モンゴル紀行 その3
朝早くに出発したのに、けっきょくモンゴルに入国できたのは夕方近くであった。ジープに乗っていたのは全部で30分くらいで、その他待ち時間が5時間くらいあった。お盆の時期のスプラッシュマウンテンよりも酷い。とは言うものの、兎にも角にも晴れてモンゴルに入国できたわけであった。
先ほどの日本語ペラペラモンゴル人は僕たちを待っていてくれていて、合流するとすぐさま一緒に駅に向かい、チケットを買いに向かった。出発は夜、ウランバートルには朝到着する。ついに、ウランバートルである。チケットを手に入れると3人で遅めの昼メシを食べに行った。自己紹介をまだちゃんとしていなかったので、それぞれの身の上を話した。そのモンゴル人の男の人は、どれくらい日本が好きで、ビザの問題で二度と入国できないことがどれくらい悲しいかを熱く語ってくれた。なるほど、ビザには気をつけなきゃ。
その町は中心に広場と駅があって、その周囲にポツリポツリと民家がある。そこを越えればひたすらに草原である。つまり半径1kmくらいの町である。広場はというと、出店がいくつかテントを立てて食べ物を売っている。なぜかその広場の一角にはビリヤード台が10台くらい並んでいて、イカツイ男たちがビリヤードに興じている。僕が日本人だとわかるやいなや、「アサショーリュー・イズ・マイ・ブラザー!」と満面の笑みで話しかけてくる。朝青龍には兄弟がたくさんいるんだなー。
どうやら、その広場にあるホットドッグ屋のオヤジが彼の親戚らしく、ホットドッグをご馳走してくれた。街を散策して、そこらへんの子供と遊んで、放牧されてる家畜たちを眺めて(その時に見た、走りながらしていた馬の交尾があまりにも衝撃的で今でも忘れられない。)気がつくと出発時刻に近づいていた。もちろん自動改札なんてものはなく、ホームだってあるにはあるけれど、車両によっては結局降りるし、チケットはどちからかと言えば乗ってから確認される。なもんだから、なんとなく流れに身を任せたところで電車には乗れず、行き先を確認し、車両に書いてある番号とチケットの番号を照らし合わせ、ようやく自分の座席に辿り着く。
けっこう辿り着くのに時間がかかってしまい、車両に乗り込もうとした時には駅員は出発の笛を吹き、列車は緩やかに動き始めていた。と、そのとき。
草むらから大きな荷物を抱えた人影がこちらに向かって走ってくる。よく見ると、ホットドッグ屋のオヤジである。オヤジは何食わぬ顔でその荷物を僕らにパス。あらかじめ打ち合わせ済みだったようで、モンゴル人の彼は素早くそれを持ち込もうとする。がしかし、ピーピーピー!と笛が鳴り、警察が4,5人走ってこちらにやって来る。列車は止まり、呆然とする僕ら日本人。言い争うモンゴル人ふたりと警察官たち。
寝台列車は木造の二段ベットが左右に並んでいた。つまり1部屋4人で、既に折りたたみ自転車を寝床の脇に置いたおじさんが1人寝ていた。残りの3つのベットが僕らの寝床となるようだ。電気はなく、薄暗い中で差し込む月明かりが唯一の光である。
ところで、そのおっちゃんに手渡された荷物はどうやら電車に持ち込める規定の大きさを遥かにオーバーしているようで、おまけに2人はそんなこと重々承知で車内にツッコミ、強行突破を図ったようであった。見事にその作戦は警察に見つかり、あえなく荷物は車外にはじき出され、失敗となったのだが。「おまえら、なにやってんだ!余計なことするな!乗車禁止だ!」となって、その町に取り残されそうになったけれど、さすがに日本人2人を巻き添えにするのは申し訳なく思ったようで、なんとかモンゴル人の2人が折れることで事なきを得た。『密着警察24時』の現場に立ち会っているような感じで、スリル満点。冷や汗ものであった。
10時間くらい電車に揺られ、目が醒めると外は晴れた空の下に広がるウランバートルであった。ベットは硬く、快適な睡眠とはいかなかったけれど、それでもついにウランバートルに着いた歓びで、胸がいっぱいになった。横浜駅から鈍行で出発して2週間と3日の事であった。
