くんじゃろ。どこ行けば、ええんじゃろうね」
強く抱きしめた。
「お母ちゃん。痛いわ。痛いって、お母ちゃん」
やっと、涙が出た。
※
一回の返済額が大き過ぎて、給料では払えなかった。
「じゃ、お家、出てくしかないね。それとも、もっといい稼ぎ場所、紹介してやろっか」
坊主頭が言う。頭を振ると、
「一回飛ばすと、次大変だ。返済分も合わせて"といち"だからね。わかってるよね。次、飛ばしたら、家、出てってもらうから。うちも慈善事業じゃないんでね」
と言って、玄関から出て行く。行きしなに付け加える。
「十日したらまた来るわ。二回分の返済金用意しとくか、家の権利書用意しとくかしてちょうだいよ。払えなかったら、その場で出てってもらうから。次は兄貴と来っから。矢田さん。優しいのはここまでよ」
結局、何をどうすることもできず、十日がたった。黒眼鏡は坊主頭の他に三人の男を連れてきていた。花乃は勉強道具をランドセルと手提げに詰めた。僅かな着替えをバックに詰めて私はもう出て行くしかないと、観念していた。
「おや、用意がいい」
権利書を渡すと、代わりに通帳と印鑑を返してきた。勿論、全て引き落とされている。
「勝明さん、悪いよねえ。持ち逃げでしょ。空の通帳だけ送ってきたんで返しとくよ。じゃ、出てって」
連れてきた三人が靴のまま上がってきて、家探しを始める。見せたくないので、花乃を連れて玄関を出た。花乃は起こってることが理解できずに震えていた。後ろで黒眼鏡の声がする。
「矢田さん、まだ借金残ってるんで、落ち着いたら連絡ちょうだいよ。あ、逃げたらダメだよ。必ず探すから。うちは"といち"だから、よろしくね」
花乃の手を引いて歩き出す。でも、どこへ。どこへ行けばいいんだろう。
目や前で、車が止まった。
「どうしましたか」
窓ガラスが降りていて、油島興産の社長さんが、私に声をかけていた。
※
「昔、道楽で作った住まいがあります。とりあえず、そこに行きましょう」
車はゆっくりと高台のアパートに向かう。姿が見えてくると、花乃が声を上げた。
「素敵!」
「戦前ね、いっときあんな感じの建物が流行ったんだよ」
「魔女の家みたい」
花乃が言うので、「これ」と叱る。平吉は愉快そうに笑っている。
「古いけど、なかなか素敵なお家だよ。今日からお母さんと花乃ちゃんのお家だ」
後部座席から運転手さんの隣にまで顔をだす勢いで、花乃は身を乗り出す。
「気に入ってもらえてよかったよ」
平吉は顔を津矢子に向けた。「着いたら、事情を全部話してくれますね」
津矢子は頷いた。
「私にできることは、なんでもしますから」
それから平吉は、黒眼鏡たちと話をつけ、もう二度と津矢子の前に現れないことを約束させた。お腹の子供は、産まれると平吉が認知した。赤ん坊は父親と同じ名、和馬と名付けられた。
了