討論(ディベート)のシンプルな目的

これは、筆者が大学からの帰り道にバスの中で考えたことをメモに残し、せっかくなら世間の皆さんの目に留まればとの思いでシェアしたものです。
皆さんのご意見ご感想、お待ちしております。

前提:討論には勝敗がある

ディベートというのは、どちらがより優れているのかの決断を下す

では、その優劣は何のためにつけるのか

討論の勝敗は何のためにつけるのか

相手に劣等感を抱かせ、自らに優越感をもたらすためか?
違う。

そもそも討論のテーマは優劣が決まっていてはならない。よって、本質的にはどちらが勝利するかは互いの説得力で決まる。

では、勝利を目指すこと=討論の目的か?

半分正解だと思う。本心かどうかに関わらず、相手よりも聴衆を納得させること、それ自体が討論、特にディベーターの目的。

ただ、勝敗を決することが目的ならば、例えば聴衆の中に仕込みをしておいて、予め票を買っておくことだって許されるはず。勝利さえすれば良いのだから。

では、討論の本当の目的とは何だろう?ディベートが目指すべき本当のゴールとは、勝つことであろうか?

たどり着いた一つの答え:より優れた選択をディベーター・聴衆が一緒になって出すこと

上記の通り、テーマとなっている選択肢において、どちらのほうが正しいという優劣は存在しない。

そんな不確実な問題だからこそ、異なる考えを持つ両者が議論すれば確実にぶつかり合う。

しかし私達は、そうした答えのない問に選択という決断を迫られる場合がある。その時、どちらを選ぶ方が賢明な判断と言えるだろうか?

そのヒントを提供するものこそが、討論で勝った選択肢である。

優劣のない選択肢の中で、より優れた選択肢を求めて順序をつけることで、相互のディベーター・その場の聴衆・果ては全人類が、同様の問題にぶつかったときに、より良い方向へと進むことができるようにすること。これこそが真の目的ではないだろうか?

討論は、答えのない選択肢において、より優れていると考えられるものを導き出すことで、今後の生き方へのヒントを生み出したり、世の中に新たな価値を付与することを目的としているはずである。

だから、ディベーターは仮に負けても、討論が導き出した答えに貢献したということができると思う。
勝者だけが物を言い、敗者が何も言えなくなるような討論は目的を逸脱していると言えるのではないだろうか。

私の結論:討論の目的は、未決着の2つの選択肢において、それでも選択を迫られた際の選択を助けるために、選択肢に順序をつけること

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