モンゴル人の男の子は実家へと帰り(あいにく荷物は持って帰ってこれず、ほぼ手ぶらだったけれど)お世話になった元自衛官のお兄さんは、長年の夢であるモンゴルで馬に乗る、という夢を果たすべく近くの国立公園に向かった。僕はというと、ひとまず宿探しである。『地球の歩き方』(バックパッカー向けガイドブック)を片手に歩いてゲストハウスを探していると、道行く若いお姉さんたちが話しかけてくれた。モンゴルはなかなかの親日国で(それもこれも朝青龍のおかげ?)若い人の中に多少の日本語を喋れる人がけっこういたりする。日本語のガイドブックを持っていたものだから、どうやら話しかけてくれたようだ。
(ちなみに、やっぱり若いお姉さんに話しかけてもらうのは嬉しくて、ひとり旅の寂しさもあいまって、ゲストハウスの場所のみならず他愛のない会話を無駄に繰り広げた記憶がある。イチャイチャ。)
うっすらとは気づいていたのだが、どうやらこの時期はバカンスの時期であって、モンゴル人の移動も活発になっているのと同様に、旅人たちの移動もけっこう増えているようである。であるからにして、宿はどこも満室でなかなか見当たらない。そうしていくつか回った挙句に、ついにベットの一画が空いている宿を見つけた。部屋には両側に二段ベットが3つずつ並んでいて、男女相部屋で、1泊¥400である。いわゆるドミトリーというやつである。宿の名前はその名も”golden gobi”。
僕の住処は入って左手、一番奥の二段ベットの上段であった。足元にバックパックを置き、シャワーを浴びに行く。シャワーはというと、下の階にある。実は2階もあって、そこは個室の宿泊客用となっている。地下はシャワーの隣にトイレがあり、奥にはソファとテレビがあって、リビングのような感じになっている。映画を観たりボードゲームをしてくつろぐことができる。
シャワーを浴び、部屋に戻り着替えを済ませ、レセプションで今後の作戦を立てることにした。ついにたどり着いたんだもの、まずはモンゴルの夢を見なきゃ。そのフロアにはキッチンがあり、コーヒーは飲み放題で、テーブルと椅子が何セットかある。スタッフのお兄さんに話を聞くと、どうやらこのゲストハウスからモンゴルの各地へと行くツアーがあるようだ。椅子に座り、どこに行こうかと、地球の歩き方(ガイドブック)をペラペラしながらなんだか楽しくなってきてニマニマしていると、
「今着いたところ?飯食いにいかない?」
と日本語で話しかけられた。ガイドブックから目を上げるとそこには、髪を後ろで結んだ血色の良い、素敵な笑顔の日本人のお兄さんがいた。
「すぐそこに美味い食堂があるんだよ。」
そういえばまだ何も食べていなかったので、連れて行ってもらうことにした。果たして食堂のメシはとても美味く、いかにも地元の食堂といった感じでモンゴル料理を大いに堪能できた。何とも幸先の良いスタートで、これからのモンゴルの日々が楽しくなるような予感がした。
しょうごさんという名前だそうだ。日本では四国でパンを作りながら、馬頭琴のライブを各地で行っている。その馬頭琴の師匠がモンゴルにいるらしく、修行をしに会いに来たそうだ。しばらくその師匠のもとにいたのだけれども、ビザが切れそうになり一度ウランバートルに戻って来てビザを取り、また修行に出るそうだ。やりたいことをやっている人特有のイキイキとした表情とキラキラとした瞳には、何にも代えがたい輝きがあるなー、と僕はモンゴル料理を頬張りながら終始しょうごさんの表情に見惚れていた。腹ごしらえも済み、ひとまずウランバートルを散策することにした。
