ナイロン100℃「睾丸」と二十五年
死者は一般に、生者とは完全に断ち切られた位置に座を占めていると考えられている。いや、そう言っては、死者が具体的な空間のどこかに存在しているようではないか。そうではなくて、死者は生者の側からは問いかけえぬものとして観念されている。だから、外界との対話が不可能な状態にある病人も、その意味では死者と同格であると言っていい。感情がこの直言を許さないとしても、原理としてはまぎれのないことだ。このとき、死者や病人の感情も思考も、自身によって語られることはなく、それはもっぱら対話と表現をほしいままにする生者が忖度し、代弁することによって外にあらわれるほかはない。しかし忖度や代弁の内容が正確か不正確か、問うことはできない。死霊の存在を信じない限り死者の意志は可知か不可知か以前に、存在しないと考えられているからである。意志表示の不可能な病人の場合はさまざまだろうが、ここで知りえぬものについてはないものと同然と考えるのは危険だろう。対話の点からは死者と変わらないとしても、その内面は年々と力動しているかもしれない。ただ知覚が遮断され、有効に機能していない場合には、生者のとらえうるようなない面はそこにはないと言うべきだろう。してみると多くの場合、死者の意図を汲み上げ、そして組み上げた、という表現は、事実性の保証を持たないばかりか、真偽のいずれかであるという判断そのものが封じられていると言っていい。それはついに、恣意的な想像の産物に過ぎない。どんなに真摯で誠実な祈りや情念が込められていようと、それが真実の死者の意図へ転化することはありえないのだ。くり返すが、それは真の死者の意図、なんてものがそもそも存在しないからである。
ナイロン100℃の二十五周年記念公演第二弾「睾丸」は、かつて七〇年安保の闘争においてあるセクトの指導者だった七ツ森豊(安井順平)という男が六八年の交通事故で植物状態になったが、二十年以上を経て意識を取り戻し、かつての仲間たちのもとへ現れる場面を描いていた。政治の季節、革命の時代、高度成長と若きカウンター・カルチャーの一九六八年で意識を停止させられてしまった白髪の男が、バブル崩壊後の世紀末の不況のさなかに姿を見せる。長く、その内面を問いえない存在、その意味では死者同然だった存在が、ふいに目を覚ます。生者たちが勝手に作り上げた死者像は、一番の当事者によって採点されることになるわけだ。
一九六八年から二十五年後の一九九三年、七ツ森の恋人だった亜子(坂井真紀)は、同じセクトの同志だった赤本健三(三宅弘城)と結婚しており、娘の桃子(根本宗子)と亜子の弟の光吉(赤堀雅秋)と同居している。七ツ森の率いるセクトで亜子や建三とともに活動していた立石(みのすけ)は、妻子と暮らしていた家を火事で失い、健三と亜子の暮らす家へ夫婦で身を寄せることになる。六八年の闘争以後は不法入国者の支援などを行って服役をくり返してきた立石に対して、健三は旅行会社を経営し、若き日の思想や行動とは距離を置いて生きてきた。セクトの活動の一環として上演される舞台の主演を亜子が務め、健三が脚本を書いたのはもはや過去のこととされてきたのである。
七ツ森は六八年の闘争のなかでひそかに仲間たちを反目し、体育会系の学生に活動を妨害させるなどの行動に出ていたのではないかとの疑いをかけられる。またセクトの活動資金を得るために亜子にひそかに売春をさせていた。健三や立石、亜子は七ツ森との溝を深め、その溝が埋まらぬまま、七ツ森は交通事故で重体に陥り、植物状態になってしまう。
二十五年ぶりに、自由に動き回ることのできる姿で立石や健三の前に姿を現した七ツ森は、実は自分は二年前に目を覚ましていたのに、それから今まで二人とも見舞いに来なかった、となじる。そのために、今の今まで自分の覚醒を知らずにいた、自分はその程度のリーダーだったのか、と嘆いてみせるのである。
しかし対話の不可能な状態の傷病者のもとを訪れ、こちらの動きに何ら反応を返すことのない者を見舞うことが、時にむなしいことを、観客は知っている。だから、七ツ森を事実上の死者と見なして見舞いを怠った二人を否定はできず、生活上さまざまの都合のあることから弁護をしたくもなる。しかし七ツ森は死者ではなく、しかも二十五年という歳月の時間的な記憶や実感を持たぬ状況でふたたびの登場を遂げてしまった。ここに浮上するのは、単純に見えて複雑な、二十五年という時間の経過と、それによって運び込まれ、押し流される無数の事物がもたらす混乱と空虚である。
かつて情熱をもって迎えられた、健三の筆になる舞台の脚本は、今の健三にも立石にも駄作にしか見えない。七ツ森が事故に遭うや健三に急接近し結婚までした亜子の心は今や七十八歳の霧島(廣川三憲)という老人のもとにあり、健三とは離婚が決まっている。七十年を前にした革命への熱情は失われ、個々の人間関係に基づいた感情だけが形を変えながら溶け残っている。亜子に売春させていたことを指弾された七ツ森は、どのセクトでもやっていたことなんだ、女にはそれくらいのことしかできないだろう、と抗弁する。この論法は戦時中の従軍慰安婦の設置を擁護するものに酷似している。女性の能力や役割を一方的に規定する話法も現在の常識では許容されるはずもない。しかし二十年以上も意識を奪われていた七ツ森はためらいなくこれを口にし、亜子に包丁を向けられてしまう。しかし、組み伏せられた七ツ森に馬乗りになった亜子は、恐怖にうろたえる七ツ森を前にとまどい、光吉にどこを刺すべきか訊ねてしまう。拳で殴り合うことが暴力動作の基本だった世代のあり方が象徴される一方で、これは健三の娘の世代の若者たちが金銭の授受をめぐって対立したあげくためらいなく包丁で傷をつけ殺そうとしてしまう姿と対立させられている。暴力が一方的でない対話性を持っていた、ということだろうか。
革命と恋に死ぬこと以上に、革命も恋も価値を持たなくなってしまった長大な時間の果てをどう生きるかが、目下の課題として迫りくる。一九六八年から二十五年を経た一九九八年、そしてこれが上演されている二〇一八年は、さらにそれから二十五年を経た地点に位置している。七ツ森や健三、立石、亜子、光吉が赤本家の居間で大立ち回りを演じているさなか、娘の桃子が上階から下りて来て、呆れたように、またやっているよ、と声高に口にして、またすぐに上へと去ってゆく。横溢する悲喜の感情を賭けた、当事者にとってはきわめて切実な丁々発止も、後続の世代にとってはいつも通りのやかましい騒動に過ぎない。この一言が世代間の断絶の深さを物語るように思われて印象的だった。
作・演出、ケラリーノ・サンドロヴィッチ。
二〇一八年七月二十五日、池袋の東京芸術劇場にて。
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