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繊細な人が、苦しさを感じる理由ー 「勇気論(内田樹)」を読んでー

反応について

勇気と「反応」について:前回の反応から。

反応の解像度をもう少し高めてみたいと思う。

まず、「反応」とは、刺激に対して身体が応じることを指す。身体的には、外界からの刺激が五感を通じて知覚され、それが脳で処理されることだと言える。

例えば、視覚の場合、外界の光が網膜の細胞に当たり、それを脳が処理することで見えている状態が生まれる。聴覚では、空気の振動が鼓膜や耳小骨に伝わり、それが信号として脳で処理されて聞こえるようになる。嗅覚は、嗅細胞への刺激が脳に伝わることで臭いの感覚が生じる。味覚や触覚は、身体への刺激がより直接的で直観的であり、理解しやすいだろう。

ここでお伝えしたいのは、感覚とは細胞への刺激と、その処理・伝達によって成り立っているということだ。「敏感に反応できる」という意味での「繊細である(be sensitive)」とは、これらの感覚がより鋭敏であることを意味しているのだと思う。

さて、現実世界に目を向けると、これら五感を通じた刺激に対する反応を、多くの人々が避けているように感じられる。満員電車では、人々は身体を小さく緊張させて硬くし、耳にはイヤホンを付け、目はスマホに固定して、少しでも外からの刺激を締め出そうとしている。このような光景は、道端やカフェ、ショッピングモールなど、街のあらゆる場所で一般的に見られるようになっている。

一方、田舎ではどうだろうか。人目も人工的な音も少ない環境では、都市のように五感を塞ぐ必要はほとんどない。むしろ、五感を研ぎ澄ませて自然や食べ物、目の前の人に意識を集中させることができる。

都会と田舎では、五感を開放することに対する抵抗感がまるっきり異なる。五感を塞ぐ必要がない環境が、「繊細である」ことを許容するのだ。

息苦しさを感じるあなたにとって、繊細なことがネガティブに働きやすい都会よりも、むしろ積極的に繊細さを肯定できる田舎のほうが、生きやすいのかもしれない。少なくとも私はそうだった。

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