ところで現代において、そこがどれほど文明化された場所であるかを判断するにあたって、色と音はかなり有効な指標であるような気がする。ウランバートルはモンゴルの首都と言えども、東京やらパリやらロンドンといった世界的な都市に比べれば、それはそれはもう田舎町であり、そこには都会が覆うケバケバとした色や騒々しい音とは無縁の色合いや静寂さがあった。(朝青龍が建てたらしい、ドーム型のミュージアムはかなりゴテゴテした派手な建物だったけど。)建物は高くても5階建て、パッと見ただけでは何のお店かわからないような平屋が並ぶ。街全体はどことなく埃っぽく、30分も歩けば辺りは一面草原である。ロシアの文化的影響はかなり大きく、間違いなくアジアとは違う土壌がそこにはある。
文字はキリル文字でチンプンカンプン。食べ物はといえばピロシキのようなパイ包みの食べ物や、いかにも甘ったるそうなお菓子が陳列されている。来ている服も、日本や韓国や中国の人たちの一朝一夕で拵えた西洋の服としての”洋服”というよりも、生活としての洋服として着こなしている感がある。ついにここは、モンゴルである。
そんな風にモンゴルの空気を胸いっぱいに吸い込んでルンルン気分でウランバートルの街並みをフラフラしていた時に、ふと僕は思い出したのである。”そういえば、ゴビ砂漠に行って満天の星空を見るってことにしてなかったっけか?”そのプロセスがあまりにも長くて、途中でいろんなことがありすぎて、すっかり当初のシンプルな目的、純朴な動機がすっかり霞んでしまっていた。やっぱり旅は人生に似ている。ともすれば自分が何をしているんだかサッパリわからなくなる。
宿に戻って、さっそくゴビ砂漠ツアーに申し込むことにした。最低人数は3人でMAX6人まで。人数が集まり次第決行されるらしい。10日間ひたすらゴビ砂漠をバンで走る。すると翌日、ゴビ砂漠ツアーの参加希望者が現れた。受け付けの前でで座り込んでいる女の子がその1人とのことだっだ。
「なんか俺たちゴビ砂漠ツアーで一緒らしいんだけど…」
「あなたなのね、1人日本人がいるって聞いてたのよ!そんなことよりさ、私、なんか間違えてモンゴルのお金、すごーく細かくしちゃったのよ。だからいまツアーの料金払おうと思ってるんだけど、数えるの大変で大変で。手伝いなさいよ!」
彼女の名前はジュリアという。ケラケラとよく笑う、ドイツ人のとてもチャーミングな女の子であった。翌々日が出発日、ということに決まった。実は、ジュリアはドイツからシベリア鉄道で友人のフィリップと旅をしてウランバートルまでやって来た。そのフィリップってのが、『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドにそっくりの、それはそれはセクスィーで、かっちょいい男なのである。男が惚れる男ってやつなのである。(フィリップが旅中に着ていたカーハートは、帰国以来、僕のイチオシのブランドとなった。)んでもって、そのフィリップの友人のアレックスは、北京大学を無事卒業しドイツに帰国がてらついでに旅をし、モンゴルで晴れて友人と合流したそうな。どこがどうついでなのか、未だにちょっと意味が分からないけど。そしてそして、いろんな国で医療の仕事に旅をしながら過ごしている、これまた陽気な、でもちょっぴり哀愁の漂うスペイン人のナイーダと僕の5人が、このゴビ砂漠ツアーのメンバーであった。
出発の日になって、朝早くにゲストハウスにやって来たバンに乗り込み、ウランバートルの市街地から道なき道をガタンゴトンと揺れながら、ゴビ砂漠へと向かった。今でもこのゴビ砂漠ツアーの日々を思い出して、泣きそうなくらい嬉しくなってしまうのは、ひとえに彼ら愛しき旅仲間たちのおかげである。旅とは出会いであり、出会いとは旅である。
モンゴル人の通訳とドライバーと僕らツアー客5人を乗せて、バンは市内から南へゴビ砂漠に向かって走り出した。30分もすれば辺りには何もなくなり、だだっ広い草原となった。運転手はいつもニコニコと笑っているいかにも気のいいおっちゃん、助手席には通訳の女の子ムンゴナが乗っていた。後部座席は向かい合わせになっていて、進行方向逆向きに、僕とフィリップ、その向かい側に右からナイーダ・アレックス・ジュリアが座っていた。なぜかこのポジショニングはゴビ砂漠ツアー中変わることはなかった。
