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雑記(三七)

『万葉集』巻二に収められた柿本人麻呂の長歌に、妻を亡くした男の嘆きを述べるものがある。歌の番号は、二一〇番である。

 男は、かつて妻と暮らした家のなかで、今も嘆き続けている。すると、あるひとが男に、男の妻の居場所を告げてくる。「大鳥の 羽易の山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば」というのが、その箇所である。直訳すれば、「大鳥の羽易の山」という場所に、私の恋しく思う妻はいらっしゃると人が言うので、ということになる。

 その言葉を聞いた男は山に向かう。しかしやはり、妻の姿はそこにはない。少しも妻の姿が見えないと思うと、苦労してここまで来た甲斐もない、というところで、この長歌は終わる。

 不思議な歌である。すでに死んでしまっているはずの妻の居場所が、なぜ男に告げられるのだろうか。誰がそう告げたのかも、はっきりしない。ただ、「人」とある。妻を亡くした男に、あなたの妻は、どこそこにいますよ、と告げることに、どのような意味があるのだろうか。伊藤博『萬葉集釈注』(集英社)は、「このようにいって遺族を慰める習慣があった」という。死者が今も存命であるかのように言うことが、遺族への慰めになるという考えは面白い。しかしいささか、根拠には乏しいだろう。

 男に妻の居場所を告げた言葉は、実は、妻の葬られた場所を示すものであったのではないかと思う。妻は「大鳥の羽易の山」なる場所に葬られていますよ、と誰かが教えてあげたのだと解すれば、不自然な状況ではない。それを男は、今も妻がそこで生きているということを告げる言葉と解してしまった。妻との再会を望む気持ちの強さが、男に曲解を促した。それで、山へ向かったのだと思うのである。

 村上春樹の小説「ハナレイ・ベイ」(『東京奇譚集』)では、サチという女性の息子が、サーフィン中に片脚を食いちぎられて死ぬ。それから十年以上が過ぎて、サチは、息子とそっくりなサーファーを見たという話を耳にする。しかもそのサーファーは、息子が死んだ湾のすぐ近くにいたという。サチはすでに息子の死体も確認し、息子の死を事実として認めていたはずだが、それでも、そのサーファーを探して、砂浜を何往復も歩く。

 このときサチは、死んだ息子との再会を望んでいたのだろうか。それとも、息子にそっくりな別人に会ってみたい、と思っていたのだろうか。おそらく、どちらと決めても正確ではないだろう。死んだ息子に会えるかもしれないし、息子とそっくりな別人かもしれないし、あるいは、息子には会えないかもしれない。たぶん、息子にもそっくりのサーファーにも、会うことはできないと、思っていたのではないか。でも、歩き回るほかなかった。

 目的がなければ、体を動かせないわけではない。それは、「ハナレイ・ベイ」のサチも、「軽」の男も、同じことだ。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。