雑記(四五)
夏目漱石の『坊っちやん』には、中学校の生徒たちの態度に対する失望や怒りを述べる部分が、いくつもある。特に前半に多い。
読者は主人公の目を通してしか内容に触れることはできないから、なるほど、学生たちの態度はひどいものだ、と憤慨しながら読むことになる。教頭の「赤シャツ」などにも腹は立つが、話の通じないところはこちらのほうが手に負えない印象だ。
それが、漱石の実感に基づいたものであったらしいことをうかがわせる文章がある。『定本漱石全集』(岩波書店)の第十六巻「評論など」に収められた「愚見数則」である。この文章は、同書「後記」によると、「『保恵会雑誌』第四十七号(愛媛県尋常中学校保恵会、明治二十八年十一月二十五日)の「雑録」欄」に掲載された。単行本には収録されず、昭和三年の『漱石全集』第十五巻に最初に収録されたのだそうだ。
「昔しの書生は、笈を負ひて四方に遊歴し、此人ならばと思ふ先生の許に落付く、故に先生を敬ふ事、父兄に過ぎたり、先生も亦弟子に対する事、真の子の如し、是でなくては真の教育といふ事は出来ぬなり、今の書生は学校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かゝる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況んや番頭丁稚をや、薫陶所か解雇されざるを以て幸福と思ふ位なり、生徒の増長し教員の下落するは当前の事なり」。
昔の書生は、あちこちを見てまわって人を選び、この人は、と思う人物に師事した。だから、先生に対する尊敬は、父兄に対する尊敬を上回っていたのであるが、今の書生たちは学校を旅館のように思っていて、教員のほうが書生の機嫌を取っているありさまだ、という。
「教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶誤りを教ふる事なきを保せず、故に生徒は、どこまでも教師の言ふ事に従ふべしとは云はず、服せざる事は抗弁すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一点の弁疏を容れず、己れの非を謝するの勇気は之を遂げんとするの勇気に百倍す」。このあたり、黒板に教師を愚弄するような文句を書かれて憤慨する『坊っちやん』の論理を思わせる。
年譜によると、これが発表された明治二十八年、すなわち一九八五年、漱石は四月に高等師範学校と東京専門学校の職を辞して愛媛県尋常中学校に赴任している。十一月に「愚見数則」が出たが、翌年四月には同校を辞して第五高等学校の講師になっている。
なお、この直前の、「月給の高下にて、教師の価値を定むる勿れ」という箇所に、『定本漱石全集』は注を入れて、「帝国大学出の漱石の松山中学での月給は八十円であり、校長・教頭の六十円よりも高かった」と書いている。「注解」の執筆は小森陽一。この注は、「主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況んや番頭丁稚をや」を読むにあたっても、思いかえしてみたくなるところだ。