道は舗装なんてされていないから、車体は上下に激しく揺れて、勢いあまって天井に頭をぶつけることも何度かあった。最初はこの車に1日何時間も乗るなんて信じられないなんて、みんなで話していたけれど、いつの間にか気にならななくなって、それどころか揺れながら寝るという技まで身につけてしまった。2時間ほど走ったところで、どうやら最初の昼食の時間がやってきたようである。バンは止まり、ドライバーと通訳が運んできた食料で調理を始めた。モンゴル料理の印象はと言うと、どれもこれもとても美味かった気がする。ウランバートルの食堂にしろこのツアー中の食事にしろ、味付けはちょっぴり塩辛く野菜や肉がゴロゴロとしている、僕好みの料理達であった。あるいは腕のいい料理人に出くわす幸運に恵まれたのかもしれないけれど、それにしても料理が美味いとその国の印象までがガラッと変わってしまう。況んやその反対をや。もしあなたが、日本に訪れた観光客や海外の友人をもてなす機会があったならば、とにかく料理だけは細心の注意を払ってできるだけベストを尽くしてあげましょう。そこさえクリアできれば、日本に来てよかった!と大抵の人は言うんじゃなかろうか。
料理を食べ終わり、コーヒーを飲み、みんなでしばらくポケーッとしてから(アレックスは岩を登ってはしゃいでたけど。)、食器を洗って、荷物を積み込み、いざ出発。再びバンに乗り込み3時間くらいひたすらに走り続ける。基本的にはこれを10日間繰り返すのがゴビ砂漠ツアーである。トイレなんて気の利いたものがあるはずもなく、用を足す時はそこらへんのどこかである。岩場があればその陰で済ませれば良いのだけれども、辺り一面何もない時だってしばしばある。僕らメンズはなんとかなるものの、女の子達はあの手この手を使いながら、けっこう大変そうにしていた。僕らメンズはなんとかなる、なんて言ったけれど、僕に関して言えば、なんとかなるどころかすげえ気持ちよくて、用を足すのが楽しみですらあった。ゴビ砂漠は俺のものだー!と心の中で叫びながら用を足していた。いや、ホントに。あの開放感、ぜひ一度お試しあれ。
ゴビ砂漠にはいくつかの町というか村というか、集落のような場所が点在している。積み込んでいる食糧が無くなれば、そこで調達してくるわけなのだが、一体ここまでの道のりをどうやって把握しているのだろう、といつも不思議であった。辺りに目印らしい目印なんてないし、まーでも逆になにも無いから大体の方角がわかれば辿り着けるのか…いやそれにしても。その集落というのはだいたい500×500くらいのサイズで、大きくても100×100くらいである。建物は2階建なんてあるわけなく、そのほとんどが木造である。ウランバートルから日用品や食糧を調達してきて、それを遊牧民達に売って生活している。こうして時よりやってくる観光客から得られる収入もけっこう少なくないらしい。他にも家畜を飼っている家などもあるようだが、その経済システムがどのように成立しているのかは、もう僕にはさっぱりであった。
夜は車に積んであるテントを組んで寝るか、遊牧民のゲルに泊めてもらう。ゲルは1部屋に僕ら5人が寝れるくらいのスペースがあって、ベットの数は全員分あることもあれば、1つ2つ足りずクジ引きで誰かが床に寝る羽目になることもあった。中央には暖炉があり、そこにカラカラになった牛の糞を入れて燃やし暖をとる。昼は40°Cを越えるほど暑いが、夜になればセーターやらジャケットを着こまなきゃいけなくなるほど寒くなる。牛の糞をジュリアが僕に投げつけたのを合図に、枕投げならぬ牛の糞投げをして夜な夜なキャーキャー騒いだりしたりもした。(その4に続く)